Kindle版もあります。
日々の暮らしや仕事の課題、さらには大きな社会問題まで、その解決策は行動経済学にある。急速に普及したテレワークで生産性を上げるには? 新型コロナウイルス感染症対策にはどんな政策が有効? 経済活動と感染対策を両立させるには? 最低賃金の引き上げは所得向上につながる? 私たちが何気なくしがちな"非"合理なクセに、そして目の前に立ちはだかる大小の課題に、最新の経済理論を駆使して処方箋を示す
学生時代、世界史の授業で、アダム=スミスの「神の見えざる手」という思想を知りました。
「国家が経済活動に介入することを極力避け、自由な市場経済に任せていれば、需要と供給によって適正な価格と需給量が必然的に決まっていく」
これに対して、国家の介入によって「結果平等」を実現しようとしたのが社会主義・共産主義だったのですが、現在までの人類の歴史を鑑みると、「機会平等」を実現・維持するのは難しく、「結果平等」には耐えられない、というのが人間という生きものなのかもしれません。
著者は、この本の冒頭で、こう述べています。
人間の意思決定は、伝統的経済学の想定である「合理的意思決定」からズレることが知られてきた。例えば、「90%の確率で命が助かる治療法です」と言われたときと、「10%の確率で命が助からない治療法です」と言われたときとで、その治療法を選ぶ人の比率に違いが出てくる。明日からダイエットを始めると決めても、翌日になると先延ばししてしまう。つまり、私たちは論理的には同じことであっても、異なる表現で示されたときに、異なる意思決定をすることがある。
(中略)
また、私たちは、常に市場競争の場で生きているわけではない。家族や友人との付き合い、地域のコミュニティなど市場競争と直接的に関係がない人間関係も多い。市場競争にさらされている企業でさえ、組織内ではすべてが価格を通じた取引ではなく、助け合いや利他的な行動も多く行われている。自分さえよければいいという冷酷な人間では、人間関係をうまく構築できないだろう。現実の人間は、周囲の人との人間関係を重視するのだ。
このような現実的な人間像を取り入れた経済学は行動経済学と呼ばれてきた。行動経済学の研究が始まった1970年代末から2000年頃までは、行動経済学と伝統的経済学の対立もあった。しかし、現在では、行動経済学は、多くの標準的な経済学の教科書にも取り入れられており、経済学の一分野になっている。
人間は、古典的な経済学が想定していたように「最大の自分の利益を追求して合理的に行動する」わけではないのです。
「経済学」の理論は完璧でも、それを実行する人間は、さまざまな理由で(あるいは無意識に)「合理的ではない行動」をとってしまいます。
この本は、この「行動経済学」の入門編というか、「なかなか理論通りにはいかない人間の行動のさまざまな実例」がたくさん挙げられているのです。
ただ、読んでいると、なんだかまとまりがないというか、実例が延々と並んでいる「雑学本」みたいな感じで、ちょっと飽きてもくるんですよね。
「行動経済学」という言葉も知らない、という人には新鮮なのだとしても、それなりの基礎知識があると、「1万円を失ったときの悲しみは、1万円をもらったときの喜びの2倍以上だという特性である。損をする気持ちは、得をする気持ちよりも強い」と言われても、「それ、知ってます」と思うのです。
僕自身が、新型コロナウイルスの話に疲れていて、新型コロナ関連の分量が多い、というのが大きいのかもしれませんが。
行動経済学は、すでに、人々の日常生活にも大きな影響を与えています。
行動経済学的手段を用いて、人々の選択の自由を確保しながら、金銭的なインセンティブを用いないで、人々の行動変容を引き起こすことができる。それがナッジ(nudge)である。カフェテリアで果物を目の高さに置いて、果物の摂取を促進することはナッジだ。しかし、健康促進のためにジャンクフードをカフェテリアに置くことを禁止するのはナッジではない。感染症の拡大を防ぐために、マスク着用を義務付け、守らないと罰則を課すのはナッジではない。この二つには、人々の選択の自由が確保されていないからだ。マスク着用をしたイラストが入ったポスターを掲示するのはナッジである。
また、ナッジは、行動経済学的知見を用いることで人々の行動をよりよいものにするように促し誘導するものだ。行動経済学的知見を用いて、人々の行動を自分の私利私欲のために促したり、よりよい行動をさせないようにしたりすることは、ナッジではなくスラッジ(sludge)と呼ばれている。スラッジとはもともと、ヘドロや汚泥を意味する英語である。ネットで買い物をした際に、宣伝メールの送付をすることがあらかじめ設定されていて、その解除が難しい場合は、そのデフォルトはナッジではなくスラッジだ。
行動経済学の知見を利用すれば、人々の行動の傾向を知ることができるだけでなく、人々の一定方向への行動を促すことも可能なのです。
もちろん、みんなが必ず言われたままに動く、という催眠術みたいなものではありませんが。
コンビニのトイレに入ったとき、「いつもきれいに利用していただき、ありがとうございます」と掲示してあるのをみても、全員が「きれいに利用する」とは限らないように。
全体的にみれば、人々の行動パターンを変える(きれいに使ってくれる人が増える)という効果は得られます。
そして、これは「悪用」することも可能ですし、これを「ビジネス」に利用している人や組織も多いのです。
厚生労働省の新型コロナウイルス感染症対策推進本部と日本政府は、2022年の5月に「2メートル以上を目安に、周りの人との距離が確保できる場面では、屋内で会話する場合を除いて『着用の必要はない』」という基本的な対処方針を示しています。
