すべての教育は「洗脳」である 21世紀の脱・学校論 (光文社新書)
- 作者: 堀江貴文
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2017/03/16
- メディア: 新書
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すべての教育は「洗脳」である?21世紀の脱・学校論? (光文社新書)
- 作者: 堀江貴文
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2017/03/17
- メディア: Kindle版
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内容(「BOOK」データベースより)
学校とは本来、国家に従順な国民の養成機関だった。しかし、インターネットの発達で国境を無視した自由な交流が可能になった現代、国家は名実ともに“虚構の共同体”に成り下がった。もはや義務教育で学ぶ「常識」は害悪でしかなく、学校の敷いたレールに乗り続けては「やりたいこと」も「幸せ」も見つからない。では、これからの教育の理想形とはいかなるものか?「学校はいらない」「学びとは没頭である」「好きなことにとことんハマれ」「遊びは未来の仕事になる」―本音で闘うホリエモンの“俺流”教育論!
「洗脳」という強い言葉に、堀江さんの「学校教育による画一化や価値観の押しつけ」への憤りがあらわれています。
堀江さんは僕と同世代で、中学校時代に体験した、あるエピソードを語っておられます。
小中学校では「給食は残さず食べなければならない」「廊下を走ってはあらない」「先生とすれ違うときは挨拶をしなければならない」など、人権侵害スレスレの禁止令もたくさんある。
僕自身が体験した、象徴的なエピソードを紹介しよう。
中学1年生の時のことだ。その日は雨で、校庭での体育の授業が中止になった。代わりに僕たちは、教室で教育ビデオを見せられた。ビデオの内容は覚えていない。ということはやはり退屈な内容だったのだろう。
ビデオを見終わった後も、さらに教室の退屈な話が続いた。僕は眠くなった。話を聴きながら自然とあくびをしていた……次の瞬間、目から火花が散った。教師が、僕の頭を殴りつけたのだ。しかもゲンコツは2発、3発と続いた。
「社会ってこういうものなのか!」
殴られながら、僕は心から驚いた。眠くてあくびをしただけで、ボコボコに殴られる。それが当然とされるのが学校であり、それを内包する社会の姿なのだ。僕はその後も幾度となく、くだらない理由でタコ殴りにされた。
教師はきっと、「目上の人が話している時に、気をそらしたり、眠気をあらわにしたりするべきではない」という「禁止」を、体罰という形で僕の身に叩き込んだつもりなのだろう。
あれをしてはダメ、これをしてはダメ、と禁止のルールを増やしていくことは、非常にコストの安い教育手法だ。教師たちは難しいことを考えず、ただ禁止の柵からはみ出した者を叩いておけばいい。
禁止のルールを十分に身につけた子どもたちは、晴れて常識人として、そして凡庸なジェネラリストとして社会に出ていくことになる。そして彼らは、大人になってからも自分で自分にブレーキをかけ続けてしまうのだ。
1970年代から80年代くらいは、まだ「体罰による指導」は、大怪我をさせるようなものでなければ、容認されていた時代でした。
僕はどちらかというと、「凡庸なジェネラリストとして、少しでもマシに生きる」という子どもだったので、そんなにタコ殴りにされていたわけではありませんが、それでも理不尽に感じたことはたくさんありました。
でも、「学校なんていらない」とも、思わないんですよね。
今の学校のありかたには、改善の余地はあるとしても。
自分の子どもをみていると、人間が「やりたいこと」をできるようになるためには、あるいは、何かに興味を持つためには、「環境」が必要なのだな、と感じます。触れたことがないものに人は興味を持たないし、子どもが触れるものには、周囲の影響がある。
たしかに、学校には、国家が軍人や工場労働者になれるような「一定の能力を持つ人間を型にはめて育成する」という面もあります。
しかしながら、「やりたいこと」だけしかやらない人は、本当にやりたいことで生きていくのは難しいのです。
僕はイチロー選手がこんな話を以前されていたのを記憶しているのです。
「キャッチボール~ICHIRO meets you」(「キャッチボール~ICHIRO meets you」製作委員会著・糸井重里監修)より。
イチロー:これね、大事なことなんですよ。
僕がよく小さい子に言うのは、「野球がうまくなりたかったら、できるだけいい道具を持ってほしい。そしてしっかりとグラブを磨いてほしい」ということと、「宿題を一生懸命やってほしい」ということ、なんですね。
宿題をやる意味は、宿題そのものだけではないんですよ、実は。
なんでぼくがそれを大事だと思っているかというと……大人になると、かならず上司という人が現れて、何かをやれ、と言われるときがくると思うんですね。
子どもにとっていちばんイヤなことは、勉強することなんです。
よっぽど勉強が好きな人はおいておいて、キライなことをやれと言われてやれる能力っていうのは、後でかならず生きてきますよ。
ぼくが、宿題を一生懸命やってよかったなと思うのは、そこなんですね。
