琥珀色の戯言

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【読書感想】ゲームが教える世界の論点 ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

ゲーム批評で読む現代社会】
コロナ禍の「おうち時間」によって急速な成長を遂げたゲーム産業。
米大統領選のキャンペーンに「どうぶつの森」が用いられたり、オリンピックの開会式にゲーム音楽が使用されるなど、その影響力は現実の社会にも及んでいる。
そうした状況を反映するかのように、世界中で支持されているゲームは、さまざまな社会問題の解決策を示している。
本書では大人気ゲームの読解を通して、陰謀論、分断、叛乱、新自由主義、家族といった重要なテーマを考え、理想的な社会のあり方を提示する。

【おもな内容】

第一章 ポストトゥルース陰謀論
1 分断された人類――『デウスエクス マンカインド・ディバイデッド』
2 差別を経験するシミュレーター――『ウィッチャー3 ワイルドハント』
3 情報操作に対抗する個の覚醒――『ペルソナ5

第二章 分断を超えるために
1 対話と理解の重要性――『VA-11 Hall-A: Cyberpunk Bartender Action』
2 人々を「つなぐ」必要性の体感――『DEATH STRANDING』


 僕はこれまで、40年以上テレビゲームで遊び続けているのですが、この新書で紹介されているゲームの評論を読んで、あらためて、「テレビゲームという文化の成熟」を感じるとともに、僕自身はこういう「社会問題をプレイヤーに提示し、考えてもらうようなゲーム」をあまりプレイしてこなかったなあ、と思ったのです。
 
 今年(2023年)の年末年始は、久しぶりに『ポケットモンスター』にハマってしまい、Switchで、『ポケットモンスター バイオレット』のエンディングまで辿り着いたのですが、遊びながら、登場するキャラクターのファッションやサウンドに「これだけ売れていて、多くの小中学生が遊ぶゲームで、ここまで現代的な要素(YouTuber的なキャラクターやヒップホップ調の音楽など)がとりいれられているのか、と驚いていたのです。それでいて、「友達と雑談をしながら家に帰っていた頃の気持ち」を思い出させてくれる場面もあるのが、『ポケモン』の懐の深さではあるのでしょう。

 テレビゲームというのは、もはや「浮世を忘れるための娯楽」だけではなく、「社会問題について、開発者たちがプレイヤーに問いかけるツール」にもなっているのです。
 そんな説教くさいゲームなんて、やりたくないよ、と思われるかもしれませんが、あからさまに「啓発」するのではなく、プレイヤーがゲームの中で難局に立ち向かい、クリアを目指すなかで、さまざまな「選択」をせざるを得ず、そこで、「自分はどう生きるのか?」を問われるのです。

 本書が特に主張したいのは、ゲームが「政治」に影響するということだ。
 2021年に開催された東京オリンピックの開会式で、ゲームの音楽が使われたのをご存じだろうか。
 ゲーム世代の多くの観客にとって、それは驚きと感動と高揚をもたらす出来事であったようだ。自分が愛してきた作品の音楽が国家的なイベントで世界に発信されれば、それは確かに感動するだろう。しかし一方で、国策イベントにおける音楽の使用は、ナショナリズムを高めるものではないかという懸念や批判も提示され、激しい議論が巻き起こった。
 アメリカ大統領選ではバイデン候補が『あつまれ どうぶつの森』を選挙キャンペーンに使い、自民党総裁戦で石破茂もそれを試みた。
 ゲームは「政治」に影響する。それが、本書の基調になる主張である。ただし、そのような単純な利用のされ方だけによって影響するのではなく、メディアのあり方それ自体が人間を変えていくことを通じて、政治的現実を変容させていくのだ。本書が、ゲーム世代以外の読者に向かって理解を求めたいのは、そのことである。


