琥珀色の戯言

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【読書感想】サッチャー 「鉄の女」の実像 ☆☆☆☆☆


Kindle版もあります。

マーガレット・サッチャーは、20世紀後半を代表する政治家の一人だ。
1975年に保守党党首となり、79年には英国史上初の女性首相に就任。
「鉄の女」の異名をとり、90年まで在任した。
サッチャリズムと呼ばれた政策は、今なお賛否を集めている。

本書は、波乱に富んだ生涯を照らし、その実像を描き出す試みである。


僕が物心ついたときからずっと、英国の首相はマーガレット・サッチャーでした。
「鉄の女」というのは、最初はソ連からの侮蔑だったとこの本で紹介されていますが、のちに、共産主義に対抗する強い意志を持った首相の象徴として、この言葉が使われるようになっていったのです。

サッチャー首相は、ヨーロッパで初の女性のリーダーであり、10年をこえる在任期間は稀有なものです。
多くの女性がロールモデルとしてきた存在である一方で、「サッチャリズム」とも言われるその政策には、現在でも賛否が分かれています。
効率化によって英国の経済を建て直したという称賛もあれば、「自己責任」の名のもとに、後世の資本主義国家での格差拡大の先駆けとなった、との批判もあります。


liberal-arts-guide.com


国営企業の民営化や金融のさまざまな自由化を推進していった一方で、若い頃、第2次世界大戦でのドイツの空襲の経験が影響していたのか、常にドイツへの警戒心を抱き続け、ヨーロッパ統合に対しては懐疑的な立場をみせていました。

 少女時代のサッチャーに関して、生涯をつうじて重要性を持つことが二つある。一つは、短い睡眠時間でもやっていけたことだ。首相になってからのサッチャーは、夜遅くまで資料を読みふけり、閣議や外国の要人との会談に備えたことで知られるが、その片鱗はすでにこの時期から見られていた。次に、彼女がグラマー・スクールで学んだのは、第二次世界大戦の最中であった。グランサムには砲弾を製造する軍需工場があったため、イギリスの中でも特に激しいドイツ軍の空爆に曝された。1941年から42年にかけて21回の爆撃があり、計88名が犠牲になっている。この経験がサッチャーを筋金入りのドイツ嫌いにした。

サッチャーさんほどの「強い人」が、戦争のときのドイツへの恨みと恐怖心が、ずっとその政治活動にも影響していた、ということに、人間は、自分の経験から逃れることはできない生き物なのだな、と考えずにはいられません。

著者は「鉄の女」からイメージされる頑固な保守主義者、自己責任の権化のようなサッチャー像に対して、実際は自分の信念に合わないことでも、閣僚や国民の声をきいて、方向転換するべきときは(消極的にでも)していた、という事例を多数紹介しています。

サッチャー首相誕生の背景には、階級社会の英国の保守党で重視されるような血統も地盤もなかったからこそ、保守党の権力争いのなかで「とりあえずサッチャーを首相にしておけば、あとでどうにでもコントロールできるだろう」と党の重鎮たちが考えて当選させた面もあったようです。

そんな「一時しのぎ」のはずだった人が長期政権を築き、将来を嘱望されていたエリートがスキャンダルで退場していくのもまた、政治というものの機微なのかもしれませんね。


名門政治家一族出身でもなく、党での基盤も弱かったサッチャー首相の支持率の向上は、1982年に起こったフォークランド紛争での軍事的・政治的な成果によるものでした。

核戦争での人類絶滅や「ノストラダムスの大予言」が広く危惧されていた時代でもあり、当時子どもだった僕は、イギリスという大国が「戦争」をはじめたことに(きっかけをつくったのはアルゼンチン側なのですが)、すごく不安になったことを記憶しています。

結果的には、アメリカをはじめとする西側諸国の支持をとりつけたイギリスがフォークランドサンカルロス湾への上陸作戦を行い、1982年6月14日のアルゼンチンの現地司令官の降伏で戦闘は終わりました。

