琥珀色の戯言

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【読書感想】虚ろな革命家たち ──連合赤軍 森恒夫の足跡をたどって ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

第20回開高健ノンフィクション賞、史上最年少受賞!<連合赤軍事件とは。今、若者の目線で見つめ直す。>

大学院で学生運動について研究していた著者は、ある手紙に出合う。父から子への想いが綴られたその手紙は、12人の同志を殺害した連合赤軍リーダー森恒夫によるものだった。残酷な事件を起こした犯人像と、手紙から受ける印象が結びつかない筆者は、森恒夫の足跡(そくせき)を追い……。
なぜ28歳の青年・森恒夫は日本に革命を起こそうとしたのか、なぜ同志を殺害したのか、そしてなぜ自ら命を絶ったのか……。
その答えを求め、森の高校時代の同級生、北朝鮮に渡った大学時代の後輩、「総括」を生き延びた連合赤軍の元メンバー、よど号ハイジャック事件実行犯の一人・若林盛亮らと対話する。

──誰だって、「彼」に成りうるのかもしれない。
開高健ノンフィクション賞を史上最年少で受賞した若き著者が、事件を追いながら、いつの世もつきまとう「政治と暴力」を解決するヒントを探る。


 1970年代のはじめに生まれた僕にとって、学生運動というのは「村上春樹の小説に出てくる世界」でした。
 それでも、僕がまだ若かった1980年代には、「マルクス主義にもとづいて、平等な社会をつくろう」というスローガンは、それなりに魅力があったように思います。
 それから、ソ連や共産圏が崩壊し、北朝鮮の内実が明らかにされていったこともあり、共産主義は「みんなが貧しくなり、権力者が独裁政治や言論統制を行い、ろくでもない社会になってしまう」というイメージに塗り替えられていったのです。
 あの頃の僕は、若かった。
 思えば、僕が「もっと世の中、平等にできないものだろうか」という理想を持っていた時代の日本は、現在の2020年代よりも、僕の目にみえていた「格差」は小さく、みんなが未来に希望を持っていたような気がします。
 より「格差社会」になった日本で、「格差をなくそう」という思想が支持されなくなっているのは、もう人間に格差をなくすことなどできないと悟ってしまったからなのか、なんのかんのいっても、「他人と競争する社会」のほうがエキサイティングだからなのか。
 歴史的に「赤狩り」なども行われ、共産主義への反発が強かった資本主義の総本山ともいえるアメリカで、格差社会にあえいでいる若者たちが「社会主義」や「マルクス」を学びなおしているというのを考えると、「歴史はくりかえす」可能性があるかもしれません。

 きっかけは2016年に見つかった、ある一通の手紙だった。

 六日で二十八回目の誕生日を迎えます。一月前に小さな生命も一年目を迎えている筈ですが、感無量です。


 子を想う親の心情がつづられた、ほほえましく、そしてありふれた手紙だ。
 だがこの手紙を初めて読んだとき、ぼくは強い衝撃を受けた。なぜならそれが、「あさま山荘」で警察と銃撃戦を繰り広げ、「総括」によって同志12人のリンチ殺人を行った、連合赤軍のリーダー森恒夫(もり・つねお)によって書かれたものであったからだ。手紙の消印は1972年12月11日。森が東京拘置所自死する三週間前に、同じ連合赤軍の坂東国男に送ったものだ。滋賀県大津市にある坂東の実家「ばんど旅館」が取り壊された際に発見された。
 1960年代後半、高度経済成長によって日本国内の生活が豊かになる一方で、世界では東西冷戦の緊張が続き、社会は大きな変化を迎えていた。そんな時代に起きた、学費値上げや大学当局の問題に学生たちが抗議した全共闘運動や、アメリカによるベトナム戦争に加担する日本政府への反戦活動。ヘルメットをかぶり、ゲバ棒を持った日本の学生運動はこれまでにないほど過激化していた。よど号ハイジャック事件に始まり、交番や金融機関への襲撃。そして、あさま山荘事件とその後発覚する山岳ベース事件。その一連の事件に関係し暴力による革命によって、日本を変えていこうとしていたのだが、赤軍派と革命左派という二つの組織が合流した連合赤軍であり、組織を率いていたのが森恒夫永田洋子(ながた・ひろこ)という二人の指導者であった。
 大学院で学生運動に関する調査をして、事件の概要を知っていたぼくにとって、過激な武装集団を率いて数々の凶悪事件を起こすだけでなく、山岳ベースで同志殺しを主導した森が、一人の父親として子どもの成長に感動する姿は想像できなかった。


