琥珀色の戯言

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【読書感想】隋―「流星王朝」の光芒 ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

581年に誕生した隋王朝。589年には文帝楊堅南朝の陳を滅ぼして、長き分裂の時代に終止符を打った。草原世界、中華世界、江南世界を束ねた初の「帝国」である。二代目の煬帝は運河を築き親征を行い、帝国を拡大したが、高句麗遠征に失敗して動乱を招き、618年には唐によって滅ぼされる。南朝高句麗突厥といったライバルが割拠したユーラシア大陸東部の変動を視野に、流星のように輝き消えた王朝の実像に迫る。


 以前、同じ中公新書の『南北朝時代五胡十六国から隋の統一まで』を読みました。

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 春秋戦国時代項羽と劉邦の争覇、『三国志』の時代にふれる機会は小説やマンガ、映像作品などこれまでの人生でたくさんあったのですが、近年は歴史を扱った新書も多様化してきています(というか、人気がある時代はもう出尽くしたのかもしれませんが)。

 ちなみに、この『隋』のあとの『唐』の時代を概説した新書も、同じ中公新書から先に上梓されています(こちらも読みました(感想はまだ書いていないのですけど)。


 『隋』に関して、まず思い出すのは、「遣隋使」で、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という国書が隋の煬帝を激怒させた、というエピソードを教科書で読みました(『隋書』東夷伝)。

 『三国志』のあと、司馬氏の晋による統一から南北朝時代という長い分裂を経て、中国を統一したのが隋でした。
 しかしながら、その隋は、楊堅(文帝)、楊広(煬帝)のわずか二代で滅び、大帝国・唐へ受け継がれていくのです。

 隋の煬帝といえば、中国史のなかでも、暴君の代名詞、というイメージがあるのですが、この本を読んで、だいぶイメージが変わりました。
 マンガ『キングダム』で描かれている秦の始皇帝は、中華統一を成し遂げた最初の人物だったのですが、始皇帝の「法」による厳格な支配や官僚制度の整備、大規模な土木事業は、さまざまな層からの反発を受け、秦は短命に終わり、楚と漢の戦いを経て、劉邦漢王朝を建てました。
 漢は前漢後漢をあわせて長く続いたのですが、秦が「統一王朝を築き上げるための基礎工事」をやっていたからこそ、それを踏まえて安定した政治を行なえた面もあるのです。

「流星王朝」。中国の歴史学界では、隋をそんな風に評する向きもあるようだ。
 西暦184年、黄巾の乱が勃発した。後漢王朝の終わりの始まりと、英雄・豪傑が乱舞する『三国志』の時代の幕開けである。そこから魏晋南北朝時代を経て、足かけ約400年を数えた581年、北朝北周からの禅譲によって突如姿を現した王朝、それが隋である。
 隋は、589年には南朝の陳を滅ぼし、長きにわたった分裂と抗争に終止符を打つ。ところが、中国市場特筆すべきこの大事業を成し遂げながら、実質的にはわずか二代、建国から40年にも満たずして618年に滅亡する。まばゆい光芒を放ってあっという間に地に落ちた。隋はまさに流れ星、そういうことなのであろう。


 隋は「流星王朝」と称されているように短命な政権で、煬帝は洛陽城の建設や大運河の工事などの土木事業による浪費、民への負担や高句麗遠征の失敗で、「絶頂からのドラマチックな転落」を歴史に遺してしまいます。
 その一方で、煬帝がつくった大運河は、その後も物資輸送のために大いに貢献し、経済の発展を支えていくのです。
 煬帝は、自分の理想を実現しようとして多大な浪費をしたのは事実ですが、煬帝がインフラ整備にお金を使いまくり、さんざん恨みを買って退場したあと、その遺産を唐は有効利用した、とも言えるかもしれません。

 洋の東西を問わず「ひどい皇帝」はたくさんいるのですが、中国の皇帝のなかで、煬帝だけ、なぜ「○○てい」ではなく、「ようだい」と名づけられているのか、僕は疑問だったのです。
 

