ナタリーってこうなってたのか (YOUR BOOKS 02)
- 作者: 大山卓也
- 出版社/メーカー: 双葉社
- 発売日: 2014/08/20
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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Kindle版もあります。
- 作者: 大山卓也
- 出版社/メーカー: 双葉社
- 発売日: 2014/09/05
- メディア: Kindle版
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内容紹介
月間3000万強のPVと90万人のTwitterフォロワーをもつ、ポップカルチャーのニュースサイト「ナタリー」。
大ヒット映画『モテキ』の舞台にもなるなど、カルチャーファンからの認知は絶大だが、ただ閲覧者が多いのみならず、「ナタリー、ありがとう! 」と単なるニュースサイトの枠を超えて「愛され」ている稀有な存在でもある。
星の数ほどあるメディアの中で、なぜナタリーだけがここまでの「共感」を勝ち得たのか?
その秘密を、創業者にして音楽ナタリーの編集長でもある大山卓也氏が初めてちゃんと振り返る、待望の初単著。
ニュースサイト『ナタリー』をつくってきた人、大山卓也さんの話。
この本を読んでいて感じたのは、『ナタリー』は、新しいメディアのようにみえて、実はそうじゃないんだな、ということでした。
そこで行われているのは、既存のメディアで「本来、行われているべきこと」を、インターネットのスピード感でやっているだけ、なんですよね。
ナタリーは開設当初から、ひどく”普通”のメディアだったと思う。エポックメイキングな試みや斬新なアイデアなどは特になく、やっていることは日々のニュース配信がメイン。他にコンテンツらしきものといえばインタビュー主体の特集記事をいくつか組むという、ただそれだけ。現在に至るまで劇的な成長曲線を描いたこともなく、ぬるっとここまでやってきた。ドキュメンタリーになるような企業ドラマとはまったく無縁だ。
記事やコンテンツの内容も、だいたいが平熱で淡々としたものばかり。昔のロック雑誌みたいに自分の人生と絡めて音楽を語ったり、アーティストへの思いの丈を熱くアピールするようなスタンスの記事は皆無だ。奇をてらったことは何もせず、ただ淡々と取材をして、ただ淡々と書いてきた。やっていることは常に変わらずシンプルなまま。だけどみんなが見てくれる。それはいったいなぜなのか――。情報自体へのニーズはもちろんあるだろうが、それだけではないような気もしている。もやもやとサイト全体から立ちのぼってくる「ナタリーらしさ」としか言いようのない何か。言うなれば気配のようなもの。ナタリーの読者はそれを愛してくれているような気がするのだ。
大山さんは、「読者との距離の近さ」として、ニュースを配信したあとに、twitterなどで、「ナタリーさん遅いよ!」とか「ナタリーさんありがとう!」というようなフィードバックがやってくることを紹介しています。
月間3000万PV(ページビュー、閲覧数)というのは、ヤフーのような「大巨人」には敵わないとしてもかなり大きな数字であり、音楽業界にも影響力があるメディアであるにもかかわらず、「ナタリー」には、そんな声が届きそうな感じがするんですよね。
大山さんは、ネットでの発信をはじめる前に、メディアワークス(現KADOKAWA)に入り、『電撃プレイステーション』編集部で、雑誌編集者としてのトレーニングを積んでキャリアを重ねておられます。
そしてこの時代に学んだことのひとつが「編集者の仕事は自己表現ではない」という思想だ。ゲームの紹介や攻略記事を載せる雑誌なのだから、当然読者が求める価値は情報そのものにある。例えばゲームクリエイターのインタビューで尊重されるべきはあくまでもクリエイターの思想であって、編集者が前に出て自分の意見を語るのは恥ずかしいことだと思っていた。それがこの職場で身につけ、今のナタリーにも直結している。編集者としての自分の根幹を成すスタンスだ。
この「自ら批評をしない」ことを、大山さんは、ずっと自らに課し続けているのです。
実際にネットで発信をしている僕としては、「自分をアピールしたい、という欲求」が無いかのようにふるまっている大山さんが、なんだか異世界の人のように思われるんですよね。
わざわざネットで、自分のニュースサイトをつくって、でも、徹底的に自分の色を出すことを拒んでいるっていうのは、なんだか司馬遷をはじめとする、中国の歴史家みたいだな、と。
この本を読んでいたら、そういう欲求が先天的に少ない人なんじゃないかな、とも思うのです。
大山さん自身も「編集権」を握って、採用するニュースを選んだり、その取り上げかた、順番を決めたりすることそのものが、編集者の「主張」を反映したものであることは、百も承知のはずです。
それでも、そこで開き直らずに「時代の記録者」であろうとしているのだよなあ。
『ナタリー』が見つけた「鉱脈」について、こんな記述があります。
