琥珀色の戯言

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【読書感想】新・冒険論 ☆☆☆


Kindle版もあります。

内容紹介
GPSに頼る北極探検や、スポーツ化した登山は疑似冒険であって冒険ではない!


では冒険とはいったい何なのか?
構想20年、常に新しい冒険に挑んできた角幡唯介が、満を持して世に送り出す、空前絶後の冒険論!


なぜ、現代のエベレスト登山は冒険ではないのか?
なぜ、ナンセンのフラム号漂流は冒険とよべるのか?


角幡が導き出した「脱システム」という概念で、冒険の本質を考える!


これまでに、チベット・ツァンポー峡谷の人類未踏部踏破や雪男探索、北極探検隊全滅の真相追求、80日間にもおよぶ太陽の昇らない「極夜」の暗黒世界探検など、ジャンルや固定観念にとらわれない創造的な冒険を行ってきた角幡唯介


本書を読めば、角幡の冒険が、なぜ型にはまらず独創的なものなのか、その発想がよく分かる!


 「冒険」とはいったい何なのか?
 僕自身は、まったく「冒険」とは程遠い人間なのですが、だからこそ、冒険や探検をする人に興味があって、彼らが書いた本もよく読んでいるのです。
 角幡唯介さんは、数少ない「いまの時代を生きている冒険家」だと思いますし、この新書の内容も、角幡さんがこれまでやってきたこと、書いてきたことに沿ったものです。

 冒険を実践し、冒険について考察してきた一人の人間として感じるのは、この20年で冒険を行うのが幾何級数的に難しくなってきたということだ。産業が発展してテクノロジーが進歩したことにより人類は地球上のほとんどあらゆる場所に苦も無く足を運べるようになった。その結果、冒険は大衆化し、容易になり、テレビ番組をつうじてお茶の間に浸透しているように思える。だが、大衆に訴えることを狙ったことを狙った活動は、じつは冒険っぽいイメージだけをまとった見せかけだけの疑似冒険にすぎないことが多い。辺境へのアクセスが容易になったことで、逆に本物の冒険が難しくなっているというのが、私の偽らざる実感である。


 角幡さんは、この本の第一章で、ジャーナリストの本多勝一さんの冒険論を紹介しています。
 本多さんは京都大学に日本ではじめての探検部を創設したメンバーのひとりで、さまざまな「冒険論」を残しているのです。

 彼によると冒険の条件は基本的に次の二点に要約できるという。一つは危険であること。この場合の危険という意味は、文字どおり生命の危険を意味しており、ジェットコースターに乗ってスリルを感じるときのような、一見、危険であるように見えるが裏でしっかりと安全が確保されているような行動は冒険にはなりえない。もう一点は、その行動が主体的であることだ。たとえば、本人の意志とは無関係に徴兵されて戦闘に参加させられて九死に一生を得るというようなケースは、明らかに生命の危険が生じているので冒険であるように思えるが、その行動自体は国家権力が有無をいわさず挑発して強制したものであり、個人が主体的に選び取ったものではないので冒険とはみなされない、ということになる。


(1)明らかに生命への危険をふくんでいること
(2)主体的に始められた行為であること


 この二点さえ満たされていれば、その行動は冒険であると本多勝一はいう。

 
 1982年に公開された『ドラえもん のび太の大魔境』のなかで、のび太が「あらゆる場所を人間は探検しつくして、もう地球上には秘境はなくなってしまった!」と嘆いていた場面があったのを思い出します(この映画、2014年に『ドラえもん 新・のび太の大魔境 〜ペコと5人の探検隊〜』としてリメイクされました。
 いまでは、地球上のほとんどの場所をグーグルアースで見ることもできるんですよね。
 角幡さんは、エベレストの頂上や南極大陸でさえ、観光ツアーで行くことができるようになったことを紹介しているのです。
 

 今ではバラエティー番組の企画で登山とは無縁の女性タレントがエベレスト登頂に挑んでも、すごいな、頑張ったな、よくやったなと思う程度で、まあそういうこともありうるだろうなぐらいの感想しかわかない。しかし、まさにその事実こそ、エベレスト登山がわれわれの常識の枠内におさまったことをよくあらわしている。


 僕などは、それでもやっぱり、エベレスト登山となれば、すごいなと思います。
 だからこそ、高い参加費を払い、それなりのトレーニングをして、エベレストに登ろうという人が少なからずいるのでしょう。
 

