琥珀色の戯言

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【読書感想】「グレート・ギャツビー」を追え ☆☆☆

内容(「BOOK」データベースより)
プリンストン大学図書館の厳重な警備を破り、フィッツジェラルドの直筆原稿が強奪された。消えた長編小説5作の保険金総額は2500万ドル。その行方を追う捜査線上に浮かんだブルース・ケーブルはフロリダで独立系書店を営む名物店主。「ベイ・ブックス」を情熱的に切り盛りするこの男には、希覯本収集家というもう一つの顔があった。真相を探るべく送り込まれたのは新進小説家のマーサー・マン。女性作家との“交流”にも積極的なブルースに近づき、秘密の核心に迫ろうとするが…。あのグリシャムの新たな魅力を楽しむ本好きのための快作!全米ベストセラー。


 この本のオビには、こう書かれています。
ジョン・グリシャムの話題作×村上春樹の翻訳」
 しかも、タイトルが『「グレート・ギャツビー」を追え』となれば、それはもう、村上春樹ファンとしては、嬉々として読みますよね……

 うーむ、つまらなくはない、けっしてつまらなくはないんだ。
 でも、ある意味ガラパゴス的に、叙述トリックや「どんでん返し祭り」を進化させてきた日本のミステリをそれなりに読んできた僕としては、この『「グレート・ギャツビー」を追え」の「ミステリ的な部分」に関しては、「えっ、こんなにアッサリ風味なの?」と拍子抜けしてしまったことを告白しておきます。
 舞台が整うまでに、ものすごく丁寧な説明がなされ、登場人物の魅力が紹介されるのですが、物語がはじまってみると、「えっ、このキャラクターの出番、これで終わり?」みたいな気分になることが多いですし、そもそもこれ、ミステリよりも、ロマンスとか情事成分のほうが濃厚だし、いちばん生き生きと描かれているのは「作家の生態とコミュニティ、そしてアメリカの独立系書店の役割と学資ローンの恐ろしさ」なんですよ。

 訳者の村上春樹さんも「あとがき」を書いておられるのですが、この作品、原題は”CAMINO ISLAND(カミーノ・アイランド)”なんですね。
 「『グレート・ギャツビー』を追え」という、ミステリ、あるいは探索系アドベンチャーっぽいタイトルは、日本で売るために選ばれたのではないかと思われます。
 いくら「あのグリシャム×村上春樹訳」でも、『カミーノ・アイランド』では、ちょっと売りにくそうですし。
 逆に、この本を読むと、自分がいかに「日本のミステリ」の影響を受けているのかがわかるような気がします。
 主人公の祖母が遭った過去の事故の話が出ると、「この事故が、このフィッツジェラルドの直筆原稿の盗難事件とどう繋がって、どんな過去の秘密が明かされるのだろう?」とか、つい考えてしまうんですよ。「『逆転裁判』脳」とでも言えばいいのだろうか。
 僕はやっぱり、そういう「読者をどう驚かせるのか」みたいなところがある日本のミステリに浸かってきていて、「登場人物の背景を丁寧に描いているのだけれど、たいしたことは起こらないし、感心するようなトリックがあるかというと……」というこの作品には、正直、羊頭狗肉感を拭えなかったのです。
 そもそも、こんなオチでいいのか?とか、つい言いたくなってしまうし、こんなことがうまくいくとも思えない。ほんの少しの血液からその持ち主が同定できるほどの科学捜査の時代が描かれているのに、監視カメラも画像認識も進歩していることが紹介されているのに、なんなのこの杜撰さ。
 
 これはもう、相性の問題であって、これがダメな小説なわけじゃないんですよ。アメリカの作家コミュニティとか、書店で行われるサイン会の理想と現実とかに興味がある人には、すごく興味深いと思います。

 本のサイン会とブック・ツアー。プロモートするべき長篇小説の新刊があればいいんだけど、とマーサーは思った。
『十月の雨』が2008年に出版されたとき、ニューコム・プレスには宣伝やツアーに回す資金の余裕がなかった。その出版社は三年後に倒産した。しかし「タイムズ」紙に絶賛の書評が出たあと、何軒かの書店がツアーを行う可能性について彼女に問い合わせてきた。それで急遽日程が組まれ、マーサーの九つ目の立ち寄り先がベイ・ブックスになった。ところが最初のワシントンDCでのサイン会に11人しか人が集まらず、5冊しか本が売れなかったときから、ツアーは調子を狂わせ始めた。そしてそれが彼女の集めた最大の人数になったのだ! 次のフィラデルフィアのサイン会では4人しか人が来なくて、マーサーは残りの1時間を書店員たちとおしゃべりをして潰した。結局、最後のサイン会場となったのは、ハートフォードにある大型書店だった。その書店の通りの向かい側にあるバーで、二杯のマティーニを飲みながら、人が集まるのを待った。しかし人は集まらなかった。彼女がようやく通りを横切って書店に戻ったとき、待ち受けていた全員が書店員であることを知って、彼女はすっかり落ち込んでしまった。一人の読者も姿を見せなかったのだ。ゼロだ。
 屈辱は圧倒的だった。もう二度とそんな思いを味わいたくはない。綺麗な新刊が積み上げられた人気のないテーブルの前に座り、そこには近寄るまいと努めるお客たちとできるだけ視線を合わせないようにしているなんて……。彼女は何人かの他の作家たちを知っており、彼らからいくつものぞっとする話を聞かされていた。書店を訪れたら、書店員たちや駆り集められた客たちにフレンドリーに迎えられ、どれだけが本物の読者なのか、実際に本を買う人なのかも定かではないまま、彼らが真正のファンらしき人の姿を求めて、落ち着かない視線であたりをちらちら見回している様子を目にする。そしてその愛すべき作家は当て外れだった──とびっきりの当て外れだった──らしいと判明し、みんながそそくさと離れていくのを目にすることになる。


 僕にとっては、こういう「作家や出版業界の裏話」みたいなところが、最大の読みどころだったのです。
 まあ、これ作品をミステリっぽく売ろうとすることそのものが間違っているような気がするのですが、『カミーノ・アイランド』よりも『「グレート・ギャツビー」を追え』のほうが売れそう(というか、そうしないとグリシャムを村上春樹さんが訳したものでさえ、翻訳本は売りにくいであろう)ことも想像はつくのだよなあ。
 村上春樹さんの翻訳なら売れるだろう、と思われるかもしれませんが、村上さんの翻訳の仕事は、「村上春樹が翻訳したとみんなが知っている(売れた)作品」よりも、ずっとたくさんあるのです。数をこなしているから、当たっている作品も少なくないのですが、話題になったのは、ごく一部の有名作品だけなんですよね。
 ただし、この「『グレート・ギャツビー』を追え」に関しては、サリンジャーフィッツジェラルドレイモンド・チャンドラーを訳したときほど「村上春樹っぽい文章」という感じはしませんでした。村上さんの翻訳に対する姿勢が、より柴田元幸さんの「原文忠実派寄り」になったためなのか、少し前のアメリカ文学のほうが「村上春樹さんの文章とシンクロしやすい」のかはわかりませんが。
 「アメリカの出版事情」「グリシャム」「村上春樹」の3つのすべてに興味がある人には、愉しく読める本だと思います。2つなら、まあ、お値段相応、といったところかな(僕はこのグループ)。1つ以下なら、あえておすすめはしません。読まないほうが良い本、というのは基本的には存在しないと僕は思っていますが、「これを読むより、もっと有益な時間の使い方がすぐに思い浮かぶ本」は、たくさんありますから。


翻訳夜話 (文春新書)

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グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

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村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事

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