ニュースが売れた(『ナタリー』の記事を『Yahoo! ニュース』などに掲載してもらい、PV(ページビュー)の対価に配信料を受け取るようにした)ことによって月々の収入が確保できたことは、もちろんとても大きい。だが、それ以上に自分を勇気付けてくれたのは、「ニュースが売れた」=「自分たちの作っているものを必要としてくれる人がいた」という事実だ。各社へのプレゼンの席で印象的だったのは、ナタリーの記事の切り口や扱う対象に関して「独自性がある」という反応が多かったこと。当時からナタリーは「明日の『笑っていいとも!』に奥田民生が出演」とか「『婦人公論』の5月号に竹内まりやのインタビュー掲載」というような「他のニュースサイトには載っていないが、ファンなら絶対知りたい情報」を細かく扱うようにしていた。ナタリー以前は「テレフォンショッキング」のゲストの情報がニュースになるなんて、誰も思っていなかったのだ。しかし同じアーティストのファン同士が、例えば学校で「お前、知ってる?」と話すのは、だいたいそういう種類の話題のはず、ナタリーではそうした”ファンならではの実感”をもとに記事を作っていたし、自分が欲しかったのはそういうメディアだった。だからこそ、ファンでなければスルーしてしまうような些細なポイントを突いた取材をいつも心がけていたし、仮にレコード会社から送られてきたプレスリリースをもとに記事を書くときでもそれは同じだった。自分たちが大切にしていたファン目線での発信スタイルをいろいろな媒体に評価してもらえたことは、当時のナタリーにとって大きな自信となった。
ああ、確かに、ネットで情報発信をしていると、最初は「ファンならではの実感」に基づいていても、規模が大きくなるにつれて、「既存のマスメディアをそのまま小さくしたようなもの」になってしまいがちです。
ネットの即時性や、情報をこまめに送れることのメリットを考えると、「テレフォンショッキングのゲスト」なんていうのは、「興味がある人なら視たいけれど、自分からアプローチして毎回調べるほどではない」という「盲点」ではありました。
ネットから「情報発信」をはじめた人の多くは、「情報のコピー&ペースト」を行うことや、他者が流している情報の「裏取り(自分で確認すること)」を省略することに対して、違和感を持っていないんですよね。
それは他人事ではなくて、僕自身もそうなのです。
(まあ、そこは「メディア」と「個人のブログ」の違いがあるのはしょうがない、と思いたいのですが)
既存のメディアからネットメディアにやってきた人たちも、「ネットの緩さ」「コピー&ペースト文化」に慣れてしまって、横並びの情報を出すことに慣れてしまったり、ベテランの場合は「ネットのスピード感」についていけなかったり、というのが現状です。
雑誌編集者として、既存のメディアで「取材のイロハ」を習得し、それを愚直なまでにネットメディアの「緩さ」に毒されずに続けている大山さんは、既存のメディアとネットメディアの過渡期に生まれた、両者の「もっとも優れたハイブリッド」のように僕には思われました。
とはいえ、この本での、『ナタリー』のスタッフの仕事ぶりを知ると、「このペースで、大山さんも、スタッフも走り続けていられるのだろうか……」と心配にもなるんですけどね。
この本のなかで、大山さんは「ナタリーのスタンス」について、こんな事例を挙げています。
「恋愛禁止」の原則を破ってしまったアイドルが、頭を丸坊主にしてYouTubeの公式チャンネルで謝罪をしたことがあった。その話題がウェブを通じて流れてきたとき、自分は編集部にいて、すぐに「ナタリーには丸坊主の画像は載せないし、YouTubeへのリンクも貼らない」と決めた。スポーツ新聞や週刊誌、テレビはその画像を公開処刑のように使いまくっていたが、ナタリーでは坊主にした件には一切触れず、ただ「グループ内で研究生に降格処分となった」という事実だけを伝えるにとどめた。記事中の写真は我々が持っている彼女の写真の中で一番かわいいと思うものを選んだ。とにかくPVや視聴率を稼ぐためにインパクト重視の下品な記事を載せるメディアの姿勢がイヤで仕方なかった。ナタリーは”そこに乗っからない”メディアでなければならないと思っていた。
この項には「無色透明でありたい」というタイトルがついています。
これを読みながら、僕は大山さんの姿勢に共感せずにはいられなかったのです。
実際に経営をやっている側からすれば、ショッキングなネタや「釣り」を使ってでも、来訪者を集めてお金を稼ぐことの魅力に抗うのは、本当に難しいことだと思うし。
いまのネットメディアの世界では、こういうスタンスこそが、ナタリーの「色」であり、「個性」でもあるのです。
みんなが黒や赤なら、「無色透明」のほうが、かえって目立つ。
『ナタリー』が愛されるのは、「やるべきことを、きちんとやっている、数少ないネットメディア」だからなのでしょうね。
ただ、「雑誌編集者とサイト運営者の絶妙なハイブリッド」である大山さんのような存在は、もしかしたら、ものすごく幸運で、稀有な存在なのかもしれないな、という気もするのです。