琥珀色の戯言

3000冊以上の【書評】と500作以上の【映画感想】を、ちゃんと読んで、観て書いてきたブログです。話題になったあの本や映画の感想が、たぶんあります。新書、ノンフィクション、インターネット関連本が多め。

生きる技術は名作に学べ ☆☆☆☆☆


生きる技術は名作に学べ (ソフトバンク新書)

生きる技術は名作に学べ (ソフトバンク新書)

内容紹介
世界の名作って、実は面白く、人生に効く!
人気ブロガーによる世界の名作の新しい読み方! 食わず嫌いは止めて、やや古めかしく見えるそれらの作品に触れてみよう!
魔の山』『赤と黒』『異邦人』……教科書などで名前だけは目にしたけど、読んだことはないという人も多い世界の名作の数々。だが、そんな古めかしい小説でも読み方ひとつで、笑えて日々の活力になりもする。人気ブロガーがそれらの世界の名作を軽妙に読み解き、そこから意外なエッセンスを抽出した本書を読めば、人生がちょっと楽になったり、元気になったりもするはず。思わぬ発見に満ちた読書を堪能してみては?

あの『空中キャンプ』(http://d.hatena.ne.jp/zoot32/)の伊藤聡さん初の著書。
ずっと読ませていただいているブログの内容からは、こんな「ハウツー本」みたいなタイトルの新書を出されるとは予想もしませんでしたが、いったいどんな内容なんだろう?と非常に楽しみにしていました。
僕はここで紹介されている「世界の名作」のうち、既読のものが4作品(『異邦人』『車輪の下』『老人と海』『1984』)、未読のものが6作品だったのですが、個人的には、やはり読んだことがある作品のほうが、「伊藤さんはこんなふうに読むのか」と楽しめたように思えます。
だからといって、未読の6作品の紹介がつまらないわけではなかったのですが。

この『生きる技術は名作に学べ』、読んでいるときは、とくに引っ掛かるところもなく、さらっと読み通せましたし、「この作品の話は、もう終わりなのか」と、なんとなくあっけなく感じてしまったものもあったのですが、後からじわじわと効いてくるというか、むしろ、「この感想を確かめるために、『名作』を読んでみようかな」という気分になってくるのです。僕も、ずっと積んでいた『月と六ペンス』を読んでみようかな。

正直、僕は驚いてしまったんですよ。
こんな「名作案内」があっていいのだろうか?って。
伊藤さんのこれらの「名作」の話を読んでいてものすごく印象的なのは、ここに書かれているのが、いわゆる「書評」とか「文学的な価値判断」ではなくて、まさに「これらの作品を実際に読んでいる人の意識の流れそのもの」だということなんですよね。
そもそも、これは「案内」ですらなくて、伊藤聡というひとりの人間が、目の前の一冊の本に向き合ったときに感じたさまざまなことを、ひたすら書きつづっているだけのようにも思えます。
(もちろん、本当に「思いつきを殴り書きしたような文章」なんて読めたものじゃないので、そこには、伊藤さんの絶妙のバランス感覚が活かされているわけですが)

たとえば、『異邦人』では、「ママン」の死とその後の葬儀でのムルソーの態度の話になるのですが、そこで伊藤さんは「ムルソーの無関心の文学的価値」にスポットをあてるのではなく、「葬儀というのは、本当はあわただしいだけだったり、退屈なだけのもので、涙なんか出ない人だってたくさんいるのではないか?」を追究し、どんどん脱線していきます。

 葬儀のあいだに、親族がやることはたくさんある。葬儀が忙しいのは、きっとどの国も同じである。なにしろ、たくさんの人々が次から次へとやってくる。人が集まれば、やることも増えるものだ。準備しておいたお弁当やお茶が足りなくなったり、人数分の座布団がなかったり、火葬場へ向かうマイクロバスに人が乗り切れなくなったりと、ややこしい問題が立てつづけに持ち上がる。家族はまったく気の休まるときがない。バスに乗れなかった参列者はこういうだろう。
「ちょっと、タクシー呼んで」
 だいたい、お坊さんにはどのタイミングでいくら渡せばいいのか。お礼の相場はどのくらいなのか。渡した額が少ないからといって、木魚を叩く回数を減らすなど、あきらかに不機嫌になられても困ってしまう。急に雨がふってきて、コンビニに置いてある傘をあるだけ買ってこなくてはならなかったり、よく知らないおばさんがとつぜん通夜を仕切りだしたりと、ややこしいことはたくさんある。
 それがわれわれの知っている葬儀だ。