 僕は、「あさま山荘事件」が学生運動への世論の反発の決め手になったと思っていたのです。
 しかしながら、著者は、この本のなかで、「あさま山荘事件」よりも、その後に発覚した、「組織のなかで、12人もの仲間を粛清していった山岳ベース事件」のほうが、人々により強い嫌悪感を抱かせた、と指摘しています。「あさま山荘」の時点では、まだ学生たちに同情する意見も少なくなかったそうです。

 彼らにとっては、敵に比べたらはるかに少ないであろう「仲間」に対して、どうしてそんな苛烈な処遇をしたのか?
 殺された同志がやっていたことが、明らかなスパイ行為とか、裏切りであれば、納得された可能性もありますが、実際は、「なんでそんな理由で、『仲間』にひどいことができるの?」という「難癖」ばかりだったのです。

 連合赤軍結成の前段階として計画された共同軍事訓練のため、革命左派は山梨県の黒桂河内川上流にある赤軍派の新倉ベースに向かっていた。その途中、赤軍派から植垣康博が迎えに来ていた。このとき植垣は革命左派のメンバーに「水筒を持ってきましたか?」と訊いた。これに革命左派のメンバーは沢伝いに歩いてきたので水筒の用意はいらなかったと答えると、植垣は笑いながら「まあいいや」と言い、トランシーバーで赤軍派のベースに水を持ってくるよう要請した。するとこれをベースで聞いていた森恒夫赤軍派のメンバーに、水稲問題で革命左派を批判するように指示を出したのだ。
「共同軍事訓練をやるために革左は常に水がある所に行っていたから、水筒なんて持っていく習慣もなかった。ところが赤軍派は尾根歩き派なの。新倉ベース自体が尾根の近くにあって、革左が水筒持ってこないっていうもんで『そんなの信じられない』って。確かに山歩きの常識からいうと、水はどうしても持ってないといけないものだけれど、革左の沢登り派からいうといつも沢ばかり歩いているもんだから、飲みたいときはいつでも飲みたいだけ飲めると思うわけよ。それで植垣がトランシーバーで水筒と握り飯持ってこいと連絡したら、森恒夫は『これであいつらをギャフンと言わせて押さえてしまおう』と、これが例の水筒事件なんだけどね。植垣なんかは水筒事件はそんなに問題にすることではないと書いてるでしょ」
「そこにヘゲモニーを取ろうとする意図があったんですか?」
 雪野はうなずく。
「永田から見れば大したことと思っていない水筒のことでね、散々言われて納得がいかないわけよ。そこで遠山さんを見て反撃したわけ」
 水筒問題によって共同軍事訓練の最中に何度も赤軍派のメンバーから批判を受けた革命左派のリーダー永田洋子は、赤軍派の女性メンバーである遠山美枝子が指輪をしながら訓練をしていることに気づくと、「革命戦士としての資質に反する」と、これを批判し始めたのだ。
「永田は常に相手のささいなことを問題にして、相手を黙らせるという手法をとってきたからさ、それは一貫しているの彼女。とにかく生活上のあれこれ、こいつはこんなひどいやつだと言って、それと同じような意味で遠山批判をもって対抗してね。ただこれはどっちもどっちであってさ、森が水筒問題で主導権を取ろうとしたのと同じレベルで、遠山問題を契機にして反撃しているわけよ。お互いに同じレベルでやり合っているわけ」
 水筒問題で永田を批判した森は、逆に永田から遠山問題で自派のメンバーの資質を追及されたのだ。この問題を解決するため、森が打ち出したのが「共産主義化」という言葉だった。それは連合赤軍のメンバーを革命のための兵士とする指針であったが、抽象的な理論を各々が独自に解釈したことで、何をすれば「共産主義化」なのかという基準は曖昧となった。そうして「共産主義化」のための「総括」は留まることなくその対象を広げ、死に至るまで継続することとなった。