 なお、李密(隋末に割拠した群雄の一人)の部下で、名文家として知られた祖君彦(そくんげん)は、煬帝を厳しく批判して、「南山の竹を取り尽くして、そこに罪を書いても書ききれるものではなく、東海の波が押し流そうとしても、その悪事を流しきれるものではない」との名フレーズを生みだした。その東海に浮かぶ島国日本では、古くから「煬帝」を「ようてい」ではなく、「煬帝」と特に読みならわしてきた。もとの漢語にそんな区別はないのに、敢えて「だい」と濁る読み癖で、批判の意を明らかにするわけである。
 その由来においては、松下憲一氏(2018)によれば、平安時代末期、学問の家である藤原南家が、『貞観政要』を天皇に進講する際に、暴君である煬帝を、それまでの漢音ではなく、呉音で「ヤウタイ」と読んで区別したのが始まりで、それが『日本書紀』などのふりがなにも影響し、やがて広く認知されるようになったものと推測されている。


 煬帝は、もとは楊堅の次男「楊広」だったわけですが、この本によると、「『煬』というのは、「礼を行なわず、民を虐げる」という最悪の部類の諡である」とのことです。
 基本的に、最後の皇帝の諡は次の王朝がつけることになるので、「低評価」され、簒奪・継承の正当化のために強く批判されることが多くなります。
 煬帝に関しては、やる気と実行力がある人物で、即位したときには隋の国力も高かったため、やりたいことをやりすぎてしまって、歯止めがきかなくなってしまって破滅したようにもみえるのです。

 そして、唐が栄えたために、「煬帝をより悪く言ったもの勝ち」みたいな、Yahooニュースのコメント欄か『5ちゃんねる』のような競争が歴史上行われてきた面もありそうです。
 より無能な、より残酷な皇帝は、たくさんいそうなのに。

 著者は、中国史上に残る名君、唐の太宗・李世民煬帝について、こんなふうに述べています。

 李世民は598年、父の李淵は566年の生まれである。569年生まれの煬帝は、李世民から見れば、父と同世代の親戚のおじさんである。直接の面識もあったかもしれないが、両者には多くの共通点がある。西魏北周以来の鮮卑系の有力家系に属し、父が創業の君主となり、文武の才にも恵まれたが、悲しいかな次男坊の身。結局、兄弟を手にかけて即位するが、因果はめぐって自身も後継者問題に悩むことになる、といった具合で、善悪二面が両者にそろっている。
 ところが評価は、史上最悪の暴君と史上最高の明君とあまりに対照的なのであるが、なぜそうなるのか。すでに見たように、それは巧まざる歴史の皮肉などではなく、むしろ大いに仕組まれたものであった。正義の味方が登場するには悪役が必要であり、宣伝工作と資料操作によって暴君と明君を作り出す。それが中国史お家芸だという従来の指摘は、確かに当たっていよう。
 そして、これもよくいわれるように、太宗に失敗を回避させたものは、これ以上ない反面教師である煬帝の存在であった。「煬帝にならないためには」を決まり文句に諫める魏徴らの言葉に、よく耳を傾ける太宗とのやりとりは、呉兢(ごきょう)『貞観政要』に余すことなく描かれている。「帝王学の書」として、のちの為政者、日本では北条政子徳川家康にも参照されたということを、ご存じの読者もおられるだろう。


 煬帝と太宗には類似点が多いのです。
 著者は、「煬帝と太宗の生まれる順番が逆だったら、いったいどうなっていただろうか?」と問いかけています。
 もちろん、想像することしかできませんが、立場や順番が逆であったなら、二人への歴史的な評価も逆になっていたのかもしれません。

 ちなみに、著者はこの新書の最後に、煬帝と太宗に身近に接したある人物のエピソードを紹介しています。史実かどうかはわかりませんが、それを読んで、煬帝とその時代に、まさに流れ星をみているような瞬間の美しさとロマンを感じずにはいられませんでした。

 歴史を書く本としての正確さへの意識とともに、登場してくる歴史上の人物についての興味深いエピソードも差し込まれていて、面白さも併せ持っている新書だと思います。


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