琥珀色の戯言

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【読書感想】不屈の棋士 ☆☆☆☆☆

不屈の棋士 (講談社現代新書)

不屈の棋士 (講談社現代新書)


Kindle版もあります。

不屈の棋士 (講談社現代新書)

不屈の棋士 (講談社現代新書)

内容紹介
羽生善治は将棋ソフトより強いのか。渡辺明はなぜ叡王戦に出ないのか。最強集団・将棋連盟を揺るがせた「衝撃」の出来事、電王戦でポナンザに屈した棋士の「告白」とは? 気鋭の観戦記者が、「将棋指し」11人にロングインタビューを敢行。プロとしての覚悟と意地、将来の不安と葛藤……。現状に強い危機感を抱き、未来を真剣に模索する棋士たちの「実像」に迫った。


 コンピュータ将棋ソフトと人間の「勝負」によって、近年の将棋界は、大きな盛り上がりをみせました。
 オセロやチェスがそうであったように、いつかは「その日」が来るだろうと思いつつも、それを見たいような、見たくないような……
 ただ、現実的には、もう、ある程度「決着」はついているともいえそうです。
 人間側の代表として、現役の名人が直接対決をしたわけではないけれど、羽生さんであっても、佐藤名人であっても、最強ソフトと戦えば、そう簡単には勝てないはず。
 そもそも、現役棋士たちの多くも、コンピュータを研究に使っているのです。
 コンピュータは、ライバルであるのと同時に、必要不可欠な「ツール」にもなっています。


 コンピュータのほうが、人間のプロ棋士よりも強くなってしまったら、人間の「棋士」に存在意義があるのか?
 コンピュータどうしの「対局」をみれば、十分ではないのか?
 そちらのほうが、レベルが高いのであれば。


 この新書は、そんな「プロ棋士という職業の大きな転換期」に立ち会っている著者が、多くの棋士に取材をし、彼らの「言葉」を引き出したものです。

 私は観戦記者として日々の取材をする中で、ソフトについて棋士に尋ね続けた。ある者はソフトに白旗を上げ、ある者は「まだ戦える」と言い切った。ソフトに嫌悪感を示す者もいれば、自分の将棋に役立てている者もいた。
 悲観と楽観。批判と称賛。力のこもった言葉を浴び続けた私は次第に困惑していった。とにかく棋士によって意見が大きく異なるのだ。

 そのうちに、ふと思った。棋士たちの真摯な言葉の数々を、そのまま証言集としてまとめあげればおもしろいのではないか、と。
 コンピュータの発達によって仕事を失うかもしれない——。
 この命題を突きつけられているのは棋士だけではない。将棋界は決して特別な業界ではないのだ。いま、インターネットや雑誌で、「○年以内に消えそうな職業ランキング」という記事をご覧になる機会もあると思う。人工知能の発達は留まるところを知らない。いつ誰が、現在の棋士が置かれているような状況に立たされないとも限らないのだ。そんな時に、棋士たちが考え、発した言葉の数々が読者のヒントになることもあるはずだ。


 現在進行形で、たくさんの人間の仕事が、コンピュータに置き換えられています。
 もちろん、その置き換えのスピードは仕事によって異なっているのですが、車の運転や医療のような「人の命にかかわる仕事」については、いずれはコンピュータのものになるとしても、導入は慎重になされていくと思われます。
 それに比べて、娯楽の場合には、「コンピュータが変な挙動をしても、人が死ぬわけじゃない」ので、早い時期から「置き換え」が起こりやすいのです。
 その一方で、例えば、ディズニーランドのキャストが削減されて、ほとんどコンピュータ制御になったら、それはそれで物足りなさを感じるような気もするんですよね。
 それは単なる思い込みなのかもしれないけれど。
 もしかしたら、最初にコンピュータに置き換えられるにも、最後まで人間が従事するのも「エンターテインメント」なのかもしれません。

 
 「コンピュータによる失業危機」の最前線に立たされているプロ棋士たちなのですが、その状況に対する向き合い方は人それぞれです。
 それでも、「もう人間のプロ棋士は必要なくなる」と考えている人は、現時点ではいない。


「コンピュータ将棋否定派」とされている行方尚史八段は、著者にこんな話をしています。

——「トップ棋士とソフトはどっちが強いんですか」とストレートに投げかけられたら、何と答えますか?


