琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

【読書感想】病魔という悪の物語 ―チフスのメアリー ☆☆☆☆

緊 急 復 刊 ! ──100年前のアメリカを震撼させた衝撃の実話。
健康保菌者の公衆衛生と人権。「緊急事態宣言」解除の後に、私たちが問われる。
「自粛警察」「ネットリンチ」……目に見えないウイルスによって差別や社会の分断を進めぬために。
伝染病の恐怖と闘う現代人が、今読むべき歴史的教訓の書 !

料理人として働いていた彼女は、腸チフスの無症候性キャリアとして、本人に自覚のないまま雇い主の家族ら50人近くに病を伝染させた――。
20世紀初め、毒を撤き散らす悪女として「毒婦」「無垢の殺人者」として恐れられた一人の女性の数奇な生涯に迫る。エイズ鳥インフルエンザ新型コロナウイルスなど、伝染病の恐怖におびえる現代人にも、多くの問いを投げかけている。

「これは、ある一人の女性の生涯の物語だ。その女性は、料理がとてもうまい人だった。子どもの面倒見もよく、雇い主からは信頼されていた。だから、料理に存分に腕をふるい、雇い主にも信頼されてそのまま生活していけたとすれば、貧しいながらも、それなりに幸せな人生だったろう。だが、その女性には過酷な運命が待っていた。三七歳になったあるとき、突然、自分自身には身に覚えもないことで、公衆衛生学にとっての注目の的になり、その後の人生が大きく変わっていく。突然、自由を奪われ、病院に収容されるのだ。」
─「はじめに」より


 2006年に上梓された本なのですが、新型コロナウイルスの蔓延と、その患者や医療者への世間の対応をみてから読むと、よりいっそう考えさせられる内容だと思います。

 十代前半で北アイルランドからアメリカに移住してきたメアリー・マローン(Mary Mallon)は、裕福な家庭で食事をつくったり、家事を行ったりする賄い婦として働いていました。
 料理の腕が良く、雇用先から信用もされていたそうです。
 しかしながら、彼女の人生は、ある出来事をきっかけに狂い始めました。

 ニューヨークに隣接するロングアイランド市、そのオイスター・ベイにある夏用の別荘に保養に来ていた銀行家チャールズ・ウォレン一家は、1906年の夏、六人の腸チフス患者をだした。その別荘のオーナー、トンプソン夫妻は、その原因を究明するために調査を開始する。その別荘で使っていた水やまわりの土地を調べてみるが、特に異常はみあたらない。こんな状態では、もう誰にも別荘を貸せないと困り果てたトンプソン夫妻は、衛生工学の専門家、ジョージ・ソーパー(George Soper, 1870-1948)に調査を依頼した。


 さまざまな調査が行われたのですが、そのなかで、チフスが出現した数週間前に雇われ、腸チフス患者が出てから3週間で退職して出ていった、メアリー・マローンという女性の存在がクローズアップされてきます。
 1900年から1907年にかけて、メアリーが関わった家庭のなかから22人の患者が出ていることが判明し、そのうちの1人が死亡していることもわかりました。
 ただし、この時代には、ニューヨーク市だけでも年間3000~4000人の腸チフス患者が出ており、これだけでは確証は得られませんでした。
 そこで、ソーバーは、メアリーと直接会い、検査のために尿や便を提出するよう説得したのですが、メアリーはそれを断固拒否しました。

 今の時代の感覚でいえば、あるいは、自分がメアリーのような立場になることを想像せず、つねに「うつされる側」でいると考えれば、「公衆衛生に協力しない、ひどい人間」なのかもしれません。
 でも、無症候性キャリア、という概念がまだはっきりしていなかった時代でもあり、本人はずっと体調に問題がないのに、「あなたがチフスをばらまいている可能性がある」と言われ、尿や便を調べさせろと言われたら、拒絶するのもわかるのです。

 結局、かなり強引な方法で調査が行われ、メアリーの便から高濃度のチフス菌が検出されました。
 その結果、メアリーは、感染拡大を防ぐために、長期にわたり、隔離生活を余儀なくされたのです。

 途中、メアリーは自由を求めて裁判を起こしたこともあり、一時的に自由の身になることができました。
 感染源となる危険性が指摘され、新聞の記事では、「メアリーが骸骨を料理しているイラスト」を載せるなどしてセンセーショナルに報じられていたのですが、本人にはまったく自覚症状がなく、他者に病気をうつす意思があったわけでもないことから、同情する(あるいは、そんなに強くは責めない)人も多かったようです。

 「他者に料理を作る仕事に就いてはいけない」という条件付きで自由の身になったメアリーなのですが、何年かのちに、名前を偽って働いていた先で多数のチフス患者が発生し、2名が死亡したことによって、メアリーは、以前よりも強い批判を受け、再度、結果的に死を迎えるまで隔離されることになりました。
 
 なぜ、そんなことをしてしまったのか?
 自分がチフスの感染源になっている、ということを理解できなかったのか、あるいは、これまで自分が得意とし、評価されてきた「賄い婦」という仕事以外で食べていくことが難しかったのか?
 その事情については書かれていないのですが、独身で、貧しい移民であったメアリーには、選べる仕事の選択肢が少なく、頼れる人もいなかったであろうと推測されています。

 みんなに病気をうつさないためには、ある人が仕事を奪われたり、飢えてもやむを得ないのか?
 そして、感染予防のためなら、個人の自由が制限され、監禁されても許されるのか?