プロ野球選手という個人が優先される場所であっても、やれと言われることがものすごくあるわけです。だったら、一般の会社員になって、そんなことは毎日のことのはずです。だから、小さい頃に訓練をしておけば、きっと役に立つと思うんです。
やれと言われたことをやる能力を身につけておけば、かならず役に立つ。
「自分は野球が好きだからそれだけやっていればいいや」といって宿題を放棄してしまったら、おそらく、後で大変な思いをすると思うんですよね。
堀江さんとイチロー選手のどちらかが正しい、間違っている、というわけじゃないんです。
でも、お父さんの厳しい指導のもと、好きな野球ばかりやっていた、というイメージを持っていたイチローさんが、「宿題」をやること、「キライなことをやれと言われてやれる能力を身につける」ということの重要性を語っておられたのは、すごく印象的でした。
もちろん、理不尽な体罰や決まり事に盲目的に従う必要はありません。
それでも、人間のなかで生きていく以上、避けられない「やりたくない、めんどくさいこと」っていうのはあるわけで。
大部分の人は、堀江さんにもイチローさんにもなれないわけです。
グローバル社会では、学校での画一的な勉強なんて必要ない、とは言うけれど、IT系の一部カリスマ起業家以外の「グローバル人材」は、みんなけっこう良い大学を出ている、あるいは入学して中退しているのです。
『フェイスブック』も、「ハーバード大学発」ですしね。
山に登るのことが目的であれば、「新しいルートを開拓する」よりも「既成のルートを利用する」ほうが、はるかに安全で効率的です。
現在の世界では「グローバル化」と「ローカル化(あるいは、国家という線引きの再評価)」のせめぎ合いが起こっているのは事実です。
既得権を握っている中間層の人たちは、外から来た人たちを締め出して、自分たちの生活をなんとか維持したい。
その上にいる人たちは、一定のパフォーマンスを示せて、より安く働いてくれるのなら、誰でもいいと考えている。
「お勉強」は、あくまで受動的な行為である。学校のカリキュラムに沿って教師の話を聞いたり、テストを受けたり、計算ドリルを解いたりすることがこれに当てはまる。企業の思惑通りに動く社員を養成する研修も同じだ。要は「与えられたものをこなす」作業である。
当然ながら、ここには「与えてくれる」存在がいる。「お勉強」には、教室を用意し、テストの問題を作り、正解まで導いてくれる“大人”が不可欠なのだ。
対して「学び」は、常に能動的だ。未知の領域に足を踏み入れ、新しい体験や考え方を味わうことのすべてがこれにあたる。だから、場所は学校や企業に限定されないし、正解もいらない。すべては、「自分で切り拓いていく」営みなのである。
言うまでもないが、いくら「お勉強」をしても、「自分で行き先を決める生き方」にはたどり着けない。「お勉強」で身につくのは、敷かれたレールに乗る習慣だけだ。その習慣が身についてしまった人は、1ヵ月後のテストや解くべき問題集が机の上になければ、自ら何かを学ぶことはないだろう。なぜなら、彼らが目的としているのは、「与えられた課題をこなし、大人に認められること」だけだからである。
でも、「学び」を楽しんでいる人は違う。没頭している人にとっては、正解が見つからないことも、自ら動かなければ取り組む課題が見つからないことも、没頭する対象がある限りすべては「楽しい」ことだ。だから、彼らは好んで暗中模索を、試行錯誤を繰り返す。
つまり没頭は、人を決して立ち止まらせないのだ。常に人を前へ前へと押し出し、新しい体験をつかませようとする。
だから当然のことだが、あらゆるイノベーションを生み出すのは、「お勉強」ではなく「学び」だ。
そもそも、堀江さんのような人は「嚢中の錐(キリ)」みたいなもので、カリスマと呼ばれる人に啓蒙されなくても、自分で決めたようにしか生きられない人じゃないか、とも思うんですよね。
他人に影響されて、「その気」になる、というレベルならば、むしろ、レールに乗ってしまったほうが幸せなのではなかろうか。
世の中には、プロ野球選手になるよりも、客席でヤジを飛ばしているほうが幸せ、という人のほうがはるかに多くて、だから、プロ野球は興行として成り立っている。
でも、今の世の中は「なんで野球が好きなのに、プロ野球選手になろうとしないんだ、自分の可能性に賭けないんだ」と追い立てられがちで、観戦者として生きづらくなっている。
その一方で、「やらされる勉強でも、良い成績をとって、優越感にひたる」というのは、けっこう快感ではあるんですよね。「勝ち組」にとっては。
清水富美加さんの出家騒動で話題になっている幸福の科学には、関連書籍やセミナーから出題される「検定試験」というのがあって、試験に合格すると資格が得られるそうです。
何も宗教に入信してまで、そんな受験をしなくても、と思うのですが、そういう「テストの成績で評価してもらえること」を喜ぶ人は、大人になっても少なからずいる、ということのようです。
賛否両論はあると思いますが、これまで堀江さんの考え方に触れたことがない人は、一度は読んでみたほうが良いのかもしれません。
極論ではあるけれど、こういう考え方が、現在の「傾向」であることもまた、まぎれもない事実ではあるのです。
- 作者: 「キャッチボール」製作委員会
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