琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

村上春樹が怖い

村上春樹の生原稿を『流出』させた男」(活字中毒R。(3/10))
http://www.enpitu.ne.jp/usr6/bin/day?id=60769&pg=20060310

村上春樹恐怖症」(内田樹の研修室(3/12))
http://blog.tatsuru.com/archives/001595.php

 僕がこの「村上春樹生原稿流出事件」を最初に知ったのはネット上であり、そのときの感想は、「春樹さんの生原稿を勝手に売ってカネに換えるなんて、酷い編集者だ!」というものでした。村上春樹ファンとして、怒りを共有していたのです。
 しかしながら、「文藝春秋」に載っていた、村上さんの「ある編集者の生と死―安原顯氏のこと」を読んで、なんとなくヘンな気分になりました。いや、村上さんは正しい。それも、圧倒的に正しいのは間違いないのです。もちろん、当該文章が、一方の当事者からみた「真実」であり、村上さんは気づかないうちに安原さんをすごく傷つけてしまったか、あるいは安原さんを傷つけた理由をすぐに忘れてしまった可能性だってなくはないのですけど。
 それでも、これまでの言動から判断すると、村上さんという人は基本的に自分を守るための嘘を書く作家ではないと思われるので、この文章の内容は、当事者が書いたものとしては、比較的公正かつ客観的な文章だと僕は感じました。そして、この文章で描かれている安原さんは、大風呂敷を広げているわりには自分に言い訳ばかり多く、自信と自意識が過剰にもかかわらず「作家としてやっていくための、決定的な『何か』が足りない」という人間であり、担当作家の生原稿を勝手に自分のものにして売りさばいた最低の編集者なのです。村上さんは正しい、そして、安原さんは間違っている。安原さんには弁解の余地がないと、僕も思いました。
 ただ、その一方で、こんなふうにも感じます。もし、村上さんの目的が「編集者による原稿の不正な取り扱いの撲滅」であるならば、ここまで「文学的」な告発文が必要だったのだろうか?と。
 前半(いや、3分の2くらいか)の「安原さんのこと」と「村上さんと安原さんとの付き合いのこと」は、「原稿流出」のことに対して、「こんなに付き合いが深かった編集者に裏切られたんだ」という意味を強くしているようにも思えます。でも、これを読んでみると、正直、「村上さんの原稿を安原さんが流出させたのは『私怨』じゃないか」とも感じられるのです。要するに、出版社の管理責任があるとしても、こんなことが起こったのは、「個人的な関係」が原因なのではないか、と。もちろん、実際のところはどうだかわからないですし、出版社そのものがもっと厳正に原稿を管理しておくべき、ではあるのですけど、村上さんは中央公論社を積極的に強く責めているようにも思えないのです(仕事相手というのもあるのでしょうが)。でもね、本当にこの「前半部」って必要だったのでしょうか?少なくとも「抗議文」としての文章には、相手の編集者との個人的な関係へのここまでの言及は不要だったのではないかと思われるのです。もちろん、「作品」としては、ここの部分こそが「小説的」なのですが。
 それは、「報い」なのかもしれないけれど、「自分の才能を信じていた作家志望者」に対して、「彼は作家として必要不可欠な『何か』が決定的に不足していた」と結論づける村上さんの言葉は、僕にはとても冷たいもののように感じられます。それが「事実」で「現実」であるとしても、です。ましてや、「文藝春秋」でそれを公言されるなんて、ものすごい屈辱なのではないかと、僕はちょっと安原さんに同情してしまいます。死者である安原さんには、もう自力でこの「評価」を覆す方法もないですし。
 そして、「原稿売り飛ばし編集者」という「絶対悪」の事実とセットで「編集者としての問題点」や「作家としての才能の欠落」という「村上春樹の主観」を語られてしまえば、これらはすべて「客観的な事実」であるように多くの人は受け止めるでしょう。実は、「原稿流出」とこれらの「文学者としての仕事の評価」は、必ずしもリンクするものではないはずなのに。別々の状況で語られていたら、ここまで、安原さんに対して、僕もネガティブなイメージを抱かなかったと思うし、多くの村上春樹ファンにとっても、そうなのではないでしょうか。そういう意味では、これらのことを「まとめて」書いてしまうという村上さんという人は、本当に「怖い」と僕は感じるのです。いや、村上さんが書いていることは、たぶん、間違っていない可能性が高いのだけれど、それだけになおさら、ね。
 僕は、こんなことを勝手に想像してみるのです。もし安原さんの霊が現れて、村上さんの前に手をついて、「村上(って呼んでいたかは知りませんが)、すまん。癌の治療のためのカネがどうしても都合できなくて、おまえの生原稿を売ってしまった。勘弁してくれ…」と謝ったとしたら、どうだろうか?と。
 村上さんは、そういう場合でも、「いや、それはそちらの事情で、あなたがやったことは『編集者失格』ですよ」と無表情なまま答えそうな気がするんですよね。それは、冷酷とかそういうのではなくて、単に、村上さんはそういう人間だということです。
 村上さんが小説のなかで「村上春樹的世界観に対立するもの」を否定していくとき、僕は一読者として喝采します。「そうだ、お前なんか、この世界には『異物』なのだ」と。でも、今回の件は、僕にとってはじめて、現実世界で「村上春樹の正しさ」が、「非村上春樹なもの」を排除していく姿を目の当たりにするものでした。もし自分が、この「異物」と認識されたらと考えると、僕は正直、村上春樹が、村上春樹的なものが怖くなりました。
 僕はもう、「春の熊くらい好きだよ」なんて、言ってはいられません。

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