琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

【読書感想】半分生きて、半分死んでいる ☆☆☆


Kindle版もあります。

内容(「BOOK」データベースより)
ある大学で「養老さんじゃないですか、もう死んだと思ってました」と話しかけられた著者。「要するにすでに死亡済み。そう思えば気楽なもの」と嘯き、超越した視点で「意識」が支配する現代社会の諸相を見つめる。人工知能が台頭する時代に「コンピュータは吹けば飛ぶようなもの」と語り、平成においては「万物が煮詰まった」と述べ人口や実体経済の限界が見えた時代の生き方を考える。現代の問題は「一般論としての人生と、個々の人生の乖離」と述べ、一般化からこぼれ落ちた個々の生へ眼差しを向ける。現代人の盲点を淡々と衝く一冊。


 『バカの壁』が大ベストセラーとなった養老孟司先生、最近また活発に執筆されているような気がします。どこまで本気だかよくわからない、人を食ったような「養老節」も健在です。
 

 文化庁長官だった河合隼雄さんに聞いたことがある。「文化庁長官って、何をするんですか」。「べつに何ということはありません。発展祈り業ですわ」。もちろん、そんな業種はない。河合さんらしい冗談である。
 先日、ある大学で学部新設の記念シンポジウムがあった。最初は学長さんと教育長さんのご挨拶。お二人とも、挨拶の最後はたしかに「新学部の今後のご発展をお祈り申し上げます」だった。ああ、あの方たちもやっぱり「発展祈り業」なんだ。お祈りをするのだから、その相手はむろん神様仏様ということになる。そうか、現代でもやっぱり、偉い人は神頼みなんだなあ。ところが国連の調査によると、日本は世界でもっとも「世俗的な」社会だそうである。どういう調査をしたか、私は知らない。しかし社会のリーダーたちがそろって神頼みなんだと思うと、国連の結論にはいささかの違和感がある。そう感じるへそ曲がりは、私だけか?
 学校の先生方の集まりがあって、講演を依頼された。当日、控室で講演時間を一人で待っていたら、若い先生が来て言われた。「先生、間もなくお迎えが参ります」。
 まあ、私は間もなく八十歳だから、お迎えが来るのはわかっている。そりゃわかっていますが、突然いま阿弥陀様にお迎えに来られても、ちょっと困りますなあ。正確にいえば、私は困らないけど、あなた方がお困りになるのでは? 今日の私の講演時間をどう消化するんですかね。
 そう思ったけれど、年の功でむろんむきつけにそうは言わない。素直に「ああ、そうですか、ありがとうございます」と申し上げた。おそらくあの若い先生は、私の内心にお気付きではないであろう。とはいえこの「お迎え」というのも、いい言葉ですなあ。安楽死などと固いことを言わず、「早めにお迎え、お願いします」と言ったらどうかしら。やっぱり同じ事か。


 養老先生、もちろん冗談なんでしょうけど、けっこうめんどくさい人だなあ、と思いながら読みました。
 まあでも、こういう「お迎え」なんて言葉に、内心引っかかりを感じている高齢者は、少なからずいるのかもしれませんね。僕も気をつけなければ。
 これを読んでいると、日頃、何気なく、けっこういいかげんな言葉を使っている、ということを思い知らされます。
 「ご発展をお祈り申し上げます」というのは、一体、誰に、何に祈っているのか?
 多くの日本人は、何かの宗教の敬虔な信者ではないはずなのに。
 「ご冥福をお祈りします」も、何に祈っているのか不明瞭なまま、よく使われている言葉です。
 まあでも、こういうのは、あまり突き詰めないほうが、世の中うまくいくような気もしますね。