行方:いい勝負でしょう、と。そもそも人間対ソフトは対等な勝負ではないと思っています。だってソフトは疲れないし、プレッシャーも感じませんから。顔色もわからない。異種格闘技戦という人もいますけど、本当に別物でしょう。僕は人間対人間で、相手の息遣いを感じながらやっていきたいと思っています。


 確かに、「別物」ではあるんですよね。
 人間と車が100メートル競走するようなもの、なのかもしれません。
 でも、観客にみえるのは「盤面」だけのことが多いので、それが「異種格闘技戦」であることがわかりにくい。
 そして、「プロ棋士」というのは、人間の知性の代表、みたいなところがあるので、その敗北は、人間の敗北のようにも思われるのです。
 コンピュータをつくり、思考ルーチンを考えたのも人間ではあるのだけれども。


 その一方で、コンピュータ将棋に造詣が深い千田翔太五段は、こんな話をされています。

——千田さんが書いたNHK杯戦の自戦記で「いまのコンピュータ将棋に勝てなくても、挑まなくてどうするのか」という一文が印象的でした。


千田:そもそも挑まなければどれくらい棋力が上がったのかもわかりません。私は「ソフトと人間は違うよね」といって閉じてしまうのが嫌なんです。いや、人間とソフトは確かに違いますが、それでソフトの棋譜の価値を認めないというのは疑問ですね。ソフトの棋譜を見ないで人間だけの将棋に意識が向かう。それでいいのか、と。あれはコンピュータ将棋を直視しない棋士に向けて書いたところがあるんです。


 いまのプロ棋士の対局では、「コンピュータ将棋発」の手が少なからず使われてきてもいるのです。
 コンピュータによって、人間の棋士も強くなってきているし、「人間がコンピュータに挑む」というストーリーも、今後はありえるのかもしれません。
 チェスのことを考えると、一度追い抜かれてしまったら、抜き返すのは至難だとは思うけれど。


 これはもう、スタンスとか世代(コンピュータが子供のころから身近にあったかどうか)の違いもあるし、どちらが正しい、といえるようなものではありませんよね。


 今後の「プロ棋士の生きる道」として、著者は糸谷哲朗八段の言葉を紹介しています。

 ソフトと「戦ってみたい」という糸谷。
 ただし、「いつかはわからないが、ソフトに完全に越されてしまうことは間違いない」とも語っている。ではその時、棋士はどうすればいいのだろうか。
 糸谷の答えは「将来、棋士の価値は普及にシフトしていくことになる」。もっとも「ソフトの存在だけではなく、自分が年を取って将棋に勝てなくなったら自然と普及に力を入れることになる」とも言う。寂しい言い方だが、トーナメントプロとして役割を終えた後は、ファンサービスに徹するということだ。


 人間の棋士が生き残っていくための方策として、村山慈明七段は、こんな話をされていました。

村山:コンテンツ力を上げていきたい。最近は「ニコニコ生放送」の影響で、将棋は指さないけど見ることを楽しむファンが増えてきた。そういう方は棋士に魅力を感じている。だから僕と兄弟子の飯島栄治さんの因縁の話とかすると喜ばれるんです(笑)。


 「将棋は指さないけど見ることを楽しむファン」というのもいるのか……
 上手い下手はさておき、自分で指さないと、見てもわけわかんないんじゃない?
 そう思ったのですけど、最近は僕も将棋を全然指してないんですよね。
 ひと勝負に1時間くらいかかるとなると、正直、腰が重くなる。急に上手くなるわけでもないし。
 それでも、人間の棋士が織りなす「厳しい勝負の世界」には魅力があって、将棋の世界で起こっていることに、興味はあるのです。
 これからは、「人間ドラマを含めた、観る将棋」が主流になってくる可能性はあります。
 対局に時間がかかりすぎることが、今後の課題になるかもしれません。


 将棋ファンはもちろん、これからコンピュータと「競争」していかければならない人に、考えるきっかけを与えてくれる本だと思います。
 ……というと、ほとんどすべての働いている人、ということもなりますが。


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