 フォークランドでの軍事的勝利によって、サッチャーの政治的立場は強化された。勝利の興奮の中で、アルゼンチンの軍事行動を抑止するのに失敗した責任を追及する声はほとんど聞かれなかった。
 紛争勃発以前から、経済の回復に伴い保守党の支持率はすでに改善傾向にあったが、労働党社会民主党を含めた三党への支持は拮抗していた。軍事行動終結後の1982年7月に行われた世論調査では、サッチャー個人への肯定的な評価は52%と紛争以前の時点から倍増し、保守党の支持率も野党二党に大きく水をあけた。
 保守党はフォークランド紛争のおかげで1983年総選挙に勝つことができたという説に対しては異論もあるが、紛争後にサッチャーの保守党内・閣内における権威が高まったのは事実である。11年間に及ぶサッチャー政権の歴史の中で、フォークランド紛争こそはまさに転換点と呼ぶにふさわしい出来事であった。


「戦争に勝つ」というのは、政治家にとっては、支持率を上げる「特効薬」なんだなあ、と、あらためて考えてしまいます。もしイギリスがアルゼンチンのフォークランド占領が行われる前に「抑止」できていたら、ここまでサッチャー首相や保守党の支持率が上がることはなかったのではなかろうか。独裁者が「戦争」をやりたがるのも、結局のところ、うまくいけば自分の支持基盤を強めることができるという誘惑もあるのでしょうね。


サッチャー首相の政策を検証してみると、少なくとも経済政策においては、後世の僕が思い込んでいたほど「新自由主義の権化」ではなかったようです。

 もっとも、保守派右翼はネオ・リベラリズム新自由主義)の経済理論をそのままの形で受け入れたわけではない。むしろ、サッチャーやその支持者たちは、自らの政治的必要性に適合する限りでネオ・リベラリズムを選択的に受容したと言った方が適切だろう。
 ネオ・リベラリズムの経済学者たちは、福祉国家、とりわけ全費用が公費で負担される国民保健サービスの徹底的な再編を優先課題と見ていた。しかしサッチャー政権は、労働組合との対決やマクロ経済政策の変化を正当化するためにネオ・リベラリズムを用いる一方、中産階級からの反発を招きかねない福祉国家の抜本的な改革に乗り出すことはなかった。

 あとから振り返って、第二次サッチャー政権(1983~87年)は、サッチャリズムの絶頂期であったと評価されることが多い。実際、このような見方を裏付ける根拠は少なからず存在する。
 イギリス経済は第一次政権時の落ち込みからようやく回復し、新たな蔵相にちなんでローソン・ブームといわれる好景気を迎えた。第一次政権では控えめだった民営化のペースは加速し、公営住宅に加えてブリティッシュ・テレコム等多くの公益事業が売却された。そのため民営化は、サッチャー政権の看板政策だとみなされるようになった。
「ビッグバン」と呼ばれる規制緩和によって競争力を高めたロンドンの金融街シティは、国際金融センターとしての地位を再確立した。政権による大規模減税と金融面での規制緩和によって、多くのイギリス人の購買力は向上し、好景気の原動力となった。


アメリカのレーガン大統領との盟友関係やソ連ゴルバチョフ書記長とのやりとりも紹介されていて、サッチャーさんは「鉄の女」として強硬な姿勢をアピールする一方で、舞台裏ではかなり慎重な交渉をしていたようです。
レーガン大統領は核兵器の廃絶を本気でやろうとしていて、『SDI計画』は、宇宙を巻き込んだ軍拡」ではなく、核兵器の無力化によって核を不要にする狙いがあった、という話には「えっ、本気だったの?」と驚きました。

そして、ドイツに対しては、終始、「ヨーロッパのパワーバランスを崩す存在」だとみなし、警戒していたのです。

新自由主義の申し子で、ブレグジット(イギリスのEU脱退)の源流」というイメージを僕はサッチャーさんに持っていたのですが、著者は、サッチャー政権でもっとも国民に支持された政策は「公営住宅の売却」だったと述べています。

