琥珀色の戯言

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【読書感想】カルト村の子守唄 ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

自由だった村は、どうして「カルト」化してしまったのか?
村の過渡期を描く、人気シリーズのエピソード0!

親子が離されて別々に暮らし、子供も朝5時半起きで労働をさせられ、布団はふたりで一組、食事は1日2回のみ、すべての物は共有で服もお下がり、男子は丸刈りで女子はショートカット、お金を持っていたら即没収、ビンタ・正座・食事抜きなど体罰は当たり前……。そんな「お金のいらない平和な社会」を目指す「カルト村」での驚愕の日々を描いた人気シリーズの最新作。

今回描かれた時代は、著者が生まれてから小学校に上がるまでの幼少期。このころの村はもっとゆるくて、のちにNGとなる「お酒、タバコ、テレビ、漫画、ゲーム」はすべてOKで、村の外の温泉に行ったり、デパートにクリスマスプレゼントを買いに行ったり……なんて思い出も。
ところがある日突然「新しい世話係さん」が現れて、漫画やゲームは没収され、テレビも禁止になり、髪を短く切られて、両親に会える回数も減っていき……。
のんびりしていた村が、過酷で理不尽なカルト村に変化していく転換期のエピソードを、丁寧な絵と手書き文字で描いた「実録コミックエッセイ」。
両親がなぜ村に入って結婚したのかを、著者自らが探る「カルト村で出会いました。私の両親編」も収録。


 タイトルをみると、名探偵・金田一耕助が登場する横溝正史作品みたいなのですが、内容は、ちょっと「普通」とは違う「カルト村」での幼少期の記憶を断罪ではなく郷愁とともに描いたエッセイコミックでした。

「カルト村」で生まれ育ち、思春期までほとんど「お金を使わない、というかお金をほとんど見たこともない生活」を送ってきた著者は、そこでの記憶をこれまでも作品にしているのですが、読んでいると、「よくここまで、子ども時代や若い頃のことを覚えているなあ」と感心してしまいます。
 以前、ある有名な作家が「もの書きにとって大事な才能は、子どもの頃の感情をしっかり記憶していることだ」と書いていたのを思い出しました。


fujipon.hatenadiary.com


 「カルト村」というタイトルがついているのですが、著者自身は、自分の故郷や幼少期の記憶を「ひどい目にあわされた」と感じているわけではなく、「これもまた自分の人生だったのだ」と愛憎半ばで振り返っているように思われます。
 その村を運営していた組織の名前を出さずに「カルト村」で通しているのも、「ちょっと変わった体験ではあるけれど、村や両親のすべてを恨んでいるわけではない」ということなのではないかと。
 Amazonでの感想などを眺めていると「ひどい」「かわいそう」という人も多いのですが、特殊な思想に基づかなくても、家庭単位でもっとひどい環境もたくさんありますし、それぞれの人にとっては「自分が経験してきた環境こそが、自分にとっての『普通』」なんですよね。


fujipon.hatenablog.com

 
 著者の記憶(と御両親からの聞き取り)によると、「カルト村」は、農業を基盤にしたコミューン団体(共同体)で、お金のいらない平和な社会を目指していたそうなのですが、著者が生まれたばかりの村の規模が小さい時期は、

 酒・タバコ・テレビ・漫画・ゲーム・朝食・子供が親と暮らすこと全てOK!!

 だったそうです。
 というか、これが全部ダメな生活だったら、僕は全然違う人間になっていたことでしょう。
 初期の「カルト村」はけっこう自由で、農業を生業にした、お金をなるべく介在させない共同体、だったようです。
 子どもたちの「水着の共有」とか「飴玉の共有」なんていうのは、今の僕の感覚では「ええーっ!」なのですが、思い返してみると、友達から舐めかけの飴玉とかもらっていたような記憶もあるんですよね。
 僕が物心ついてから、この半世紀近くで、日本は物質的には豊かになったし、衛生的にもなりました。
 「人の心は……」と言う人もいるけれど、まだまだ不十分ながら「家のため」とか「結婚して子供を残すのが当たり前」みたいな考えは古いものになってきていますから、悪いほうに向かってはいないと思います。

 この本のなかでは、最初は比較的自由で牧歌的で、テレビのバラエティ番組や漫画も許されていた「カルト村」の子どもたちが、新任の「世話係さん」によって、急激に締め付けられ、「村の子どもらしく」あるために、さまざまなものが禁止されていく様子が描かれています。
 そうやって厳しくしつけられた子どもたちが発表会で大きな声で歌ったり、礼儀正しくふるまっていたりするのをみて、大人たちは「いい子に育っている」「あの世話係さんは有能」と評価していたのです。
 
 カルト宗教と言われる団体でも、「子どもたちをときには暴力も使って、躾ける」ことにより、言うことを聞かない子どもに悩む親たちを感動させる、というテクニックが勧誘のために使われているのです。

 自分が子どもだったときのことを思い出せば、「そんなに礼儀正しくふるまう子どもは、むしろ異常なのだ」ということに気づきそうなものなのですが、人は、大人になると、自分が子どもだったときのことを忘れてしまうんですよね。
 まあ、忘れるから「大人」をやっていられる、という面もあるとしても。
 僕も、今の自分を子どもの頃の自分が観たら、きっと幻滅すると思うもの。

 ちなみに、この村に禁止事項が増え、同調圧力が強くなっていったのは、世間に注目されるようになったことも影響していたようです。

 まあ大体「村」っていっても「理想の社会を作って外部に見せるための形」みたいなもので、村人の意思も入ってたとは思うけど「一般社会に村をどう見せるか」ということが重要だったんだよね

 と著者は述べています。

 最初は「村人たちの幸せで平和な暮らし」が優先されていたはずなのに、どんどん「外部にどうアピールするか」が重視されるようになり、「差別化」をはかる人たちの発言力が強くなってしまったのです。

 これを読みながら、考えていたんですよ。
 スターリンだって、仲間を粛清したりシベリア送りにするために共産党に入ったわけじゃないだろうし、毛沢東だって、文化大革命をやるために革命戦争をやり遂げたわけではなかったはず。
 でも、組織ができて、そこで権力の偏在が生まれると、「理想」という名目で、ひとりひとりの人間は抑圧されてしまう。
 大なり小なり、組織というのはそういうもので、「権力は腐敗する」のは歴史の必然なのでしょう。

 著者の両親が村で出会って結婚するまでの、それぞれのエピソードも興味深かったのです。
 自分の親の若い頃とかなれそめの詳しい話なんて、なかなか聞けませんしね。
 「その人が喪われたら、一緒に消えてしまうであろう経験」がこうして形になったのは、なんだかとても貴重なことのような気がします。
 ふたりとも、体験入村した友人の話を聞いて村に興味を持ち、そこで生活することになったそうなのですが、その友人は「そういう村があることを教えてくれた」だけで、村とは関係ない人生を送った、というのも「人生って、そんなものだよなあ」と感じました。
 友だちの付き合いでやっていた趣味のはずなのに、最終的には自分のほうがハマってしまう、ときには人生も変わってしまう、そういうことって、ありますよね。


fujipon.hatenablog.com

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