- 作者: 安田浩一
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2015/05/20
- メディア: 単行本
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Kindle版もあります。
- 作者: 安田浩一
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2015/06/19
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内容紹介
2013年の新語・流行語大賞にノミネートされた「ヘイトスピーチ」なる現象は、年を追うごとに拡大している。
当初は、東京・新大久保界隈における在日韓国・朝鮮人に対しての罵詈雑言ばかりが注目を集めていたが、いまや対するヘイトスピーチは全国規模に拡散。また、Jリーグのサッカー会場に貼られた「JAPANESE ONLY」という横断幕が、民族・国籍の差別を助長するとして問題視されもした。さらに、ヘイトの矛先は、中国やイスラムにも向けられている……。
はたして、被害者を生み出すばかりの「排外主義」、この拡大を食い止める術は、あるのだろうか?
ネットの中で醸成された右翼的言動、いわゆる「ネトウヨ」が、街頭デモにまで進出してきたのは何故なのか? その代表格とされる「在特会」とは一体、どんな組織なのか? デモに参加するのはどんな人たちなのか?
こうした幾つもの疑問に答えるのが、本書。在特会問題を取材しつづけ、2012年には『ネットと愛国』で講談社ノンフィクション賞を受賞した実力派ジャーナリストによる、「ヘイトスピーチ」問題の決定版!
著者・安田浩一さんが書いた『ネットと愛国』は、ヘイトスピーチの現場の様子や、日本で、とくにネットを通じて拡散していった経緯を描くと同時に、「ネット上でヘイトスピーチをやっているのは、どんな人々なのか」を粘り強い取材で描いた本でした。
こうしたデモにおける”抗議対象”は、在日コリアンをはじめとする定住外国人に加え、韓国、北朝鮮、中国などの近隣諸国であることがほとんどだ。
昨今では「すべての外国人を入国禁止に」「ヒトラーを見習え」といったスローガンのもと、ハーケンクロイツを掲げて街頭を練り歩く集団まで現れた。
「これからはナチズムだ」
”ヒトラー生誕の日”に合わせ東京・池袋でおこなわれた2014年4月20日のデモでは、日本とドイツの名誉回復をするぞ」といったシュプレヒコールも飛び交った。排外主義を煽り、外国人への露骨な差別と偏見を主張するのが、これらデモの特徴である。
毎回、デモ参加者は100名前後、200名を超える規模も珍しくはない。その多くはネット掲示板や保守系ブログなどの告知を見て集った、もともとは”ネット右翼”と呼ばれる者たちだ。下は10代から上は60代と思しき高齢者層まで、コワモテ風もいれば、おたく風の若者もいる。女性の数も少なくない。
僕はこれを読んで、唖然としてしまいました。
「ヒトラーを見習え」って……
第二次世界大戦で、日本とドイツは「同盟国」ではありましたが、ヒトラーの思想的には、日本人だって「差別対象」だったはずです。便宜上手を組んでいただけで。
戦時中、アメリカでは移民や日系人たちが収容所に入れられ、差別を受けました。
こういう人たちは、つねに自分たちが「差別する側」にいられる、という妄想にとりつかれているとしか思えない。
歴史を学んでいれば、ナチズムは、結果的に誰も幸せにしなかったことがわかるはず。
それを信じていた人たちさえも。
もちろん、戦争に勝っていたら、と思っているのかもしれないけれど、歴史上、極端な排外的政策をとる国が長期にわたって繁栄したことはありません。
人的資源を有効に利用できないのだから。
目の前の「敵」を意識しているからだろうか、大型の拡声器を使って叫ばれるシュプレヒコールは、思わず耳をふさぎたくなるものばかりだ。
「朝鮮人をガス室に送れ!」
「クソチョンコを八つ裂きにして家を焼き払うぞ!」
「朝鮮人はブッサイク!」
「ゴキブリチョンコを日本から追い出せ!」
えげつない言葉を連呼しながら、デモ隊は白昼堂々と街頭を練り歩く。
こういう「デモ」が「言論の自由」として認められ、警察によって保護されているのが日本の現状なのです。
いまはこういう差別的な集団に対するカウンターデモも増えていますし、ある意味、「みんな飽きてきている」面もあるのでしょう。