 第二章で書かれている「社会脳」と「非社会脳」の話も興味深いものでした。

 アメリカの宇宙船チャレンジャー号が発射時に爆発した事故があった。天候の状況とくに気温が低いことを心配した技術者側は、期日での打ち上げに反対した。しかし広報官を含む管理者側が延期は困るという。管理者側が勝って期日に打ち上げたが、案の定事故になった。ここでも期日は約束事だが、ロケットのほうは「もの」である。この事故に関する委員会の報告書で、物理学者のリチャード・ファインマンは述べたという。「技術が成功するためには、体面よりも現実が優先されなければならない、なぜなら自然は騙しおおせないからだ」。そうなんです、自然つまり「もの」は騙せないんですよ。
 そもそも洋の東西を問わず、なぜ組織と現場仕事の相反が起こるのか。私はこれはヒトの脳の性質に関わっていると疑っている。組織は要するに人間関係である。それを担う脳機能はいわゆる社会脳である。この二つの働きはそれぞれ脳のまったく違う部位を使う。しかも両者はじつは両立しない。集中して何か考えているときに傍から話し掛けられる状況を考えたらわかる。そういう場面では、考えているほうは「頭を切り替えざるをえない」のである。
 人間関係に巧みであることと、学問的あるいは現場作業的であることとは、しばしば両立しない。しかも重要なことは、何もしていないときのヒトの脳の設定が社会脳だということである。それも生後二日目にはすでに社会脳になっているという。つまりヒトの大きな脳は社会脳として生じた。ゆえに社会脳が優先しているのである。そもそもそこから大きな脳が生じることになったのだから、組織つまり人間関係が優先するのは当然というしかない。
 このように組織と現場の問題は、根本的にはデフォルト設定としての社会脳と、非社会脳の相克に由来している可能性がある。だとすれば、人間がもともともっている不完全さだとでもいうしかあるまい。それならせめてできることは、管理職がそれを心得ておくことであろう。なぜなら管理職になれるということは、その人自身は社会脳が優位だという可能性が高いからである。社会脳の判断「もの」に関する判断では、非社会脳に比較して誤りを犯しやすいはずなのである。

 
 この話、わかるなあ。
 現場と会議室の葛藤、というのは、どんな組織でもありがちなのです。
 ドラマでは、「現場のことを理解していない上層部」が批判的に描かれることが多いのですが、実際のところ、現場の裁量に任せていたら、いつまでたってもGOサインが出せないとか、納期や〆切を守るためには、現場にとっては不本意な「見切り」みたいなものが必要になったりすることって、少なからずあるんですよね。
 そして、全体のスケジュールを決めたり、外部とうまく交渉できる「社会脳」のほうが、大きな範囲での結果を出せて、偉くなりやすい。
 非社会脳の人々にとっては、そういう「組織管理」や「外交」の仕事は面倒に感じる事が多いので、うまく棲み分けられている、とも言えるのでしょう。
 ただし、あまりにも「社会脳側の都合」を優先すると、現場がうまく回らなくなってしまうのです。
 こういうことを、偉い人、あるいは、偉くなろうとしている人は知っておいてほしい。

 あらためて「人は何のために生きるか」を思う時代になった。仕事で忙しいうちは、そんな悠長なことを考える暇はない。しかし百歳超が6万5000人を超えるとなると、考えざるをえない。ナチの強制収容所をいくつも通って、無事に生き延びたヴィクトール・フランクルの言葉がある。
「人生の意義は自分の中にはない」
 自分が死んでも、自分は困らない。困る自分がいなくなるからである。それなら逆に、人生とは世のため、人のためではないのか。だから神風特別攻撃隊だった。
 戦後七十年、私が生きてくる間、人生とは自分のため、自己実現、本当の自分を探すことだとされてきたような気がする。それはどこまで本当か。日本のシステムでは商売は三方良しである。店良し、客良し、世間良し。「自分」はどこにも入っていない。それを私は「公」と呼びたい。国だけが「公」というわけではない。こんなことをいうと、怒られるかもしれないなあ。でも言ってしまう。国だけを公とする考えを右翼といい、個と公とごっちゃにするのを左翼という。左右が表に出てくる時代は、むしろ公が消える時代ではないのか。


 この「右翼」と「左翼」に関する定義については、異論も多いと思います。「日本の人々のため」とはいえ、特攻という作戦が美化されることに、僕は違和感があるのです。その一方で、あの時代の特攻隊員たちは「ああするしかなかった」というのも、頭では理解できるのです。
 「自分最優先」を捨てることで、見えてくる人生の意味があるのかもしれません。もちろん、「特攻しなければならない時代」を繰り返してはならないけれど。


バカの壁 (新潮新書)

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遺言。(新潮新書)

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