琥珀色の戯言

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【読書感想】探検家、40歳の事情 ☆☆☆


Kindle版もあります。

「先日、不惑をむかえた。四十歳。いわれてみれば、たしかに今回は惑わなかったなという気がする。惑えなかったということは、私の人生から惑いの原因となる何かが失われてしまったということでもある。この十年間で私の皮膚の内側から何が剥げてしまったのか――。」探検とは日常を飛びだし、非日常の世界で未知をさぐる行為である。しかし、探検家といえども、四六時中、非日常の領域にいるわけではない。不惑をむかえた探検家が、セイウチに殺されかけたりしつつも、妻とケンカしたり、娘を叱ったりする日常についても綴った珠玉のエッセイ集。


 「探検家」とは、どんな人間なのか?
 「孤高の存在」で、僕のような俗世にまみれた人間とはかけ離れているような気がしていたのですが、この角幡唯介さんのエッセイ集を読んでいると「普通の人」の部分と、「普通にはおさまりきれない」ところが混在しているのだな、ということが少し理解できたような気がします。


 冒頭の「不惑」というエッセイでは、「不惑」=40歳を迎えた角幡さんと御家族(奥様と娘さん)の住む場所さがしの様子が書かれているのですが、その家族の関係がものすごくリアルというか、こういう時期ってあるよな、というか……「こういう時期」で済んでくれれば良いのだけれど。

 角幡さんが40歳を迎える二ヶ月前、角幡さん一家は、5年間過ごした西武池袋線沿線から市ヶ谷に引っ越しをされたそうです(正直、僕は東京の土地勘がないので、そんなに雰囲気が違う土地なのかどうかは、角幡さんの記述を参照するしかないのですけど)。

 ところが、である。引っ越ししていた途端、急に私たち夫婦のあいだでは口論が絶えなくなった。ちょっとしたことで不満をため込み、ブチ切れては、数日の間、お互いむっつりと必要最小限のことしか口を開かず、ようやく仲直りしたと思ったら、またおそろしくくだらない理由で喧嘩がはじまる。そして、その横で二歳の娘が「唱わないで、唱わないで」と泣きわめく。そうだ! とういえば四十歳をむかえた当日も、本当は家族で新宿のシュラスコ料理屋に行き誕生日のお祝いをする予定だったのだが、前日にまたどうでもいい理由で妻をブチ切れさせてしまって、当日、シュラスコ料理屋の予約をやむなく自分でキャンセルしたのだった。
 喧嘩が増えた原因は私たちにもよく分からなかった。自宅周辺の、あまりに乾いた人工的なオフィス街の景観と、つねに足早に時計の針のように規則正しく歩く機械仕掛けのような人々の無表情な動きに、知らない間にストレスを溜めこんだのだろうか。あるいは妻は以前のママトモと会うために毎日自転車で四十分かけて落合・高田馬場方面の児童館に通わなくてはならなくなったので、その疲れが槍の矛先のようにとがって、横でアザラシのようにゴロゴロしている私に向かってイヌイットみたいに突き刺したくなったのかもしれない。私が探検のために家を空けていた七ヶ月間に溜めこんだ育児ストレスが肥大化して、引っ越しを機に発現してしまった可能性もある。
 ただ理由がどうあれ、引っ越してから喧嘩が増えたのだから新しい生活環境に何がしかの要因はあるのだろう。正直いって、完全自営業者である私にとって妻との喧嘩はたえ難いものだった。


 40歳って、「そういう時期」なんですかねえ……
 あるいは、「育児ストレス」によるものなのか。
 僕は男なので、角幡さん側に感情移入してしまうのですが、女性にとっては「家を長期間あけて探検ばかりしている夫」は困った存在なのかな……
 結局、まずは環境を変えてみよう、ということで角幡さんは再度引っ越しを検討するのですが、そのなかで、鎌倉に家を買おうか、という話が出てきます。
 家を買うことに積極的な奥様と、探検家として、『家を買った人間』になってしまって良いものなのかと葛藤する角幡さん。
 それでまた、新居をめぐっての大げんかが……
 いやほんと、こういうのが一時的なものだったら良いのだけれど。
 そもそも、本当に家や居住環境が理由かどうかもわからない。
 角幡さん自身のライフスタイルはあまり変わっていないのだけれど、「変わらない」ことが問題なのかもしれないし……
 ひたすら、身につまされます。


