Kindle版もあります。
「すべてのエンタメプロデューサーが、今を知るためにまずは読むべき、唯一の教科書」 ――佐渡島庸平氏
「メガヒットのルールが変わった。新しいリテラシーを得た者が、地殻変動後の覇権を握る」 ――尾原和啓氏
鬼滅、ウマ娘、Fortnite、荒野行動、半沢…
ゲーム、アニメ、動画の経済圏を支配するのは、
世界が絶賛する日本の「オタク経済圏」か、
攻勢を強める米中の「ハリウッド経済圏」か?
2年くらい前に、同じ著者の『オタク経済圏創世記』という本を読んで、僕がイメージしていた「エンテーテインメント産業(マンガやアニメ、映画、テレビゲームなど)の中心と、現在の産業として(お金を稼ぐため)の要点とが、かなりズレていたことを思い知らされたのです。
この『オタク経済圏創世記』のなかで、著者は、著者は、コンテンツビジネスを行っていくうえで、最も重要なポイントとなるのは「アニメ化」だと指摘しています。
マネタイズの決着点は「著作権(ライセンス)」である。作品の権利をもつプレイヤーはその作品がヒットしたときに、その人気をマネタイズして、収益配分にあずかることができる。アニメにはキャラクター画像、声、動画、ストーリー、音楽などがすべて込められている。マンガだとこうはいかない。マンガを映画にする、アニメにする、ゲームにする、商品にするといったときに「決まっていないこと」が多すぎる。背景を含めた世界はどうなっているのか、主人公はどんな声をしているのか、どんな音楽であればその世界に合うのか。マンガはこうした情報密度の低さ(それゆえにマンガは制作がスピーディで普及が早いメリットもあるが)ゆえに、メディアミックスの起点としては物足りない。ほとんどのキャラクターがアニメ化するのは、ライセンス展開してどんどん広げるための「その世界をとりまく情報」を一度固めることができるからだ。だからライセンスのハブとなるのはアニメである。
原作のマンガやライトノベルを「アニメ化」することによって、キャラクターの姿や声を具体化し、映像配信サービスやソーシャルゲーム(テレビゲームも)、グッズや広告でのキャラクターのライセンスで稼ぐことができ、それらは、原作のマンガや小説よりもはるかに大きな「市場」になっているのです。
例えば『ポケモン』であれば、1996年に誕生した時から約25年で10兆円の消費売上がもたらされ、そのうち半分の6兆円はキーホルダーやカップ、玩具のような商品化によるMD(マーチャンダイジング)事業から生み出されている。さらにその規模はここ5年で大きく羽を広げている。すでに累計売上で0.5兆円規模になったアプリゲーム「ポケモンGo」が毎月5000万人にプレイされ、ポケモンMDの潜在購入ユーザー数が格段に増えたからである。
『妖怪ウォッチ』が大ブームになったとき、僕はメダルに群がる子どもたちをみながら、「もうこれで『ポケモン』も終わりかもしれないな」と思っていたのです。
ところが、『ポケモン』はその後再び勢いを取り戻し、ゲームの中だけでなく、アニメや映画、キャラクター商品、カードゲームで大きな存在であり続けています。
『ポケモンGo』は、『ポケモン』全体をV字回復させた、とも言えそうです。
この『推しエコノミー』では、アメリカと中国という現在の二大市場に挟まれて、日本のエンタメコンテンツは、どうやって存在感を保っていくべきか、について検証されています。
アメリカや中国には、日本国内だけの「エンタメの市場規模」では太刀打ちできないけれど、中途半端に「アメリカ向け」「中国向け」のコンテンツを作ろうとしても、なかなかうまくいっていないのも事実です。
『鬼滅の刃』や『ポケモン』は、海外市場を狙って創られたものではないけれど、そのクオリティに世界中が反応しただけなんですよね。
著者は、ハリウッドでは、架空の生き物のキャラクターでも、「中身は人間らしくあること」が求められるけれど(例えば、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』のおっさんっぽい言動のアライグマこと「ロケット」のように)、日本では、そこまで「人間に寄せる」ことを重視しない傾向がある、と述べています。
中国でスマホのアプリ『にゃんこ大戦争』が人気になっている、という話を読んで僕は驚いたのです。
僕の長男が楽しんでいるのは知っていたけれど、僕自身は何が面白いのかよく分からず、あれが中国でもウケるのか、と。
日本で30年前くらいに大ヒットした対戦格闘ゲーム『ザ・キング・オブ・ファイターズ』や、『魂斗羅』『ラングリッサー』などが、2010年代半ばから、中国ではモバイルゲームとして大ヒットしたそうです。
今の世界では、国境・国籍よりも年齢・世代の違いのほうが「好みの差」に影響するのかもしれませんね。
著者は、この本の主要テーマのひとつである「推し」について、こんなふうに述べています。
恋愛、性愛、結婚、出産の1つ1つに内包されるしがらみや自分の自我から解放されて、自分の代わりに頑張っている「推し」を応援する。多くの人にとって、自分の人生の中には感動するような物語にはなかなか出会えない。そんな自分の代わりに、「推し」は頑張って何かを実現してくれて、感動を与えてくれる。そこで人々は理想の人生を「生きなおし」をするような作用を与えるものになっているのではないだろうか。