 これはまさに、今回の新型コロナウイルス禍のなかで、問われたことでもあったのです。

 著者は、メアリーと同じような腸チフスの無症候性キャリアであったにもかかわらず、他者と濃厚な接触をするような仕事を避けるように注意を受けたり、定期検査や行動の報告を義務付けられただけで、社会のなかで自由に生活していた人が少なからずいたことも指摘しています。
 調査していくと、無症候性キャリアはメアリー以外にも大勢いることがわかったけれど、その人たちを全員、メアリーと同じように隔離し続けるだけの設備も予算もありませんでした。

 メアリーの場合は、身寄りも、積極的にサポートしてくれる人もいなかったことが、後半生のほとんどという長期間の隔離・拘束につながったとも言えるのです。

 メアリーは、死後も生き残った。
 妙ないい方で恐縮だが、メアリーという歴史的人物は、もちろん一定の寿命の後に逝去したわけだが、「チフスのメアリー」(Typhoid Mary)という象徴的な名前として、半ば一般名詞のようなものとして、彼女が亡くなった後でも生き残ったのである。typhoidのtが大文字になり、Typhoidというのが、まるで当人の名前とでもいうかのような感じになった。メアリー・マローンは、周りにいる誰かに病気を移して殺したりする人という、具体的で特殊な意味から離れて、いつどこにでも出現しうる一般的かつ抽象的な加害者という意味となり、一般名詞に近づいた。またそれと同時に、Typhoidという名前を生まれつきもっている、どこかの陰気な女性という固有名詞性も身につけた。それは、具体的な歴史的個人の顔をもたない、一般的な「毒婦」のようなもの、周囲に害毒や病気を垂れ流す脅威そのものを指す言葉になった。
チフスのメアリー」は、その後、何度も取り上げられた。ただ、それは必ずしも、純粋な悪意だけに引きずられて、というわけではない。むしろ1950年代には、「不運な脅威」とか、「無垢の殺人者」といった表現を割り当てられた存在として、大衆の面前に姿を現した。害毒を垂れ流すという意味を保ちはしながらも、それが思わず知らず、という当人のせいにはしにくいという部分も、きちんと押さえた表現だ。
 ただ、その後60年代、70年代を通して、どちらかというと否定的な文脈で、人を病気に陥れる邪悪な人間というイメージでくるまれていたのは間違いない。
 もうこうなると、歴史的に実在した個人としてのメアリー・マローンはどこかに行ってしまう。そして、まるでどこかの神話に出てくる純粋な悪の化身とでもいうかのような雰囲気を身にまとっていく。もっとも、神話というには、あまりに卑小で、縮こまった存在として描かれることの方が多いのだが。


 僕がこの本を、2019年の終わりまでに読んでいたとしたら、この時代の人々の医学的な知識の乏しさを憐れみ(その時代としては仕方がない、とは思うけれど)、運悪く腸チフスの無症候性キャリアになってしまっただけの不幸な女性を邪悪な存在のように扱ったことに憤っていたと思うのです。
 まあ、こんな時代に生まれていなくてよかった、とかなんとか。

 でも、この2020年のコロナ禍の時代に、新型コロナウイルスに感染してしまった人が、近所から「村八分」にされた、なんていうニュースをみると(正直、本当にそんな隣人がいるのか?と言いたいのですが……)、医学や感染症の研究の発展ほど、人間の理性というのは進歩していないのだな、と考えずにはいられなくなるのです。
 「自分が感染する怖さ」に直面すると、僕自身も冷静にはなれませんでした。

 メアリー・マローンの場合は、一度自由になってから、禁じられた食事をつくる仕事をしてチフスを広めてしまった、という落ち度はありましたが、今回の新型コロナでは、他人にあえてうつそうとした人はいなかったはずです。どんなに注意しても(南極や宇宙に行けば別でしょうけど)、誰でもかかるおそれがあるのが、感染症の特徴であり、怖いところなんですよね。

 個人の自由や権利と、公共の福祉や公衆衛生、というのが衝突したとき、どうふるまうのが正しいのか?
 もともと中高生向けに書かれたというだけあって、読みやすいし、一般的な新書の半分くらいのボリュームです。
 2006年に上梓された本ですが、今だからこそ、読んでみていただきたい一冊なのです。


感染症の世界史 (角川ソフィア文庫)

感染症の世界史 (角川ソフィア文庫)

アクセスカウンター