琥珀色の戯言

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「鏡の法則」と「カルトの楽園」

http://www.arai516.com/blog/2006/07/post_e7bc.html
最近話題になっている、↑の「鏡の法則」と、それにまつわるいろんな人の感想を読んでいて僕が感じたのは、みんな「宗教的」なものへのアレルギーがすごく強いのだなあ、ということだった。
いや、僕も「泣いた90%」のうちに入ることはできなかったのだけれども、その最大の理由は、この話自体が使い古された「どこかで何度も聞いたことがあるような話」であり、とくにすぐれた文章ではなかった、ということだった。でも、「泣く」とか「泣かない」なんていうのは、こういう文章そのものの演出の良し悪しにも左右されるだろうし、受け手である僕たちの今までの人生経験によっても、「泣けるかどうか」なんていうのは、大きく変わってくるものなのだ。

例えば、小説版の「世界の中心で、愛をさけぶ」を読んで、「なんだこのベタな難病小説は?」と失笑していた人でも、映画で長澤まさみが死にそうになっている姿を見れば泣いてしまう場合だってあるだろうし、恋人や友達を白血病で亡くした人であれば、自分の経験を思い出して泣くことだってあるだろう。「鏡の法則」だって、子育てに悩んだことがある人や、親子関係に問題を抱えていた人であれば、自分の記憶とリンクさせて泣いてしまっても、全然おかしくないと思う。人が歳を取ると涙もろくなるのは、引用されるべき悲しい経験をたくさんしてきているから、という面はあるのだ。

この「鏡の法則」という話、正直、別にみんながこんなに取り上げるほどたいした話でもないし、この程度の「宗教的な話」というのは、世界のあちこちに転がっている。この間感想を書いた「名言セラピー」なんてまさにそうだし、本屋に並んでいる「いい話」「泣ける話」というのは、この手のものが多い。「周囲を変える前に、自分の考え方を変えるのだ」というのは、自己啓発セミナーや自己啓発本では常套手段なのだし、その手のセミナーというのは、けっして「いかがわしいもの」だと評価されているものばかりではないのだ。企業の「研修」にも、その手の内容のものは、少なくないみたいだし。

僕は正直、この「鏡の法則」レベルの話まで、「カルトの入り口だ!」とか言われているのを読むと、「じゃあ、どこまでがカルトじゃなくて、どこからがカルトの『入り口』なのだろうか?」と考えてしまう。
それこそ、「いただきます」と食事のときに言うのは「カルトの入り口」だ!とか、親に感謝するのは「カルトの入り口」だ!というような話になると、あまりにも、この世はカルトの楽園なのではないか、という気もしてくるのだ。

そして、「はてなダイアリー」で文章を書いている有為な若者諸君が思っているほど、「カルト」というのは、僕たちと隔絶した存在ではない。
(この場合「カルト」の定義というのが非常に難しいところなのだが、基本的にここでは、「過剰な布教行為や経済的な負担を信者に強いる、宗教的な団体」と定義させてください)
ちょっと自分の周りを見渡してみてもらいたい。友達、友達の友達、親戚、隣人……そういう身近な人たちのなかに、いわゆる「カルトな人」が全然いない、と断言できる人は、どのくらいいるのだろうか?僕たちが実際に生きていく上で、そういう人々を完全に無視し、排斥して生きていくことが可能なのだろうか?
僕の友人の親戚にもカルトな人がいて、その人は、「この不浄な世界を救うため」に、全財産を教団に差し出し、親戚である友人に金を借りて生活しているのだという。しかしながら、そのカルトな人が言うには、「お前(友人)らはこのままでは地獄に堕ちる」のだそうだ。友人は困り果てているのだが、他の身寄りもなく、放っておくのも忍びないので、結局援助を続けている。あるいは、友人のひとりは、好きになった女性がカルトな人だった。彼女は非常に礼儀正しく、つつましい女性であり、友人は「家族に信仰を強要しないこと」だけを条件に、彼女と結婚したのだ。でも、結局のところ、彼女は母親として自分の子供たちに信仰を強要したため、2人は別れることになった。
「カルトな人」は、どこにでもいるし、その大部分は「普通の人」として日常生活を送っているのだ。そして、日常生活を送っていく上で、そういう人々をことごとくスポイルしていくというのは、現実問題として不可能だ。親戚は選べないし、好きになった人が、ある宗教の信者だからといって、別れられるような思い切りの良い人ばかりではあるまい。
「カルトな人」が作ったものは食べられない、なんて言ったら飢え死にするかもしれないし、「カルトな人」が作ったものは受け入れられない、というのであれば、このパソコンだって、使えないかもしれない。
そこまで徹底するのであれば、むしろそのほうが、「脅迫的カルト排斥」という「カルト」だとも言えるだろう。
「カルトな人」と「カルトじゃない人」は居住区が分かれているわけでもないし、僕たちは、知らないだけで、本当にたくさんの「カルトの入り口」を目にしているのだ。
テレビによく出ている芸能人にだって、「カルトな人」はたくさんいるという話だし。
そして、「理性の人々」は、「でもあの人は、○○教だし」と言って、「宗教に支配されていない自分」の優越を確認している。
オレは、カルトなんかには騙されないぞ!って。
でも、だからといって、世界のすべてを信じないというわけにはいかないし、その「信じていいもの」と「信じてはいけないもの」の「ボーダーライン」を見極めるというのは、本当に難しいことなのだ。
そもそも、その「ボーダーライン」そのものが、ゆらゆらと揺れ動いて一定しない。
もちろん、僕にもよくわからないし、怪しいものはとりあえず拒絶しておいたほうが安全だとは思う。
そして、そういう「カルトなもの」に対する拒絶反応は、ごく真っ当なものだと思う。ヘタすれば身ぐるみはがされた挙句、精神的・肉体的な自由まで奪われてしまうのだから。
騙されないためには、まず、近づかないのがいちばんだ。
でも、自分で思い込んでいるほど、僕たちの「選球眼」はたいしたものではないし、そもそも、「カルトにハマる人たち」というのは、みんな、ヒマつぶしでカルトにハマっているのではなくて、自分の力では解決できないような難題に直面して、「救い」を求めてカルトに漂着してしまった人なのだ。僕だって、もし自分がそういう立場になったら、「救い」を求めてしまう可能性は、十分にあると感じている。
みんな、バカだからカルトに引っかかるわけではなくて、助けてほしいから引っかかるんだよ。
だから、僕がいま、自分のことを「無宗教」などと標榜できるのは、単に運がいいだけのことかもしれない。

まあ正直、この「鏡の法則」に関して言えば、「じゃあ、北朝鮮テポドン撃ってくるのは、日本人の心がまえが悪いからなのか?」とか言いたくもなるし(将軍様は本当にそう考えているのかもしれないが)、この「法則」を素直に受け入れられるひとは、たぶん「いいひと」なのだろうから、それはそれで幸せなんじゃないかな、と思わなくもない。「全部自分のせい」って、「全部誰かのせい」と同じくらいの「思考停止」だとしか思えないのだけれども。

しかし、この現代に生きているインターネットの人たちが、この程度の「カルトの入り口」に、(賞賛も批判も含めて)過剰反応するほど、「カルト免疫」ができてないというのは、正直意外だった……

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