琥珀色の戯言

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異人伝〜中島らものやり口 ☆☆☆☆

異人伝 中島らものやり口 (講談社文庫)

異人伝 中島らものやり口 (講談社文庫)

内容(「MARC」データベースより)
この男はどこから来て、どこへ行くのか。昔IQ185、今は70の著者が直感的に語る「生きること」へのオマージュ。野卑にして聖なるものを抱いたおっさんの手記。

 僕のような「中島らもフリーク」にとっては、「どこかで聞いた話」がほとんどなのですが、それでも、中島らも、という人が歩いてきた(っていう表現もなんだかしっくりこないんですよね、らもさんの場合)道のりが本人のしゃべりかたでまとめているという意味では、非常にすばらしい本だと思います。
 この本を読んでいると、なんだか、52歳という若さでの死も、らもさんの「運命」というか、きっとらもさんは、後悔はしていないだろうな、と思えてくるのです。
  らもさんが亡くなられてから、もう3年も経ってしまっていて、やっぱり最初の何ヶ月間かはすごく寂しかったのだけど、時間が経つにつれ、美代子夫人が書かれていた「(中島らもは)幸せだったんです」という言葉が素直に受け入れられるおうになってきました。もちろん、心の中にはいろんな葛藤があったのかもしれないけれど、他の人が言葉にするのをためらうようなこともちゃんと形にして「表現」して、「中島らもらしく」死んでいったらもさんは、やっぱり「幸せ」だったのだと思います。
 それでも、「柔道で受身の練習ばっかりしてた」なんていう部分を読んでいると「あのときその受身ができていれば……」とか、ちょっとしんみりしちゃうんですけどね。

 おれは明日、どうなろうといいし、昨日のこともどうでもいい。今日、いまが一番大事なんであって、いま存在するってことに重きを置いてるんだよ。
「虚無」は字で書くと、「虚が無い」って書く。どういうことやろね。ニヒリズムとも違う。ニヒルは英語だよね。どういう語源なのかな。釈迦の教えによれば、虚無もないわけや。でも、おれには虚無はずっとある。
 ただ商売として小説を書いていると、人を不愉快にさせたくない。主人公が最後に白血病で死ななくてもいいじゃないか。そんなことをさせておいて、日本の文壇の人は、おれのような娯楽作家に対して「深みがない」とか「人間的洞察力がない」とかいろんな言い方をするけれど、作家なんて本質は「乞食」なんよ。人様のお余りで食わしてもらってる存在でしょ。それなのに、偉そうに言うヤツ多いからなぁ。
 おれのコピーライター時代の先輩のニシクボさんは、夜、寝るとき、布団かぶって「あー、このまま目が覚めなかったらいいのに」とよく言ってた。でも、目が覚める。小便行きたくなって。それが人間だよね(笑)。

 人の死によって安易に「泣かせる話」を粗製乱造するよりは、らもさんの姿勢のほうが、僕にははるかに「深み」や「人間的洞察力」に溢れているように感じられるのです。小説に関しては、らもさんも「エンターテインメントに徹している」と言えないところもけっこうあるような気もしますけど。

 僕がこの本のなかで印象に残ったのは、らもさん自身の言葉ではなくて、「解説にかえて」での藤谷文子さんのこんな言葉でした。

 らもさんをよく知る人たちは、みんな口をそろえてこう言います。「らもさんは、いつだって弱い者の味方だ」。沢山の数で、是となっている者よりも、コンプレックス、迫害、孤独、差別、そんなのに伴う感情ぜぇんぶひっくるめて、分析とも判断とも全く関係なく愛を持ってそこに居てくれるのです。

 らもさんは、いろんな人を愛していたし、いろんな人から愛されていたんだなあ、と、なんだかとても羨ましくなってしまう言葉でした。
 らもさんというのは、僕も含めた、世間の「弱い者の味方ぶっている人々」が、いかに「上からの目線」で弱い者たちを自分の優越感を満たすための道具にしているのか、というのを僕に向かってまっすぐに突きつけてきた人でもあったんですよね。
 僕は、今でもらもさんが大好きです。
 その一方で、らもさんは、僕にとって「すごく怖い存在」でもあり続けているのです。

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