ところが、その後の感染者数の急増などもあり、12月になっても、屋外でさえマスクを外している人はほとんど見かけません。
これを書いている僕自身も、ずっとマスクをしていますし(ときどき家を出るときに忘れそうになるのですが)、マンションのエレベーターの中やショッピングモールで、たまにマスクをしていない人を見かけると、「この人は、なにか特殊な事情があるのだろうか……」と考えてしまうのです。
屋外で2メートル以上の距離があれば、マスクをする必要はないと自分では考えていても、人はそうは思っていなくて、屋外であってもマスクを着けるべきだと思っているのではないか、という信念が社会規範を形成している可能性がある。実際に、ほとんどの人がマスクを着用しているという目に見える行動から推測すれば、そのような信念を人々がもっていると推測することは合理的になる。
問題が複雑なのは、マスクをすることは感染対策に加えて、顔がわからないので匿名性を担保できるとか、表情を悟られないという個人的メリットが存在することである。しかし、相手がマスクをしていると、コミュニケーションが難しくなる。個人的なメリットを重視することで、社会全体としてはコミュニケーションの質や量が低下し、私たちの社会的な交流が減るだけでなく、生産性が低下する可能性がある。感染対策としてのマスクには、自分の感染を防ぐと同時に人に感染させることを抑制するという外部性がある。同様に、マスク着用には、周囲に自分の表情を読み取らせないことでプライバシーを確保できるという個人的利得と同時に、周囲の人にコミュニケーションをとりにくくさせるという負の外部性が存在するのだ。子供たちの教育においても、人の感情を読み取ることが難しくなり、コミュニケーション能力や、外交性が低下する可能性があるかもしれない。
先日、サッカーの男子ワールドカップの日本戦中継のなかで、日本代表チームを応援するためにスポーツバーに集まっている人たちが、全員マスクをしていなかったのをみて、僕はすごく違和感があったのです。マスクをしないことが良いとか悪いというより、「こんなに大勢の人が密集している状態で、マスクをしていないのを久しぶりに見た!」のです。
外出を控え、人混みを避ける、などの感染対策は、2022年12月の時点では、ほとんど形骸化しつつあります。
マスクは邪魔だし、息苦しさはあるけれど、髭剃りやメイクなどの手間は省けるし、表情を隠せるのは気楽です。
ずっとマスクをつけているうちに「マスクを外すタイミング」がわからなくなってしまいました。
自分が外に遊びに行きたいときには「コロナなんて風邪の一種」と思い、めんどうな会社の飲み会や会議をやるかどうかになると、「いやまだ新型コロナには油断できないですよ」と主張してしまう、それもまた、人間の「行動」であり、本人にとっては合理的ではあるんですよね。
人間の行動は、その一部、あるいは一面だけでは評価することが難しく、大概のことには、メリットもあればデメリットもあるのです。
では、評判の映画のチケットが景品で当たったとする。あなたは喜んでこの映画を観に行った。ところが、観ていても全く面白くない。最後まで観ても時間の無駄だな、と思ったとき、出入り口の近くに座っていたとしたら、途中で映画を観るのをやめてしまわないだろうか? どうせこのチケットは、自分がお金を払って手に入れたわけではない。映画を観なくても損をしたことにならない。
つまらない映画だと途中でわかった場合、チケットを自分で買っていたらチケット代がもったいないので最後まで観るけれど、景品で当たったチケットならもったいなくないので、途中で観るのをやめるという人もいるだろう。しかし、自分でお金を払ったかどうかで、同じ映画を最後まで観るかについて態度を変えるのは、経済合理的ではないのだ。
まず、景品で当たったチケットの場合の意思決定を考えよう。映画を2時間とすれば、つまらない映画で退屈な2時間を映画館で過ごすか、もっと有意義な時間の使い方をするか、という選択だ。有意義な時間を使う方を選ぶ人が多いだろう。
つぎに、自分で1400円のチケットを買って映画館に入った場合を考えよう。途中で映画館を出ると、1400円を払って2時間のつまらない映画を最後まで観た場合、1400円を支払って退屈な2時間を過ごしたことになる。一方、すぐに映画館を出て散歩した場合、1400円を支払って散歩したことになる。よく考えると、どちらの場合でも1400円が返ってこないことは同じだ。それなら、返ってこない1400円のことは忘れて、これからの2時間の使い方で有益な方を考えればいい。
もし、景品で当たったチケットの場合には、映画館を途中で出るという選択をする人であれば、自分で買ったチケットであっても、映画館を途中で出る方が合理的なのだ。
僕はこれを読みながら、「書かれていることに納得はできるのだけれど、自分は『なんなんだこのつまらない映画!』と思いながら、最後まで観てしまうだろうな」と考えずにはいられませんでした。
僕の場合は、そのつまらなさをブログのネタにできる、というのはあるにせよ、ブログを書きはじめる前から、「見届けないと気が済まない人間」ではあったのです。
人間は、その人にとっては合理的であっても、周囲からみれば非合理的な行動をとりがちです。
あるいは、「本当はどちらがもったいないか」を深く考えないまま、直感や惰性に従ってしまいます。
こうして、行動経済学が発展していくというのは、「いつのまにか、自分の行動が他者に操られている可能性が高まる」ことでもあるんですよね。
とはいえ、全く外界や他者の影響を受けずに生きることはできません。
そんなことばかり考えていると、極端な陰謀論者になってしまいそうですが。