ただ、それって、「慣れてしまって、危機感が薄れている」ともいえる。
やれやれと溜め息をついて前方に目をやれば、そこには韓国食材を扱う商店があった。店の前に丸椅子を並べて、数人の老人たちが腰を下ろしている。
皆が皆、うなだれていた。何かに打ちひしがれたように、背を丸め、膝の上で両手を組み、押し黙っていた。
「チョンコ! ゴキブリ!」とデモ隊の絶叫が、路地に響きわたる。老人たちは微動だにしなかった。嵐が過ぎ去るのをじっと待っているかのようにも見えた。
そうなのだ。ただじっと、やり過ごすしかないのだ。「出てけ」と言われても他に行く場所などない。ここで生まれ、ここで育った人たちだ。私と違って、耳障りだからと逃げ出すこともできない。
ヘイトスピーチの対象となれば、命の危険も感じるし、プライドもズタズタに引き裂かれる。
その「個々の人々の痛み」を、差別する側は想像できない。
この新書『ヘイトスピーチ』は、「いま、日本で行われているヘイトスピーチ」についてのルポルタージュ、なのですが、読んでいるだけで、なんだかとてもやりきれない気持ちになってきます。
他の多くのネット右翼がそうであるように、彼もまた、ネットに触れるまでは政治に対して無関心だった。
「どちらかといえば政治信条は左に近かった」
私の取材には、そう答えている。
その彼が政治に目覚めたきっかけは、奇しくも新大久保一帯に新たな賑わいをもたらした、2002年の日韓ワールドカップだった。ベスト16にまで勝ち進んだ日本は、準々決勝を賭けてトルコと対戦、惜敗する。このときテレビに映し出されたソウルの街頭風景に彼は「〓然とした」という。
「市庁舎前の広場に集った群衆が、日本敗退の瞬間に大喜びしていたんです。そんな韓国の反日感情にショックを受けました。せっかく共催という形でワールドカップがおこなわれているのに、なぜ日本が負けたことをこんなにも喜ぶのか。それがきっかけで韓国に不信感を持ち、ネットを通じて日韓関係、あるいは日韓の歴史を学んだんです」
嫌韓に傾いたきっかけを、この年のワールドカップとする者は少なくない。それまで上から目線で「アジアの小国」としか認知していなかった韓国の存在を「発見」し、そして韓国民のナショナリズムを目の当たりにし、徐々に「敵」として見るようになったのだろう。
「韓国チームのラフプレーに怒りを感じた」「日本への敵意に腹が立った」サポーターの熱狂ぶりが怖かった」という言葉を、在特会員への取材の過程で何度も耳にしている。
韓国へのヘイトスピーチが、日本で露わになってきたきっかけとして、著者は「2002年の日韓共催ワールドカップ」を挙げています。
韓国寄りの不可解な判定が多かったのは事実ですし、こちらはベスト16で、あちらはベスト4まで進出した、という成績の違いもありました。
僕にとっても「日本の敗退に大喜びする韓国のサポーター」の映像は、けっこう衝撃的だったんですよね。
歴史的な経緯もあり、好かれていないだろうな、というのは百も承知。
とはいえ、この大会は「共催」であり、成功させるために協力していこう、というのが「暗黙の諒解」だと思っていました。
なんのかんの言っても、日本のメディアでは、「共催国の韓国を応援しよう!」あるいは、応援まではいかなくても、「負けろ!みたいなことは言わないようにしよう」としていたんですよね。
ところが、あちらは、遠慮なし。
正直、「これは仲良くするのは難しいだろうな」とは思いました。
「敬してと遠ざける」くらいが、お互いにとって幸福な関係なのかもな、と。
しかし、ネットで「情報収集」しているうちに、過激な「反韓」にのめりこんでいった人たちもいるのです。
ネットの怖いところは、「自分にとって都合の良い情報が、そうと意識しないままに集ってしまうこと」なのです。
また、別の幹部は、たまたま地元のスーパーで見かけた外国人向けの「免税」の看板に反応し、これが「在日特権」だとツイッターに書き込んで赤っ恥をかいたこともある。
彼は「免税店は空港だけにあるもの」と思い込んでいたらしい。だからこそスーパーの店内でハングル文字と英語で記された「免税」看板を目にした瞬間、即座に「特権」糾弾へと向かうことになったのだ。
ツイッター界を揺るがせた”珍事件”について触れよう。2014年夏のことだった。ツイッターユーザーの男性がラーメンの画像を添付したうえで「ソウルフード」とツイートした。彼にとって、ラーメンこそがまさにソウル(魂)とも呼ぶべき愛着ある料理なのだろう。ただそれだけのツイートである。
ところが――これにネット右翼が噛みついた。