アンネの日記』では、「アンネという自意識過剰の感じの悪い女の子」、そして『ハックルベリー・フィンの冒険』では、ハックの話よりも、「どうせトム・ソーヤは、『昔は俺もちょっとワルだったんだぜ』とか言いながら中小企業の社長として顔役になるようなオッサンになるに違いない」というような所感が続きますし、『魔の山』なんて、話の内容については、「とにかく何も起こらない、長い話なんですよ」とだけ紹介して、そのあとは、「なんで人間というのは、こんな長い小説を読むんでしょうね…」という疑問への伊藤さんなりの解答例がいくつか書かれます。
しかしながら、「脱線しまくり」のように思えるのだけれど、終点にたどり着いたときには、これらの作品の「芯」みたいなものが、僕たちの心の中に残されている、そんな感じ。

そうそう、「本を読む」って、こんな感じなんだよね。
僕も本や映画が大好きだけど、どんなにすばらしい作品に接しているときでも、人は、100%それに集中することなんてできません。

『異邦人』を読んでいれば、ムルソーという人物の「文学史的な意味合い」よりも、「そうだよなあ、身内の葬式って、悲しいはずなのに、読経のときは足が痺れて痺れて、『とにかくさっさと終わってくれ……』なんて不謹慎なことを考えて、自己嫌悪に陥ったりするんだよ……」とか、「アンネって、イヤな女だなまったく、こんなヤツとは絶対に友達にはなれん!」とか、「『魔の山』長すぎ!でも、こういうのを一冊読んでおくと、あとでちょっと読書家っぽく自慢できるかもしれないしなー」とか、まあとにかく、「雑念」って、絶対にあるはずなんですよ。というか、僕の読書は、そういう「寄り道」だらけです。
僕は『アバター』の最初の1時間、かなりの高頻度で、「ああ、この3Dメガネ重すぎ、もともとかけてるメガネがずれるずれるずれるー、なんで世間はメガネをかけている人間にこんなに冷たいんだー、こんなのが2時間半も続くのかよ、拷問だー」とか思っていました。最後のほうはようやく慣れてきて、「とにかくこの映像はすごい!☆5つ!」とか、偉そうに書いてますが、本や映画に接しているときの人間の「リアルタイムでの心の動き」って、そういうものではないかと。

でも、人はやっぱり、まとめたがるし、「評価」したがる。
あるいは、「自分はこういう文化や芸術を評価できる人間だ」とアピールしたがる。

僕はブログやAmazonでの「素人のレビュー」に、なんとなく違和感を感じていたのです。
もちろん、自分が日頃書いているものも含めて。
その理由が、この新書を読んで、少しだけわかったような気がします。
僕たちは、「ブログ」という「新しい器」を与えられたけれど、結局そこでやろうとしてきたのは、「過去の書評家がつくったフォーマットをなぞること」だけだったのではないか?

もちろん、この『生きる技術は名作に学べ』でさえも、その「人と本との、よりフラットな関係」「本当に感じたことを言葉にすること」を100%実現できているわけではないと思います。
それでも、かなり、そこに近づいているのではないか、という感触が、この新書からは伝わってくるんですよ。
僕は、軽々とその「壁」を飛び越えている(ように見せられる)伊藤さんが羨ましい。
「ブックガイド」としては不完全極まりないのだけど、だからこそ、この本は、ひとつの「作品」として興味深いのです。