 北極探検での「人生最大の危機をもたらしかねない忘れ物」の話も、「なんで……」というか、よりによって「それ」を……と言いたくなるようなものなんですよ。
 でも、「そんなつもりはないのに、大事なものを忘れてしまう傾向」は、僕にもあるので、けっこう共感するところも多かったのです。
 これだけは忘れてはいけない、と思えば思うほど「それだけ」を忘れてしまう。


 そして、角幡さんならではの、こんなランキングも紹介されています。

 さて、そんな北極の肉のなかでも当然、旨いものと不味いものとがある。とくに野生の肉は家畜のように品質管理されてスーパーに並んでいる訳ではないので個体差が大きく、また季節によって脂の乗りもちがうので、味も一頭ごとに変化する。その意味でいえば、どの動物が旨いとか不味いということ自体ナンセンスではあるが、植村直己もその昔になにかのエッセイで北極の味を順位付けしていたので、私もそれにならって個人的な旨いものランキングをつけてみることにした。つぎがその結果だ。


1位 シロクマ
2位 ホッキョクグマ
3位 イッカク
4位 アザラシ
5位 チャー
6位 カリブー
7位 アッパリアス
8位 ジャコウウシ
9位 セイウチ


 読者のなかに北極に行く人がいないともかぎらないので、それぞれの肉を少し解説しておこう。


 たしかに「行く人がいないとはかぎらない」けれど、僕も含めて、たぶん一生行かない人が多いよ……と読みながらツッコミを入れてしまいました。
 というか、このうちの一種類の肉でも、口にする機会はあるのだろうか。
 こういうのはまさに角幡さんだからこそ書ける話であり、興味深く読みました。食べたときの状況や味などもそれぞれ詳しく書かれていて、そうか、そんな味がするのか、と未知の味について思いを馳せてみるのです。
 美味しくなかったものは、本当に不味そうに書かれているので、ちょっと勘弁してくれ……という気分にもなるのですけど。
 北極に行く際には、ぜひ参考にしようと思います。
 まあでも、本当にいまは世界中どこでも、ある程度健康であれば「本気で行こうと思えば行ける時代」ではあるからなあ、エベレストの山頂とか深海などのごく一部を除けば。


 あと、北極旅行後のニオイの話とか、そういう「ニオイ」について、若いことの角幡さんがどう考えていたか(むしろ、「自分が臭うのは、現代人が知らない自然と対峙した生活をしてきたからだ、という優越感みたいなものを感じていたこともあったそうです」、というエピソードも出てきます。

 じつは彼女が私のニオイを指摘するのは、いまにはじまったことではなかった。
 彼女と結婚したのは三年前の夏のことだったが、その年の冬から私は毎年のように北極圏に長い遠征旅行に出ている。2012年12月から13年1月にかけてはカナダのケンブリッジベイ周辺からケント半島にかけて約1ヵ月、2014年1月から4月はグリーンランド北部イングルフィールドランドで40日間にわたり薄氷や氷床のうえをさまよい歩いた。それぞれの旅で二ヶ月から三ヶ月ほど家を留守にしたが、帰国するたびに妻から、全身から異様なニオイがしてると苦情めいたことを言われてきた。今回は帰国前の段階ですでに、「北極から帰ってくるといつもくさいからそれが嫌なのよね」と電話で予防線をはられていたが、実際に空港で再会すると、やっぱり臭うのだという。
 妻によると、そのニオイは普段の私から漂ってこないのだが、北極から帰ると1ヵ月ほど抜けなくて、とりわけ夜、一緒に寝るときは迷惑このうえないらしい。北極での野外生活で体内の奥底までこびりついた微生物やらバイ菌等が繁殖して、そのニオイは醸成されるのか、風呂に入っても簡単には落ちないようで、時が洗い流してくれるのを待つしかないという。
 妻はどのニオイを“原始人のニオイ”と言いあらわした。


 「原始人に会って、ニオイ嗅いだことがあるんですか?」とか言うのは不粋な話で、そう言われると、ああ、なんとなくイメージできるな、と思うんですよね。
 もちろん、同じ言葉でも思い浮かべる臭いは人それぞれ、なんですが。
 オチも含めて、「人とニオイ」について、考えさせられるエピソードではありました。
 そういえば、他人から言われていちばん傷つく言葉が「あなたは臭い」だという話をどこかで聞いたことがあります。
 ニオイって、自分ではわからないことも多いからなあ。


 極地での過酷な生活にも耐えられる探検家でも、少なくとも日本にいるかぎりは「40歳男性」の日常というのは、けっこう共通点が多いものなのだな、と思いながら読みました。
 どちらかというと、共通点には「あんまり歓迎できないこと」「人生ってけっこうハードモードだよな」とことが多いんですけどね、残念ながら。


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