「日韓断交」なるユーザーネームを持つ者が、前出の男性に向けて次のようにツイートしたのだ。
<ラーメンは日本の食文化です。勝手に韓国料理にしないで下さい。貴方は在日朝鮮人ですか? 盗人猛々しいにも程があります!>
当初、このツイートを目にしたとき、私は意味が分からなかった。十数秒ほど文章を凝視し、ようやく気が付いた。この人物は「ソウルフード」といった他愛のないツイートであったにもかかわらず、即座に「在日」警報のようなものが自身の中で鳴り響き、「ラーメンは日本の食文化だ」と反論してしまったのだろう。
笑い話のような感じなのですが、こういうツイートに対しても「賛同」する人が少なからずいたのです。
「ソウルフード」って、耳慣れない言葉、なのかなあ。
考えてみれば、僕も『美味しんぼ』で知った言葉なので、案外知らない人も多いのかもしれませんが。
正直、「○○人はゴキブリ!」なんて往来で叫んでいるような人は、どう考えても「まともではない」のではないかと思っていたのですが(そういう言葉を口に出す時点で、できれば接触したくないタイプの人ではあるのです)、安田さんが人と人として接触してみた彼らは、拍子抜けするくらい「普通の人」だったそうです。
そう考えると、僕自身も、何かのきっかけで、例えば、家庭がうまくいかなくなって、ひとりぼっちになるとか、病気で働けなくなるとか、あるいは、そんな大きなイベントじゃなくても、ちょっと『閃いた』ことで、あちら側に行ってしまうかもしれないな、と思うのです。
ナチスによるホロコーストにしても、最初から多くのドイツ人が、あんなことをやりたがっていたとは思えません。
でも、どこかで、堰を切ったように「虐殺」をも肯定する空気が生まれて、広まってしまった。
パキスタン出身のクレシ・アブドルワハブさんは、著者にこんな「苦い思い出」を語っています。
5年前、次男が小学校6年生の時だった。学校でクラスメイトが次男をからかった。
「お前、腹に爆弾巻いてる?」
クラス中がどっと沸いた。担任の教師も一緒になって笑っていた。周囲の誰一人、次男をかばうものはいなかった。
次男は何も言い返すことができなかった。それ以降、次男は一時、不登校になってしまったという。
「うちの子の事例は氷山の一角かもしれません。日本で生活している中東出身者や、その子どもたちの多くが同じような嫌がらせに遭っているのではないでしょうか。特に子どもはどんなにひどい言葉を投げつけられても、言い返すことができません。多くの場合、黙っているしかないのですよ」(クレシ)
「差別意識」を露わにしている人たちを、「何あれ?」と嘲笑し、優越感にひたるのは簡単なのだけれど、そういう僕だって、「真っ白」ではない。
この教室にいたら、「そんなことを言うな!」と子供に言うことができただろうか?
「しょうがないな……」なんて、ヘラヘラと苦笑いを浮かべていただけではないだろうか?
ヘイトスピーチを行う集団が出てくる背景には、こういう「ヘイトスピーチを『ちょっとしたからかい』とか『冗談』としてやり過ごしてしまおうとする社会」があるのです。
彼らは「突然変異」ではない。
私は当初、聞くに堪えないヘイトスピーチの”主体”に関心を持ち、主に在特会を追いかけた。彼ら、彼女らが何者であるのかといった視点で取材を重ねた。
様々な人間がいた――結論を言えば、この一語で十分に事足りる。もちろん各人にはそれぞれの「物語」があり、身勝手ではあるけれど、自身の差別性を肯定するために必要な言葉も有していた。そのことに関しては『ネットと愛国――在特会の「闇」を追いかけて』(講談社)で緻密に描いたつもりだ。
だが、いまは加害者分析に時間をとられる必要を私は感じていない。というのも、差別煽動の主体はもはや在特会だけに限定されないからだ。
この新書に関しては、ページ数の制限もあるのでしょうし、安田さん自身が彼らのとの戦いに疲れ、ヘイトスピーチの被害者たちの深刻さと、加害者のあまりの無責任さに憤っていることもあり、「加害者たちとの断絶」を感じました。
安田さんは、いままでずっと「ヘイトスピーチ」を行っている側の事情にも目を向けていた人なのに。
これまでの経緯を考えると、そりゃ、安田さんもイヤになるだろうな、とは思うけれど、その一方で、こちら側とあちら側を懸命に繋いでいた細い糸のうちのひとつが切れてしまった、という感じもするのです。
- 作者: 安田浩一
- 出版社/メーカー: 講談社
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