 著者は、現代における「冒険」は、「脱システム」なのだと述べています。

 現代は冒険の難しい時代だとされる。従来の一般的な見方であれば、冒険が難しくなったのは、単にその対象となる処女峰や地理的空白部が少なくなったためだと説明されてきた。人間には脱システムして冒険したがる傾向があり、原始の時代からシステムの外に出てひたすら探検、冒険をくりかえしてきた。その結果、20世紀初頭には北極点、南極点の両極が征服され、1953年にはエベレストまで登頂されるにいたった。しかし人類の飽くなき冒険欲はそこでとどまらない。その後も人類はエベレスト以下の山頂を次々に落とし、あらゆる地理的空白部に足跡を記し、記録がないと聞けば、それこそ川の支流のさらに源流の、ジャングルの奥地の、そこに行って何か意味があるんですか、と訊きたくなるような先端や皺の中まで足を延ばしてきた。その結果、今ではついに行く場所が無くなってしまったというわけだ。
 しかし私は、ことはそんなに単純な話ではないと思う。現代において冒険が難しくなったのは、人間があらゆる隙間に足跡を残したらということもあるが、それだけではなく画一的なシステムが地球上の空間領域をフラットにおおいつくしてしまったからという理由も同じくらい大きいのではないだろうか。
 たとえば人跡未踏の空白部があるとする。そこは人間が住む集落から何百キロも離れており、純粋に自然環境だけを見れば真の荒野だといえる。30年前ならそこを旅することは人間界から離れた脱システム的な冒険だっただろう。ところが現代では単にそのようなウィルダネス(原生的な自然環境)に行くだけでは、真に脱システム的な行動だといいきれなくなっている。なぜならGPSや衛星電話という通信技術の発達で容易に外部とつながれるので、何か不都合ことがあれば簡単にその自然環境から離脱できてしまえるからだ。どこでもドアみたいなものである。つまり表面的な自然環境は原始のままなのだが、実質的には通信テクノロジーが可能にしたシステムの網がはりめぐらされており、本来、脱システム的領域が持っていた混沌や未知といった要素がほとんど除去されてしまっているのだ。


 角幡さんは、これからの「冒険」は、地理的な視点に縛られない、どこか一つの目的地に到達することを目標としないものになるのではないか、と仰っています。
 

 有名どころでは、トール・ヘイエンダールによるコンチキ号探検<どこかに到達することではない冒険>に分類できるだろう。ヘイエンダールはノルウェーの人類学者で、ポリネシア人が太平洋上に拡散したのは従来考えられてきたアジア側ではなく、アメリカ大陸側から筏にのって漂流してきた結果であるとの考えをもっていた。その自説を証明するため、彼は妻が引き留めるのも聞かず、ペルーにわたって筏を作り、仲間とともに海流にのってポリネシアまで漂流する。それがコンチキ号探検だ。
 このコンチキ号探検も表面だけ見るとペルーからポリネシアに漂流航海することが目的なので地理的な到達を目的にしているように見えるが、これも真の目的は別のところにあった。その目的とは古代ポリネシア人に近い方法で太平洋を航海をすることで、彼らが見た世界を追体験し、現代人の目では見えなくなった古代人の世界の中に入り込むことである。
 このように<どこかに到達することではない冒険>は現代においても可能だし、そうした冒険が素晴らしいのは地理的な制限を受けないので未知なるフィールドが一気に、ほとんど無限大まで広がる可能性があることだ。新しい視点さえあれば脱システム的領域が見つかるので、限られたゴールに体力自慢ばかりが群がるスポーツ化のような袋小路にはまることもない。
 ただ問題なのは、その新しい視点が見つかるかどうかである。


 これからの冒険は、地理的なものよりも、「システムから脱すること」を目的にせざるをえない、というのは、わかるような気がします。
 そもそも、地球外でもないかぎり、「未踏の地」は、ほとんどなくなってしまっているのです。
 写真が生まれたあとの現代アートのような感じだよなあ、と思いながら、僕はこれを読んでいました。
 「冒険」はそれを行う、あるいはそれを見る人間の内面に訴えるものになってきているのです。
 「冒険」を定義することそのものが「冒険」なのだ、とも言えそうです。


 「ゲーム攻略動画」が、もう、「攻略するだけ」では差別化できなくなって、「レベル1でラスボスを倒す」とか、「最速攻略」など、さまざまな「縛り(制限)」をかけることによって細分化していっているような感じなのかもしれません。
 

 ただ、人間が身体を使って行う「冒険」となると、そこには「人命」とか「安全性」という問題も生じてきます。
 いまの時代に「GPSも衛星電話も使わないで厳しい自然環境に立ち向かう」というのは「脱システム」の冒険として成り立つのではないかと思うのですが、「もし遭難したらどうするんだ?」と危惧する声に対して「いや、野垂れ死にしてもいいから」というわけには、なかなかいきませんよね。冒険する側も、される側も。
 今の世の中って、冬山で遭難して、助けが来るまで命がもたないであろう人と、家族が衛星電話で会話することも可能なのです。
 そういうとき、どういう話ができるのだろうか?


 テクノロジーの進歩ほど、人間の身体や考え方は進化していない。
 近い将来、ネットや携帯電話を持たずに生活するだけで「冒険」になってしまう時代が来るのではないか、そんなことを考えながら読みました。


 この『冒険論』に興味を持たれた方は、角幡さんが実際にこの「脱システム」という冒険を実践した近著『極夜行』を読んでみてください。


極夜行 (文春e-book)

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