この新書では、名作の登場人物の「世渡り上手な人物」が好意的に紹介されているわけではありません。
そういう人物たちへの憧憬と反感を表明し、心の弱い人物たちに共感を寄せながらも、伊藤さんは、軽やかにそこに立っています。
むしろ、「生きる技術」は、「名作」よりも、「伊藤聡」から学ぶべきなのかもしれません。

この新書から、「甘えられなかった」僕へ、そして、「父親になることに自信が持てない」僕へ。

車輪の下』の項より。

「人に甘える能力」とヘッセは表現しているが、これはとても適切な言葉だとおもう。人に甘えること、他人の力を借りながら生きていくことは、ある種の能力であって、ハンスはうまく人に甘えられないまま成長してきてしまった。いままでに一度も他人に甘えたことがないのだから、いきなり甘えなさいといわれても、どうしていいのかわからない。
 上手に人に甘えながら関係を築いていくというのも、教えてもらってすぐにできるようになることではなく、できる人は最初からできるし、できない人はやはり、どうしてもうまく甘えることができない。われわれが日常生活で接する人たちのなかでも、甘えるのがへたで、すべてをひとりで背負ってしまうタイプの人がいる。彼らを見ていると、上手に甘えることもまたひとつの能力なのだなとおもってしまう。

『初恋』の項より。

 父親がつよい力を持ち、抑圧的で、あらゆるものごとを禁止してくるような場合、反発はとてもむずかしくなる。そうした父親はほとんど力づくで、有無をいわさぬ命令を与えてくるためだ。こうした強力な父親に反発するには、本人のなかに反発をうながすエネルギーが必要になるが、場合によっては、そうしたエネルギーすら、父親に吸い取られてしまいかねない。だからこそ、これは暴力性をおびた戦いなのであり、少年は必死で反抗を試みなくてはならない。
 では、理解のある父親、ものわかりのいい父親がいいのかというと、それはそれで逆にややこしかったりもするのだ。ものわかりのいい父親の場合、うまくぶつかることができないから、子どもとしては反発の機会を失ってしまうことになる。エネルギーの発散ができないため、父親に壁としての機能がなくなってしまうのである。子どもの側からすれば、父親は乗りこえなくてはならない対象なのに、あっさり理解され、認められて、応援されてしまうとすれば、これほど調子の狂うこともない。
 父親の役割とは、つまり、禁止の命令を発することである。禁止することで父親は壁になり、子どもはおもうぞんぶん、そこへぶつかっていける。その壁があまりに強固すぎても、子どもの自我は折れてしまうし、逆に手ごたえがなさすぎても、子どもの怒りが吸収されてしまい、発散することができず、うまく反発へと結びつかない。ことほどさように、どのようなタイプの父親であっても、乗りこえることのむずかしさは同様につきまとう。

前者については、「甘えるのもひとつの能力なのだ」と僕が理解できたのは、もう甘えることが許されなくなった年齢になってからだし、後者については、「父親というのは、演じるのが難しい役割なのだ」ということに気がついたのは、息子が生まれてからでした。後者に対して、伊藤さんは「父親について」というコラムのなかで【家族にすら正体がわからない、謎の存在という父親像は、おもいのほかいいのではないか】というひとつの提言をされていますが、そういう存在に、人というのは、なろうとしてなれるものなのでしょうか。
逆説的に言えば、「生きる技術」に「正解」なんてないし、みんな同じように迷ったり、後悔しているんだということを教えてくれるのが「名作」なのかもしれません。
それを読んで、僕は少しだけ「安心」することができる。

「歴史的名作」って、格調が高くて敷居も高いイメージがあるのだけれど、それが読み継がれてきたのは、ある種の「普遍性」というか、「ああ、自分以外にも、同じような悩みや情けなさを抱えている人間がいるんだな」と共感できる面があるからなんですよね。少なくとも、リアルタイムでそうやって「共感」してきた読者がいたからこそ、「名作」は、いまここに存在できているのです。

いまさら「名作」なんて……と思ってしまう、「いい大人」にこそ、僕はこの本をオススメしたい。
そうそう、これを読んでいて、『アメリカン・ビューティー』を観てみたくなりました。

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