琥珀色の戯言

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【読書感想】袁世凱――現代中国の出発 ☆☆☆

袁世凱――現代中国の出発 (岩波新書)

袁世凱――現代中国の出発 (岩波新書)

内容(「BOOK」データベースより)
無学で無節操な裏切り物、「陰険な権力者」と、日本でも中国でも悪評ばかりの袁世凱。しかし、なぜそんな人物が激動の時代に勢力をひろげ、最高権力者にのぼりつめ、皇帝に即位すらできたのか。褒貶さだまらぬ袁世凱の生涯を、複雑きわまりない中国のありようを映し出す「鑑(かがみ)」として描きだす。

 ある程度歴史を学んだ人であれば、袁世凱、という名前は知っているはずです。
 でも、実際にどんなことをした人かと言われると、なかなか思い出せない。
 思いつくのは、「孫文らと協力して清王朝打倒に暗躍し、孫文を退けて中華民国の大総統となったものの、自ら皇帝になろうとして猛反発を受け、失意のうちに死亡」という最晩年の事績くらいです。
 僕のなかのイメージとしては、「せっかく民主化しようとしていたところに、軍事力で割り込んできて、時代を逆光させようとした悪人」なんですよね。
 とはいえ、それまでの袁世凱という人の生きざまを、僕は全く知りませんでした。
 有力軍閥のひとり、ということくらいしか。
 大統領から皇帝になろうという人なのだから、もうちょっと紆余曲折というか、面白いエピソードがあるのではないだろうか。

 日本人一般がかれを知るのは、辛亥革命清朝から寝返って、民国の臨時大総統となり、権力を掌握したころからである。主君を裏切る、という節義のない権謀術数が、とても日本人好みではなかったし、そしてこのたびの交渉(第一次世界大戦中の「二十一か条要求」)で、いよいよ信義なき俗物政治家に映った。
 お互いさま、というところかもしれない。けれども当時だけでなく、いまにいたるまで、日本人の描く袁世凱像も、おおむねその域を出ていない。「梟雄」「マキャベリスト」と形容された権力好き・無節操、あるいは清代の政治家に比べての無学・反日をあげつらう、といった趣きである。いわゆる旧中国のふるまいを批判するのに格好の存在ではあった。
 しかし評判が悪いのは、日本人の間だけではない。中国人にもそうなのである。旧体制の政治家を代表する存在として描くのが、通例である。それは反革命・媚外という評価とも不可分で、「愛国主義」「反帝国主義」あるいは「半植民地半封建」というイデオロギーにおあつらえむきだからである。こうした歴史観に同調する日本人の著述も少なくない。
 悪評一色ではある。だがそれを除き去ると、袁世凱にはほとんど何も残らない。なぜそんな人物が勢力をひろげ、最高権力者にのぼりつめ、皇帝に即位できたのか。世評はすべてをかれ個人の属性に帰するため、そんな素朴な疑問にこたえてくれない。


 では、その「悪評」以外に、何が残るのか?
 著者は、丁寧に袁世凱が辿った人生をトレースしていきます。
 でも、袁世凱という人は、何か大きな博打を自分自身でやるような人ではなく、当時の歴史情勢の話が続いてきます。

 結論からいうと、この新書から僕が読み取った袁世凱という人物は「人生において大きなイベントやエピソードもなく、ある程度有能な役人として、組織をまとめる力に長けていただけの人」であり、そういう人が、清王朝の滅亡という歴史の大波に流されてしまっただけなのかな、と感じたんですよ。
「梟雄」や「マキャベリスト」なんていう突き抜けた人でもなかった。