 公営住宅の売却は、サッチャー政権の政策の中で政治的に最も成功したものだと言える。サッチャリズムには、ネオ・リベラリズムと社会的保守主義という二面性があることはすでに見た。公営住宅に住む貸借人に自宅を「買う権利(Right to Buy)」を与える政策は、公的部門縮小や財政支出削減によりネオ・リベラリズム的改革に貢献するだけでなく、持ち家所有者を重視する新保守主義的な家族観から見ても望ましいものであった。


(中略)


 サッチャーが首相になった1979年の時点で、イギリスの住宅全体の中で持ち家の比率が55%、民間の賃貸住宅が15%なのに対して、公営住宅は30%を占めていた。しかし戦後コンセンサスに批判的なサッチャーや保守党右派にとっては、公営住宅は国家への依存を生み出す社会主義の象徴であった。市民ひとりひとりが自宅や株式を所有し、自らの人生を自らコントロールできるような、「庶民の資本主義(popular capitalism)」が理想として掲げられた。


(中略)


 公営住宅の払い下げは政治的には大成功を収めた。1980年予算における財政支出削減のうち、公営住宅関連が実に75%を占めた。サッチャー政権の11年間に150万戸近い住戸が売却され、売却額は280億ポンドに上った(これは、以下で見る国営企業の民営化に伴う株式売却の合計金額より多い)。
 持ち家比率は67%まで上昇し、公営住宅の比率は22%に低下した。公営住宅の購入を促すため、売却価格は市場水準より低く抑えられ、住宅ローンの税控除は2倍に引き上げられた。それに対して、公営住宅を管理する地方自治体は、家賃を市場水準まで引き上げるよう求められた。公営住宅建設・整備のための予算も半分以下まで削減され、新規建設は1979年の年17万5000戸から1990年には3万5000戸へと激減した。多くの地方自治体は、採算のとれなくなった公営住宅の管理を、民間の住宅組合の手に委ねた。


「マイホーム幻想」みたいなものが薄れつつある2025年に生きている僕には、当時のイギリスの状況はちょっと意外だったのですが、サッチャー首相の政策のなかでもっとも国民から支持されたのは、「公営住宅の安価での払い下げで、多くの人が持ち家を手にしたこと」でした。

日本のバブル経済にしても、アメリカのサブプライムローン、近年の中国の不動産バブル(とその崩壊危機)を考えても、「不動産」は経済政策において、大きな影響があるのです。そして、「マイホームを持てる」というのは、市民にとっては「自分が幸せかどうかを左右する大きな要素」なんですね。

もちろんこの政策でみんなが自分の家を持てるようになったわけではなく、この「不動産ブーム」によって、「不動産を持っている人たち」と「持たざる人たち」に経済的な格差が広がっていくきっかけにもなったのです。
ちなみに、この公営住宅払い下げ、新規建設の減少という政策により、公営住宅は持ち家を買えない貧困層向けとみなされるようになりました。

サッチャー政権が長く続いたのは、新自由主義的な改革がうまく機能したから、というよりは、「中間層が経済的な豊かさを実感できる政策」を行ったからだともいえるのでしょう。

「鉄の女」と呼ばれ、新自由主義の実践者だったようにみえるサッチャー首相。でも、その政策を振り返ってみると「後世でのイメージほど新自由主義を頑なに信奉していたわけではなかった」ように感じるのです。

晩年は認知症となったり、子どもたちの関係がうまくいかなかったりと、偉大な政治家であると同時に、けっして順風満帆ではなかったことも書かれています。

首相在任の後半には、閣僚とも溝ができ、一部の側近以外は信頼しなくなってしまったとも書かれています。

権力を長く維持するというのは、本当に難しい。そして、「権力を持っても変わらない」ということも。

サッチャーさんが亡くなられたときに、国葬も検討されたものの、功績への評価とともに、その政策が歴史にもたらした影響への批判も大きかったため、結果的に「儀礼葬」となったのは、日本の安倍晋三元首相を思い出しました。


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