演出家鈴木聡氏が、ももいろクローバーZについて語った次の言葉がそれを代表しているように思える。
(ももクロには)どこか部活をやっているような、良い意味でのアマチュアスピリッツも漂う。突出した美人というわけでもないので、異性としてみたり、彼女にしたいというより、高校野球の球児に対するような、「親戚の子」的親しみが湧いて、応援したくなってしまうんです。
この「推し」の感情は、結婚や出産といった「ゴール」を必要としない。
男性・女性としての「役割」を生きることのしんどさに代わって、「推し」としての活動は、自分の役割を忘れさせてくれる。見返りを(そんなに多くは)期待する必要もなく、自分自身の身の丈に合った消費でそれ以上の感動を与えてくれる。高校時代に戻ったようなドキドキを、同じ背丈の推し友とそれぞれの処遇やステータスに関わらずワーキャーできていることが純粋にうれしい。推しとはがんじがらめの役割とリスクから逃れての青春時代の追体験と、「生きなおし」なのである。
役割からの積極的逃避は、まさにゲーム・アニメ・マンガといった本書のテーマとなるポップカルチャーの世界が最も象徴的にそれを体現してくれるジャンルである。自分の社会的生活とは隔絶した、あくまで個人的な趣味である。さらには推しとの関係性というのはゴールもなく、ただひたすらに体験型の消費活動としてお金を奪われるものでもある。いったい何のために…と思う外野も多いことだろう。
だが、例えばゲームに熱中できる条件とは、兎にも角にも「どうでもいい」という点に尽きる。自分の社会的生活とは無関係に隔絶されているからこそ、ゲーム的にその世界を楽しめる。現実からの逃避と言われようとも、あまりに子供じみた愛着行動と言われようとも、これが「どうでもいい」コンテンツだからこそ、夢中になって感情的な満足感を得て、厳しさのある日常で、毎週末の夢から覚めるような月曜日を乗り越える力になる。
だが、1周回って、この「どうでもいい」空間が、再び人に活力を与え、人々との関係性を繋ぎ、最終的にはそこで恋愛相手や結婚相手を見つけるということを助けるコミュニティ機能を担うようになっている。よく年長者から「勇気がない若者は一人前にリアルで相手も見つけられないのか」という嘆きも聞かれるが、これは決してリアルとバーチャルの戦いではない。若者にとってリアルもバーチャルも、最終的な人と人との関係をつなぐものという感覚は変わらない。
僕は正直なところ、わざわざ「人と人をつなぐ」ことにこだわらなくても、「バーチャルな存在と繋がっていれば、それで幸せ」であれば、もう「リアル」にこだわる必要はないとも感じているのです。
そして、「どうでもいい」からこそ、安心して夢中になれる、というのは、確かにそうですよね。プロゲーマーでもなければ、ゲームオーバーになっても、ものすごく悔しいだけで、現実での生活に悪影響が直接及ぶわけではありません。
SNSが多分にソーシャル化しすぎていることも理由だろう・エンタメは比較的「安心してさらせるコンテンツ」でもある。
フェイスブックは友人だ毛でなく上司や元カレに至るまでこれまでの黒歴史も全て引きずった政治色ガチガチのメディアとなり、何をポストするかだけでなく何にいいねを押しているかすら監視されているような気分になる。かろうじて結婚報告と出産報告だけは素直にいいねを押せるが、よほどのリア充か自己顕示したい人間でないとポストできなくなっている。個人的な生活はインスタグラムのストーリー投稿(24時間で消える)か届け先が限定されたLINEグループ飲み。
そうした中で仕事も家庭もさらさずに中立的な「自分の趣味」としてのキャラクターは、誰も傷つかず、誰の目もひいてくれる。ディズニーランドの投稿は「映える」し、「安室(『名探偵コナン』の人気キャラクター・安室透)の女」となってコナンで7回執行された(映画を7回観た)話は半ば自虐で半ばファン度の強い友人からの称賛も集める。テーマパークも映画も音楽ライブも、体験型エンタメがこの10年おしなべて成長市場だったのは「映える」部分でのソーシャル効果がほかのコンテンツにない副次機能として十分効果を果たしていたからと言えるだろう。
インターネットで「ソーシャル化」が進んだおかげで、自分をネット上にさらけ出すリスクが認識されるようになり、「推しキャラ」を通じてしか、自分を語ることができなくなってしまった、ということなのかもしれません。
「誰それは、あの人の投稿に『いいね!』を押した」なんていうことが問題視され、ネットニュースになる時代ですから、SNSで存在証明をしたいけれど、リスクは避けたい、という場合、「推しを語る」ことが選ばれがちになるのも理解できます。
2022年にエンターテインメントに関する仕事をしている人は、読んでみて損はしない本だと思います。
観客としては、どう振る舞うのが「正解」なのか、そもそも「正解」なんて存在しないのかと、考え込んでしまうのですが。