琥珀色の戯言

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【読書感想】ゆめいらんかね やしきたかじん伝 ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

内容(「BOOK」データベースより)
“関西の視聴率男”やしきたかじんの原点は歌手活動にあった。七〇年代半ばにデビューしたが泣かず飛ばず。どんな仕事も引き受けると、先に、“しゃべくり”が評価された。その後、優秀なスタッフに恵まれ、『やっぱ好きやねん』『東京』などヒット曲を出す。一方、タレントとしては東京進出に失敗。関西に根を下ろし、人気番組の司会を務めながら安倍晋三首相やビートたけし氏ら各界の大物と交友関係を築いた。晩年は歌手活動再開を模索するも、その矢先に病に倒れた。波瀾万丈の六十四年に迫る人物評伝。文庫化に際して大幅加筆し、作詞家・及川眠子氏の解説も収録した。


 僕にとっての「やしきたかじん」は、関西の番組でよく司会をしている人、というくらいのイメージしかありませんでした。
 あまり出演している番組を観たり聴いたりすることもなかったし、むしろ、『殉愛』騒動以降、亡くなってからのほうが、その「人柄」について興味を持つようになったのです。
 この『ゆめいらんかね やしきたかじん伝』は、『殉愛』が出版され、大きな話題となった際に「角岡さんが書いた伝記のほうが客観的かつ公正なものではないか」と言われていたのですが、結局、多くの人に読まれたのは、話題性がある『殉愛』のほうだったんですよね。
 僕も、こちらものほうも読まなくては、と思いつつ、あの騒動でなんだかやしきたかじんさん関連の話題に関わるのに疲れてしまって、読まずにいたのです。
 今回、加筆・文庫化されたのを機に手に取ってみたのですが、こちらのほうは、やしきたかじんさんのお父さんが在日朝鮮人だった、という出自に関する話から(ただ、僕自身は、この出自コンプレックスが本人の人生をどのくらい変えてしまうのか、というのは実感できないところがあるのですけど)、厳しかったけれど、歌手としての活動を応援してくれたお父さんや、歌手からタレント活動中心になるまで、そして、3度の結婚生活や周囲のスタッフ、マネージャとの関係まで、丁寧に関係者を取材して書かれています。
 

 歌手として世に出ることを切望していた、やしきたかじんさんなのですが、世間から評価され、売れたのはトークを中心としたタレントとしてでした。
 

 1976年に近畿放送に入社した為森隆は、新入社員時代からたかじんの担当になった。
「上司から『ちょっと滅茶苦茶な奴やから、気ィつけて付き合えよ』言われて会ったら、なかなか厄介なオッサンやなと思いましたよ。彼が二十五、六歳のことですね。若いディレクターの言うことなんか聞くタイプちゃいますわ。『日本列島ズバリリクエスト』の水曜日を担当してたんですが、たかじんが危ないことを言うから、録音したものを放送してました。一番印象に残っているのは、腹立ったことを言いたい放題に言うことですかね。『タクシーに乗って、運転手に話しかけても返事せえへん。釣銭も投げて寄こした。今度乗ったら、ただでは済まんぞ!』とかね。タクシー会社の名前までしゃべるから『やっぱり、そこまで言うたらアカンわ』て、よう注意しましたね。とにかく好き嫌いがはっきりしてる人でした」
 マイクの前でしゃべることに慣れてくると、内容はますます過激になっていった。別の番組で、リスナーから募集し、頭の悪い女子高、すぐコトに至れる女子高を実名で発表した。学校関係者が怒るのは当然である。この件で長らく近畿放送には出演できなくなった。
 度が過ぎることはあったが、軽妙なトークは次第に若者に受け入れられた。大阪・毎日放送の人気ラジオ番組『ヤングタウン』にもレギュラー出演し、次第に「やしきたかじん」の名は知られていく。ラジオで鍛えた話術は、後にテレビの司会やコンサートのトークで花開くことになる。


 こんなの、今だったらネットで大炎上して一発退場なのでは……
 テレビタレントとしての、やしきたかじんさんは、「視聴率男」だった一方で、自分の番組づくりには妥協を許さない人で、思ったように進まなかったり、段取りが悪かったりすると、仕事を投げ出したり、スタッフを殴ったりもしていたそうです。
 それでも、「視聴率が獲れる」ということで、許されていたのです。