 テレビゲームは、「みんなの日常的な娯楽」になりました。
 「テレビゲームは不良がやるもの」と言われ、ゲームセンターは補導員が見回りに来る場所で、ゲームの話をするとクラスの女子から白眼視されていた子どもの頃の僕に、いまの世界を見せてあげたいくらいです。

 テレビゲームで遊ぶのが当たり前の時代になったことによって、それを通じて、何らかの社会的なメッセージをプレイヤーに伝えたい、というゲームも増えてきました。
 かつて、「不良が観るもの」であった映画が、今や「定番で無難な趣味のひとつ」「社会を映す鏡」になっているのと同じ道を、テレビゲームもたどっているのです。

 その影響力の大きさから「プロパガンダに利用される」ようにもなってきたんですよね。
 東京オリンピックの入場曲に『ドラゴンクエスト』が使われていたことに僕も感動しましたが、「テレビゲームの音楽を使うことによって、僕のような人間に東京オリンピックに親しみを抱かせる」狙いもあったのかもしれません。
 陰謀とか洗脳とか、そういうレベルの話ではないとは思うけれど。


『Detroit:Become Human』というゲームへのレビューより。

 主役は3人のアンドロイド。マーカス、カーラ、コナー。工業製品である彼らが、意志と自我に目覚めていく。果たして彼らは生命なのか、人間なのか。
 このような人工生命体の主題は、サイバーパンクの基本の一つとでも言えるもので、SF映画の金字塔であるリドリー・スコット監督の『ブレードランナー』から繰り返されている。
 人工知能やアンドロイドが人間か否かという哲学的なテーマに対して、本作が採ったアプローチの面白いところは、「人間とはなにか」という定義を、社会や人々がどう位置づけ、どのように権利を認め、制度を作るか次第で決まるものだ、としているところだ。人工知能と人間の差異を技術的に考察するという方向性ではなく、価値観や制度の問題だという主張は、黒人や女性を「人間」とみなしていなかった西洋社会が「進歩」してきた現実の過程を反映しているだろう。
 つまり、社会や世論が、アンドロイドを「人間」と考えるようになれば、それが「人間」なのである。だとすると、どのようにすれば、人々はアンドロイドを「人間」「生命」に類するものと見做し、共感の対象にするようになるのか? そのために、なにをすべきか? それを模索することがゲームの中心になっていることが、本作の魅力であり、新鮮さだ。

 『Detroit:Become Human』では、アンドロイドが、バスや電車において人間と違う場所に乗せられたり、一方的に暴力を振るわれたり、奴隷のように扱われたり、意味もなく破壊されたりしている。強制収容所を思わせる施設も登場する。プレイヤーはプレイ体験を通じてこの苦境を体感させられる。乗り物の座る場所を分けることについては、1950年代までのアメリカで黒人に対して実際に行われていたことで、それに対するローザ・パークスの抗議がアメリ公民権運動の発火点となった。そして、強制収容所は、ナチスユダヤ人虐殺を思い起こさせる。


 小説や映画に比べて、テレビゲームでは、プレイヤーが操作するキャラクターへの感情移入度は高めになりやすいのです。
 あらかじめ決められたストーリーを追っていくのと、自分で「選択」した結果をみていくのとでは、後者のほうが「より、自分の身に起こることとして体感しやすい」気がします。
 ただ、2時間座っていれば終わる映画に比べて、テレビゲームはクリアするのに何十時間も必要で、先に進めるのも努力や技術、集中が求められるのなのです。

 僕がまだ学生だった頃、『アスピック』という3Dダンジョンを探索していくロールプレイングゲームがありました。


(以下、いちおうネタバレなので、これから『アスピック』をやる予定がある人は、注意してくださいね。そんなにいないとは思うけど)

 このゲーム、苦難の旅路の末、主人公である勇者が姫を誘拐したラスボスの蛇の怪物「アスピック」を倒して城に戻ると、最終的には主人公が乗り移られ、新たな「アスピック」になってしまうのです。


(ネタバレ終わり)


