あらすじ
半地下住宅に住むキム一家は全員失業中で、日々の暮らしに困窮していた。ある日、たまたま長男のギウ(チェ・ウシク)が家庭教師の面接のため、IT企業のCEOを務めるパク氏の豪邸を訪ね、兄に続いて妹のギジョン(パク・ソダム)もその家に足を踏み入れる。
2020年、映画館での3作目。
平日の朝の回で、観客は10人くらいでした。
第92回アカデミー賞で、外国語映画として史上初となる作品賞を受賞したほか、監督賞、脚本、国際長編映画賞(旧外国語映画賞)の4部門に輝いています。
この『パラサイト』、観終えての最初の印象は、「これは『ジョーカー』と同じ話ではないのか」ということでした。
これだけでも、かなりネタバレっぽいのですが、あらためて考えてみると、(『ジョーカー』+『万引き家族』)÷2、に園子温監督の薬味を入れたような感じです。
ただ、『ジョーカー』に関しては、主人公のアーサーが「病んでいる」という前提があるため、「頑張っても頑張っても、裏目裏目で、ほんと、世の中って冷たいよな」って気分になるのですが、この『パラサイト』は、半分くらいまで、僕はムカつきっぽなしでした。
「何この厚かましいキム一家!自分たちさえよければ、他の人はどうなってもいいのかよ!こんな連中に共感できん!アカデミー賞作品賞って言うけどさ、投票している連中は、みんなパク社長側の人間のはず。なんでこれをそんなに高く評価するんだ?」
正直、僕は最後まで、キム一家にあまり共感できませんでした。
「半地下」の生活はつらいだろうし、一家そろって仕事がないのはかわいそうだけれど、だからといって、やることがあまりにも汚い。
この人たちは、アーサーみたいに病んでいるわけではない。お父さんは陸上の大会でメダルを獲っているし、長男のギウはインテリ家庭の娘の家庭教師をやっても問題ないくらいには英語ができ、長女のギジョンはコンピューターをけっこう上手に使えて、デザインの能力もある。
そういう「平均以上の能力があって、こんなズルいことができるくらいの知恵もある人たちが、『半地下』から出られない社会」というのが、この映画が描いている「資本主義が極まった国、韓国」なのです。
そういう韓国社会の予備知識があったほうが、観やすい映画だと思います。
この本では、韓国の「無限競争社会」の一端が紹介されています。
競争からこぼれてしまった、あるいは、競争に参加することすらできなかった若者たちは、仮想通貨で一発逆転を狙うしかない。仮想通貨取引の過熱による被害が広がり、政府はこれを規制しようとしましたが、韓国の若者たちは強く反発しています。
今、韓国の若者たちの間では、いくら頑張っても親から受け継いだ地位を変えることはできない、自分の階層は変わらないという考えが支配的だ。階層移動ができなくなった社会で、「仮想通貨」だけが投資した分だけ稼ぐチャンスを得られる。公正に機会を与えてくれる」と、彼らは主張するのだ。
サムスンなどの大企業の門はあまりにも狭く、中小企業の待遇は劣悪で、いつ会社がなくなるかわからない。
若者たちは、安定している公務員を志望するけれども、ものすごい競争率になっているそうです。
OECD加盟国のなかで、もっとも青年の自殺率が高い国、韓国。
韓国の青年世代を指す流行語に、「N放世代」という自虐的な言葉がある。「すべて」を表す不定数の「N」に、「あきらめる」という韓国語の頭文字である「放」を合成した「N放世代」は、厳しい経済状況のため、すべてをあきらめて生きる世代という意味だ。
恋愛、結婚、出産をあきらめる「三放世代」という造語が誕生したのが2011年で、その後、青年失業率の増加と非正規労働者の増加がマスコミで大々的に報じられるようになった2015年頃から流行語として盛んに使われるようになった。以降、三放に加えて就職やマイホームもあきらめる「五放世代」、さらに人間関係や夢までもあきらめざるを得ない「七放世代」を経て、今や人生のすべてをあきらめたまま生きる「N放世代」へと進化したのだ。
病気なわけではなく、働く意欲があり、それなりの教育も受けていそうなのに、「半地下」から、どうやっても地上に出ることができない。
劇中で、「大卒者が500人も集まって、ひとつのガードマンの仕事を取り合っている」という、韓国の就職難や競争社会っぷりが語られているのですが、韓国ではあまりにみんなが教育熱心なため、後天的な努力で逆転するのが難しくなり、結局は、富裕層の子弟が、また富を受け継いでいくのです。
もともと「勉強ではなく、手に職をつけて生きていこうとしていた」のであれば、「まあ、勉強してなかったんだから、しょうがないな」と諦めざるをえなくても、懸命に努力したのに、最終的には「生まれた家の経済力」にはかなわないというのはつらいだろうな、と思うんですよ。
「なぜ、(アカデミー賞を獲ったのが)『万引き家族』ではなくて、『パラサイト』だったのか?」と、考えていたのです。
もちろん、アメリカでの韓国映画の普及のために尽くした人々の力が大きかったのでしょうけど、それとともに、この「頑張っても報われない人々」というのは、いまのアメリカ人にとって、すごく「共感できる」存在だったのではなかろうか。
『ジョーカー』のアーサーに、同情はできても、自分を投影できる人は、そんなに多くはないはずです。
『万引き家族』は、なんのかんの言ってもやっていることは「万引き」とか「公費の不正受給」というような犯罪行為なのですが、キム一家は、職を得るプロセスは無茶苦茶だけど、パク社長の家で、ちゃんと働いてはいるわけですし。
それでも、ずっと日本人として過ごしてきた感覚では、キム一家への「このセコい連中、なんか不快だなあ」というのを、拭うのが難しかった。
「資本主義的な競争社会」を突き詰めることによって、貧富の差が拡大し、多くの人を半地下に追いやりながら、国全体の「経済成長」につなげてきた国(アメリカや韓国)の「格差への怨念」は、人口がそれなりにいて、「内需」で賄える部分が大きく、「失われた20年」とか言われつつ、みんな仲良く長い間経済的に停滞してきた日本人には、わかりにくいのかもしれません。そう考えると、あの経済的な低迷は、多くの日本人を「より不幸にはしなかった」とも言える。
でもなあ、僕はやっぱり、半分くらい、パク社長側の立場で、この映画を観てしまう。
「格差」は悪い。でも、本人としてはそれなりに努力した結果でも、豊かな生活をしているという理由で、憎まれたり、責められたりするのは理不尽な気がする。けれど、どんなに理不尽でも、殴られれば痛いし、当たり所が悪ければ、命にかかわる。
陰口でもそれが相手に伝われば「直接言った」のと同じ、あるいはそれ以上の憎悪を生むことがある。
貧困層は富裕層を憎み、富裕層は貧困層を怖れる。
同じ人間、とはいっても、その間にある壁は、どんどん高く、厚くなっていく。