 
 ただ、たかじんさんは、テレビで何がウケるかというのを自宅でもずっとテレビ番組をみて研究したり、身体を張って現地取材したりと、自分の仕事に対しても厳しい人ではありました。
 パネル(フリップ)を多用して視聴者にわかりやすく説明する、というのも、たかじんさんとスタッフが確立したスタイルなのだとか。
 

 そして、本人は「歌手」であることを誇りにしていたのに、なかなか歌のヒットには恵まれなかったのです。
 タレントとして売れてからは「自分で歌いたい歌しか歌わない」というスタンスだったそうですが、それが許されたのは、歌手としての実力とともに、本人は歌にこだわりがあっても、「収入的には歌が売れなくても全く困らない」という状況だったからでもあるんですよね。
 それで食べていく必要がなかったからこそ、好きな歌を好きなように歌えたのです。

 
 1992年からはじまった『たかじんnoばぁー』が高視聴率番組となり、たかじんさんがタレントとして絶好調だった時代のことを、当時の「弟子」だった橋本義己さんがこう語っています。

 たかじんは自分の番組で、男、独身、普通免許所有を条件に弟子を募集し、タレント志望でアルバイトをしていた、二十代半ばの橋本を月給7万円で採用した。憧れのスターの精神は、荒れに荒れていた。
「いい意味で調子に乗ってたんで、天狗になってた時期でしょうね。誰の言うことも聞かへんかった。自分自身でも精神的にきつくなって、自律神経失調症になったんもあの時期です。手のツメを噛むから、どの指のツメも極端に短かった。いつも(精神的な)余裕がなかったですね。
 関西で一番売れてて、一番みんながついてこなアカンのに、ついてこなかった。新年会で、タレントやスタッフがたかじんさんの家に集まっても、誰も楽しそうにしてませんでした。『おめでとうございます』って来るけど、仕方なくっていう人たちばっかりやったから。心底喜んで来てる人はおらへん。仕事がもらえるから、うるさいから来てますっている態度の人ばっかり。帰るってなったら、みんな一斉に帰りましたもんね。『誰が残る?』『お前、残る?』みたいな。そんなんを見て、本人も相当しんどかったと思いますよ。


 ああ、この新年会は、どちらにとってもつらそうだよなあ……
 ただ、こういう「渇き」「不安」みたいなものが、たかじんさんを勉強熱心にさせ、タレントとしての成功をもたらしたところもあるのだと思います。
 面白くない、視聴率が獲れない「いい人」よりも、視聴率を稼げる「嫌なヤツ」。それが「仕事」というものの一面ではあるのです。


 たかじんさんの「歌」への思い入れの強さについて、こんなエピソードが紹介されています。

 コンサート活動の休止中も、たかじんは歌手であった。ただし、数千人を前に歌うのではなく、カラオケルームで5、6人を相手にした、ギャラが出ない歌手である。
 アフターでホステスたちとよくカラオケに行った。自分の曲を中心に二十曲以上を歌うが、場を盛り上げるためであろう、上着は着たままだが、下はトランクスひとつになって歌うことがあった。上品な紳士がすることではない。
 たかじんが歌っているときは、会話をしてはならないのが不文律だった。ところが初めて彼とカラオケに行く人間は、それを知らない。同僚に話しかけているホステスに怒ったたかじんは、テーブルをひっくり返したり、マイクを投げつけたり、はたまた出前でとったうどんを頭からかけることもあった。
 不文律は多岐にわたった。足を組んではならない、食べてもいけない、タバコを吸ってはならない、携帯電話の電源は切っておかなければならない、間奏中に拍手はしないほうがいい……。
 自分が一瞬でも注目されないとわかると、ふてくされた。たかじんにとっては、たかがカラオケでは済まされなかった。歌手休業中であっても、手を抜いて歌うことはけっしてなかった。
「そんなにうまいんやったら、歌手になったら」
 ホステスやママたちは、そう言ってからかった。本人はその冗談が気に入ったようで、しばらく自虐ネタとしてほうぼうで語っていた。


「関西の視聴率男」として、あれだけ多くの視聴者に愛された男は、私生活では、かなり困った人であり、「孤独」に取り憑かれていたのです。
 だから、たかじんさんは幸せじゃなかった、とは思わないけれど。
 ほとんどの人がみることができなかったものを、みてきた人なのだし。
「みんなに愛される」って、本当に難しいよね。
 

fujipon.hatenadiary.com

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