琥珀色の戯言

3000冊以上の【書評】と500作以上の【映画感想】を、ちゃんと読んで、観て書いてきたブログです。話題になったあの本や映画の感想が、たぶんあります。新書、ノンフィクション、インターネット関連本が多め。

6hotでも更新し続けられる人々

人は一体どれだけの期間、6hotに耐えられるのか(by おれはおまえのパパじゃない (10/26))

人は6hotには耐えられない - 朱雀式

「人は6hotに耐えられるのか?」
 それはなかなか難しい質問だなあ、と僕は思います。正直僕は耐えられない(というか、耐えられなかった)のですけどね。以前サイトをやめたときに、全く宣伝無しで新しいサイトをはじめたときは本当に辛かった(「サイトを『閉鎖』するという経験」参照)。
 でもたぶん、世の中には「6hotでも更新し続けられる人々」というのが存在しているのです。

 僕の心の中に、ずっと引っかかっている「テキスト」があります。それは1冊のノートなのですが、僕の親がこの世に遺したものです。中は、たぶん闘病生活を中心とした、死の間際までの日記。
 なぜ「たぶん」かというと、僕はそのノートに書かれている文章を1ページ分だけ、読んだことがあったのです。臥せっている親の様子を見にいったときに、眠っている枕元に、そのノートは開きっぱなしになっていました。中身は、遺されてしまうであろう子供たちの幸福を祈る言葉。神様なんて信じていないはずの人が、「神様」に宛ててのメッセージを書いているのを見るのは、正直僕には辛かった。
 おそらく、あのノートは、今でも実家のどこかにしまわれているのだと思いますし、もしかしたら、あの中には僕たちへのさまざまな「遺言」が遺されていたのではないか、という気もします。僕が心から読みたいと思えば、中身を全部読むことは可能だったはずです。でも、僕があのノートを「読んだ(それも1ページだけ)」のは、あの日だけでした。
 半分は、「プライバシーを守らなくては」という気持ち、そしてもう半分は、「それを読むことによって、僕と母親との何かが、決定的に変わってしまうのではないか」という怖れ。「書いたものだから、本人が何も言い遺していなくても、読まれることを想定しているはずだ」とも思うんですけどね……

 もうひとつ、「人は、他人に読まれることを意識しなくても文章を書けるのか?」と考えたとき、僕は一人の少女がこの世界に遺した「日記」のことを思い浮かべます。
 それは、『アンネの日記』。
 ナチスに迫害され、隠れて生活することを余儀なくされた少女、アンネ・フランクの日記は、第二次世界大戦後に見出され、大きな反響を呼びました。でも、隠れ家で生活していたアンネ・フランクは、果たして、「自分の日記が世界の人々の目に触れること」を望み、想像していたのかどうか? たぶんあの日記は、「究極の6hot」だったのではないでしょうか? いやたぶん、あの時代には、多くの人が、「0hot確実な日記」を書いていたはずです。その多くは、誰の目に触れることもなくそのまま灰になってしまったのですけど。
 『アンネの日記』は、「読者」の存在が意識されています。いや、あのくらいの年頃の人が書く「日記」なんていうのは、いつの時代でもそうなのかもしれませんが。
 彼女の日記が「読者を得る」ことは、それが書かれている段階では確率的にほとんどゼロに近かったはずで、そんなことはアンネ自身にもわかっていたのではないでしょうか?
 あの時代には『アンネの日記になれなかった、たくさんの日記』が存在していたのです。

 現在の僕は、「誰かに読まれること」を意識せずにはいられないのですが、そういえば昔は、長続きしないながらも、大学ノートに日記をつけていました。当時好きだった女の子のこととか、読んだ本の感想とか(今とあんまり変わんないか……)。じゃあ、その日記に「読者」を想定していたかと言われると、別にそんなこともないんですよね。
 当時は、何か嬉しいことや悲しいことがあったら、それを「文章にして書く」ということそのものが、僕にとっての「その出来事を自分の中で消化すること」だったのではないかと、今は思います。
 それこそ、当時僕が想定していた「読者」は、「神様」だったのかもしれません。

 世の中には、「1000hotでも満足できない」人もいれば、「読んでくれる10人のために書く」人もいます。
 そして、「誰も読んでくれなくても、『書くことそのもので癒される』(というか、書くことでしか救われない)人や状況」というのが存在しているのではないでしょうか。
 そういう意味では、「6hotに耐えられない人でも日記を書けるようになった」ということのほうが、むしろ、WEB日記やブログによる革命だと考えるべきなのでしょう。
 しかしながら、アクセスカウンターが回ったり、反応をもらったりするような「快感」に目覚めてしまうと、「神様に向けての文章」というのは、なかなか書けなくなってしまうのですけどね。

 まあ、こんなわかったようなことを言ってますが、僕自身、今でも「あの日記を自分は読まなくてよかったのだろうか?」と、ときどき考えてしまうのです。
 こんなふうに人目に触れるところで書いたら書いたで、「こんなことを書いてよかったんだろうか……」とか、しょっちゅう悩んでますし。

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