 小説や映画であれば、こういうオチもまた「作品の個性」として、受け入れやすいはずです。後味悪いな、と思いつつ。
 でも、何十時間も睡眠時間を削ってプレイした挙句、こんな終わりだと、やっぱり、キツイんですよね。
 報われないのは、現実だけでたくさんだ、という気分にもなります。
 
 ゲーム制作側が「作家性」を押し出してくるほど、プレイヤー側にとっては「自由度が低く、お説教をされているような気分になる」ことも多いのです。

 この本の中では、たくさんのゲームがレビューされています。
 『ペルソナ5 ザ・ロイヤル』のように、社会への問題提起とエンターテインメント性が両立できた作品もある一方で、「言いたいことはわかるけど、ゲームとしては楽しめない」と僕が感じたものもありました。

 大ヒットした『The Last of Us』の続編として発売され、賛否両論を巻き起こした『The Last of Us Part II』のように「評論の対象としては興味深いけれど、続編として『ゲーム』を楽しみたかったプレイヤーにとっては複雑な気分になる物語」もあります。


 著者は、ロックスター・ゲームスの創設者で、『グランド・セフト・オート』シリーズなどのディレクターを務めたダン・ハウザーさんについて、こう述べています。

 ダンと、兄であるロックスター・ゲームス社長のサムは、イギリスの弁護士であるウォルター・ハウザーとギャング映画などに出演していた女優のジェラルディン・モファットの間に生まれた。弁護士と、エンターテインメントとしての犯罪映画の出演者という二人の経歴が、そのまま彼らの作品に影響しているかのようである。
グランド・セフト・オート』などの内容は、母が仕事をしていたギャング映画の強い影響下にあるだろう。ギャング映画は、犯罪を描くエンターテインメントであるが、同時に犯罪をしなければならない境遇にある移民や貧困層、マイノリティの境遇を理解させるための機能も持っていた。『グランド・セフト・オート』シリーズも、この文法を踏襲している。犯罪者の背景にある事情や生育歴、環境への同情や関心は、父譲りなのかもしれない。
 これらのシリーズは、ゲームにおける暴力表現に置いて批判の槍玉によく挙げられるが、ここには善意や公共心、使命感などによって作られていた部分もあることは疑い得ない。そしてそれは、ゲームというかたちで、父と母が行っていた仕事を受け継ぐものでもあったのではないか。だから、弱いものに寄り添おうとする「宗教的実存」は、突然出てきたものではなく、ダン・ハウザーには元々あったものなのかもしれない。
 犯罪を行ってしまう弱者の背景を描く社会派ドキュメンタリーのような作品は、とても大事なのだが、なかなかポピュラリティを持てず、多くの人に届かない。売れるためには、好き勝手に殺戮する面白おかしい暴力ゲームのシステムを使わなくてはならない。そのような二面性と分裂は、商業的なエンターテインメントや芸術の宿命である。


 GTAグランド・セフト・オート)シリーズは、「暴力性を助長するゲーム」と批判されることが多いのですが、「ゲーム」として面白いからこそ、多くの人にプレイされ、「世界の現実」を知るきっかけにもなっているのです。
 「真面目なドキュメンタリー」も、観てもらえなければ伝わらないのですよね。
 実際は、どこまでが「商売」で、どこからが「啓発」なのかは、作家にしか(もしかしたら、作家本人でさえ)わからないし、『GTA』のようなスケールのゲームになってしまうと、売らなければならない、というプレッシャーも大きいはずです。
 
 だからこそ、開発費や製作者が少なくて済むSteamでのインディゲームの繁栄は、ゲームの幅を大きく広げてもいます。

 ゲームの評論、とくにそのストーリーへの言及は、「ネタバレ」になっているものも多く、「ああ、知ってしまった……」と後悔したところも何か所かあったのですが、「テレビゲームは、ここまで『社会的な存在』、そして『作家性が発揮されるもの』になったのか」と感慨深いものがありました。


fujipon.hatenablog.com

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