 各地の軍隊が全国的に「新軍」に改編されたのは、1904年のことだが、袁世凱の「北洋軍」はそれ以前から、整備増強がはじまっていた。直隷総督に着任したとき、山東からつれてきた3万の兵力が、7万以上に増えている。これを6つの「鎮」に分け、首都近辺の要地に駐屯させた。第一鎮は北京の北苑、二鎮は直隷の保定、三鎮は吉林長春、四鎮は天津の馬廠、五鎮は山東の済南、六鎮は北京の南苑である。「鎮」は兵力およそ1万2千の師団をさし、全体で「北洋六鎮」と通称した。これが当時、中国最強の精鋭だったのであり、それを指揮する袁世凱は、いまや政府の第一人者といって過言ではない存在である。


 もちろん、それなりの人望や行政処理能力はあったのだと思うし、王朝末期の諸勢力が入り乱れる混乱期をうまく乗り切った「処世術」はすごいものがあるのです。
 消去法っぽい感じであっても、「精鋭部隊」を率いることになったのは、その能力と周囲の信頼の証でしょう。
 袁世凱という人は、「小役人的」ではないのだろうけど(若い頃は、それなりに「悪さ」もしていたようですし)、さりとて、「かれが得た地位にみあうほどの大人物」とも言いがたい。
 そういう人物が、矢面に立って、国家を切り盛りしなければならなかったというのは、中国という国にとっても、袁世凱本人にとっても、あまり幸福なことではなかったのではないかと思われます。


 清朝滅亡の際の袁世凱のポジションについて、著者はこう述べています。

 袁世凱からすれば、軍事的に南方(辛亥革命時の臨時南京政府)を圧倒するだけなら、むしろ容易である。けれども戦争を継続すれば、外からの干渉は必至で、それは避けたい。だからといって、劣勢の南方に屈するのは、いっそう不可能である。
 南方からすれば、武力で劣り、内紛も絶えない。財政もたちゆかなくなっている。すでに内戦や干渉にはたえられない。それでもなんとか成立させた共和国を保ってゆくには、どうすればよいか。
 ならば当然、最も実力ある者が政権を掌握して、南北を和解させ政権の分立を防ぐほかないし、その任にあたるべきは、袁世凱しかいなかった。こうした客観的な趨勢は、むしろ火と見るより明らかで、当時は内外の別なく、誰もが理解できたところである。外国人が袁世凱を「ストロング・マン」と称したのも、不思議ではない。かれが野心をもち権謀をめぐらせたというより、衆望が期せずして、かれのもとに集っていった、とみるほうがいっそう適切である。


 袁世凱という人は、流されるままに、権力の神輿に乗らざるをえなくなった人、ともいえるのです。
 あの時代の中国が置かれている状況を冷静に判断できたがゆえに、自分が火中の栗を拾わざるをえないことを受け入れてしまった面もある。
 皇帝即位の際も、「反対派は徹底的に弾圧する」というくらいの「マキャベリスト」でもなかった。
 けっこうあっさり皇帝即位の意向をひっこめてしまっています。

 袁世凱は目前の課題には、全力でとりくんだ。朝鮮問題・小站練兵・戊戌政変。天津復興・北洋軍建設・清帝退位・中央集権・、いずれもしかりである。それぞれに最善の答えを出そうとした。しかし、出した結果の総計は、どうであったか。
 けっきょくかれは、目に見えることを目の届くかぎりで処理できても、中国全体にかかわる大計を扱うには、ふさわしくない人物だった。天津では地方大官として、中央では大総統として、その立場と視野でしか行動していない。合わせれば、矛盾をきたす。
 その意味で、かれを孫文と比べて罵った北一輝の評言は、意外に当を得ている。いわく「世評のごとき奸雄の器にあらずして堕弱なる俗吏なりき」と。実務の処理を粛々とこなす典型的な官僚タイプであり、目的の達成のためには手厚い社交も、冷酷な暗殺も厭わない。「堕弱」かどうかはともかく、「俗吏」は言い得て妙である。

 袁世凱さんとしては、「俺だって好きでこんな役をやっていたわけじゃないんだ」と言いたいところなのかもしれませんね。


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蒼穹の昴(1) (講談社文庫)

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