琥珀色の戯言

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【読書感想】メタバースとは何か ネット上の「もう一つの世界」 ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

フェイスブック社が社名を「Meta」に変更すると発表した。「Meta」とは「Metaverse=メタバース」の「Meta」である。では「メタバース」とは何か? ITに関するわかりやすい説明に定評のある岡嶋裕史氏(中央大学教授)が、その基礎知識から未来の可能性までを解説。「メタバース」は第四次産業革命に匹敵する変革を我々の日常にもたらすのか? はたまた、ただのバズワードで終わるのか?


 「メタバース」って何?ということで、「基礎知識」を得たい人にとっては、けっこう好みが分かれる新書だと思います。

 メタバースは、まだ辞書には載っていない言葉だが、辞書的な定義を書けば「サイバー空間における仮想世界」になるだろう。「サイバー空間」がわかりにくければ、そこを「インターネット」と読み替えてしまったもいいと思う。

 いまいち、ピンとこない表現である。インターネットそのものが仮想世界だと思われていることもあり、屋上屋を架す印象がある。
 ここで言う「仮想世界」をどう捉えるかで、メタバースの印象は180度違ったものになるだろう。
 まっとうな人の場合この仮想世界を、仮想現実(Virtual Reality:VR)と脳内変換することが多い。VRヘッドセットをかぶって、ポリゴンで形作られた世界に入る。そこが現実じみた空間であれば、確かに仮想の現実である。TVアニメ「ソードアート・オンライン(SAO)」(五感も含めて、完全に仮想現実に没入するタイプのゲームが描かれた作品。コンテンツを手に取って消費するのではなく、コンテンツの中に入っていく形になる)や、映画「レディ・プレイヤー1」(SAO同様に完全に仮想現実に没入するタイプのゲームを描いた作品。複数のゲームが存在して、そのプラットフォームになるサービスがあるなど、現在言われているメタバースにかなり近しい構成になっている。「現実がしんどいから仮想へ逃避したけど、仮想は仮想で巨大企業が支配してるよね」という通奏低音で作っているあたりがスピルバーグ色)で示された世界である。
 ただし、ファンタジーを含むこれらのイメージは、世界的なスタンダードとは言えなかった。というのも、一般的にはVirtual Realityは現実そっくりを志向するものだからである。日本語の訳としては、ひょっとしたら疑似現実がいいのかもしれない。
 だから、欧米のVR研究者・技術者たちは、VRで何かコンテンツを作ろうとするとき、まずは現実を模すことを考えてきた。VRヘッドセットの中で起きる体験にしても、できるだけ現実に近づけるのである。

 しかし、体験をデジタル化する技術には、もう一つ別の潮流がある。
 冒頭で述べた「ソードアート・オンライン」や「レディ・プレイヤー1」がそうだ。現実に似せる(疑似現実)のではなく、現実とは違うもう一つの別の世界を作ろうという方向性である。
「そんなの当たり前だろう。というか、仮想現実とはそういうものではないのか」と問う向きがあるかもしれない。それはおそらく日本の特殊性が関連している。


 同じ「VR」でも、日本では「現実(現在の世界や実際に体験できること)に似せる」のではなく、「現実とは違う、もうひとつの世界をつくる」ということが志向されやすいのです。


 この新書、著者の「仮想現実への愛情」にあふれているんですよ。
 著者は1972年生まれだそうで、ちょうど僕と同世代、アップル2の『ミステリーハウス』や、マイコンの『ザ・ブラックオニキス』の話が出てきて、「うわ、僕と同じように、パソコンやテレビゲームインターネットの進化と物心ついてからの人生がシンクロしている人だ!」と、なんだか嬉しくなってしまったのです。
 
 もう大人になってから、テレビゲームやインターネットに「適応」しなければならなかった上の世代や、「スマートフォンがあるのが当たり前の時代を生きている」という、若い世代に比べると、1970年くらいに生まれたわれわれは、コンピュータや仮想現実の進化とともに生きてきただけに、憧れや思い入れが強いのではないか、とも思うんですよ。
 正直なところ、「こんなマニアックな話、光文社新書の読者のほとんどは『何これ?』って、ついてこられないのではないか」と心配もしてしまうのですけど。

 先ほどの引用部に『SOA』や『レディ・プレイヤー1』の話が出てきましたが、これらの作品に触れたことがない、興味も持てない、という人たちにとっては、「著者の『偏愛』が暴走しているだけ」に思われるのではなかろうか。

 そんなに仮想現実がいいのか。
 リアルでうまくやっていたり、リアルの生活に親和性の高い資質を持っている人にはぴんとこない話だとは思うが、すごくいいぞ。
 私はリアルで生きるのが苦手な人間である。人間関係に気ばかり使う割には、好かれもせず、仕事の生産性も悪い。そもそも仕事に行く以前の話で、朝起きるのがうまくないし、満員電車に乗る才能もない。人生が下手くそなのだ。
 気分転換に食事に行ったり、旅行に行ったりするといいよとアドバイスをしてもらっても、人の集まるところではリラックスできないし、旅では道を間違う。
 だから、気分転換がしたいときは、いつもゲームをしている。ゲームメーカーの思惑通り、ゲームの目的(謎を解いたり、魔王を倒したり)に邁進することもあるが、そこで時間を過ごすだけのこともある。
 最近のお気に入りは(古いコンテンツだけど)『ニーア オートマタ(NieR:Automata)」だ。この世界では人類は滅んでいて、その足跡は廃墟と化し、今はアンドロイドと機械生命体しかいない。抜群である。リアルで汚染された心が、高圧洗浄で純白を取り戻すようだ。ニーア オートマタは終わりがあるタイプのコンテンツだが、敢えて終わらせずに散歩ばかりしている。