「総括」が始まったとき、森は妻と子を山に連れてくると宣言していた。だが本心は違っていたようだ。メンバーの一人が上京する際、森は妻と連絡をとるように指示を与えていた。結局その任務は果たされなかったのだが、そのときに「山の様子は伝えるな」と森は言いつけていた。自らが招いた「総括」の嵐に自分自身も取り込まれながらも、妻子の安全だけは見失うことはなかったのだろう。そのメンバーも「(森は)奥さんを山に入れることは嫌だったのだと思います」と証言している。
「総括」の犠牲となった金子みちよの夫で、彼女のお腹の子の父親でもあった吉野雅邦は、無期懲役で収監中の千葉刑務所で記した「千葉ノート」において、自分の妻と子を殺害した森についてこう記している。

 あの「総括要求」の中で、唯一森君が全員の前で自己批判したのが、金子みちよを死なせ、お腹の子を「道連れ」にさせてしまったことでした。森君はRちゃん(連合赤軍の山本夫妻の子ども。1歳で山に連れて来られたが事件後に保護された・引用者註)を大変可愛がり、また、自分の息子の話をする時は相好を崩し、大変子煩悩で、このお腹の子を何とか助けたいと思っていただろうことは疑う余地はありません。  (『あさま山荘銃撃戦の深層』大泉康雄「吉野雅邦 千葉ノート」)


 他人の妻子は「総括」の名目で殺しておいて、自分の妻子を危険から避けようとしたのは、ひどい人間だとも思うし、そういうものだよなあ、とも感じます。
 「連合赤軍」が、赤軍派と革命左派の二つの組織が合流したもので、革命左派出身者のほうが人数が多く、それまでもより過激な、血を流すことを厭わない行動をとっていたことを考えると、少数派である赤軍派出身の森恒夫という人は、組織のなかでイニシアチブをとるための「ささいなことをきっかけにしたマウンティング」と「理論武装」に頼らざるをえなかったのかもしれません。
 常に誰かを「総括」する側にいないと、自分が「総括」される側になってしまう、という恐怖感もあったし、「大義」みたいなものがあれば、あるいは、偉い人の命令であれば、残酷なことでも躊躇なくできる人は多いのです。
 僕はこれを読みながら、真面目な剣道部の主将(それも、剣道がすごく強いわけではなくて、真面目だからという理由で半ば主将を押しつけられながらも、ずっと練習に出て最後まで後輩の面倒をみていたそうです)で、照れ屋だったという森恒夫という青年が、なぜ、あんんなことをやってしまったのか、その理由を考えていたのです。
 
 この本のなかには、29歳で獄中で自死した「連合赤軍」のリーダーがどんな人間だったかについて、彼と接点があった人たちのさまざまな証言が収められています。
 でも、森恒夫を『Wikipedia』で、「日本のテロリスト」と最初に書かれる人間にした「決定的な何か」が存在するのかというのは、読み終えても、よくわかりませんでした。
 ただ、「これがその理由だ」みたいな書かれかたがされていないのは、著者の誠実さであり、「決め手」「根拠」なんて存在しないまま、人は生き、流れに抗えずにとんでもないことを結果的にやってしまうのではないか、とは思ったのです。
 その後のオウム事件でも、連合赤軍の「総括」のような、内部粛清での死者が出ています。

 ハンナ・アーレントが、ナチスアイヒマンを評した「凡庸な悪」という言葉も、思い出さずにはいられませんでした。

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 森恒夫という人がハマったのが「革命」ではなくて、「世の中の役に立つ研究」や「芸術」あるいは「仕事」だったら、全く別の人生になったのではないか、という気がします。
 結局、人間というのは「実際に行ったことがすべて」なのだとしても。



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