 僕自身は、著者ほどではなくても、同じように「現実よりも、仮想現実のほうが居心地が良い人生」を送ってきたので、読んでいて、「よくぞ言ってくれた!」って思うところがものすごくたくさんありました。

 データサイエンスを駆使したSNSがあれだけ選別を重ねても、確執と衝突は起こるのである。現代は、衝突が起こりがちなのに、衝突を容認しない社会である。ならば抜本的な解決策は一つだけだ。フィルターバブルの中で一人だけで生きていく。

 今まではそれが技術的に難しかった。SNSで快適に過ごしても、どこかで路銀を稼ぎにリアルへ出て行かねばならない。メタバースはそれを仮想現実の中で可能にする。
 一人が寂しければ、AIが形作る仮想人格や愛玩人形が無聊を慰めてくれる。
 あまりにも侘しい人生に感じられるだろうか? しかし、それすら過去の極めて硬直した価値観であるかもしれない。
 サブカルチャーは炭鉱のカナリアとして利用できると述べた。この分野でオタクはすでに先行事例を大量生産している。ゲームやアニメのキャラクタを恋人や配偶者として扱い、ガチャに数千万を投じ、抱き枕や等身大人形を連れて旅行に出かけ、誕生日を祝ってきた。
 リアルのチャペルで、二次元キャラとの結婚式を行う者もいる。
 勘違いしてほしくないのは、よく言われているように「リアルで相手にされていないから、二次元に逃げている」人だけではないのだ。多くの者が、リアルよりも二次元のほうが好きだから、キャラクタを恋人とし、配偶者とする。近年の「正義」や「多様性」のくくりには入れてもらえないので認知が進まないが、そういう性的少数者だということである。
 今まではこうした少数者だけの市場だったが、長い時間を経て仮想空間で恋人や配偶者を実現するための技術が磨かれたこと、リアルの恋愛リスクが高騰していることなどから、もう少し大きなセグメントがリアルから仮想現実へ流れていくことが予想される。


 やっぱり「触れ合い」が大事なのだ、と主張する人も多いでしょうし、「そんなの気持ち悪い」という向きもあるでしょう。
 でも、LGBTQへの認知と理解が求められ、性的少数者の尊重が繰り返し訴えられている世の中で、「とはいえ、相手が人間じゃないと異常」というのが許されるのかどうか。
 相手が小さな子どもである、というような場合には、子どもを傷つけないために性的な行為が禁じられるのは致し方ない。
 でも、対象が二次元のキャラクターなら、「相手が傷つく」という心配もありません(架空のキャラクターが本当に「傷つかない」のか?というのは、議論の余地があるのも事実ですが)。
 宗教を信じられなくなり、自分自身の人生内での幸福・充実を追求するのであれば、「面倒で衝突の繰り返しになるリアル恋愛や育児を忌避する」あるいは「現実がうまくいかず、『もっと頑張れ』と叱責され続けるよりは、仮想現実の世界で英雄として生きたほうがいい」と考える人が増えるのは、自然なことではないか、と僕も思います。

 映画『マトリックス』は、「機械の養分としてエネルギーを吸われながら、夢をみている人たち」が、その「現実」と闘う、という話なのですが(ちょっと端折りすぎですけど)、僕はあの映画をみて、「あんな原始社会みたいなところでみんなで暑苦しく踊っているより、機械の養分でも楽しい夢をみていたほうがマシなのでは……」と考えていたのです。
 登場人物の一人は「人間というのは、それなりのストレス、障害がないと、かえって幸福を感じられない生き物なのだ」と言っていましたが。

 現実世界では、「英雄」になれるのは、ごくごく一握りだけで、ほとんどの人は「村人A」として死んでいくわけですが、仮想世界のなかで、自分ひとりで生きていくのであれば、誰でも、それぞれの世界の「ゆうしゃロト」になれるのです。

 そんなの気持ち悪い、と思う人は、たぶん、この本も好きにはなれないでしょうけど、僕はそんなことばかり考えて生きてきたので、「よくぞ言ってくれた!」と頷きながら読みました。


 いまのネットの趨勢としては、「繋がれる可能性がある人は劇的に増えたけれど、実際に繋がるかどうかは別」なんですよね。

「人の承認なんて得なくていい。自由な社会なんだから、自分さえ納得していればいい」
 これは正論である。しかし、誰も幸せにしない類の正論だろう。誰にも評価されずに生きていけるほど強い人は少ない。誰かに褒めて欲しいが、そのために自分の活動をアピールすれば、褒められるよりは叩かれる機会のほうが多いのが現状である。
 そうした、フリクションばかりが大きい社会に目をつけたのがSNSである。SNSは友だちとつながるサービスではない。合わない人を切り捨てるサービスである。その割には、ツイッターにはそういう機能が乏しいと思われるかもしれないが、私はツイッターSNSの定義を外れるサービスだと考える。ツイッター社自身もそう述べている。
 大きな母集団の中から、軋轢を生まない人だけを抽出して、快適な閉じた空間を演出することにこそ、SNSの価値がある。だから、小さなSNSには、あまり意味がない。誰かにとって快適なメンバーを構成するのが難しいからだ。


 インターネット社会になって、人は「他者と分かり合うことの難しさ」をあらためて突きつけられた、とも言えそうです。

 僕はときどき、こうして生きているつもりの自分の人生が、「夢」だったり、自分は誰かがプレイしているゲームのキャラクターだったりするのではないか、と思うのです。荘子じゃないですけど。
 メタバースによって、今後、「人間にとっての幸福とは?」が、あらためて問われることになるのでしょう。


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