琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

個人ブログは、「さるさる日記」に還っていくのだろうか?

参考リンク(1):なぜ今、ブログなのか - jkondo's blog


ああ、この話はよくわかる、というか、僕が最近ずっとモヤモヤしていた「twittermixiの物足りなさ」を、うまく言葉にしてくれたなあ、という感じでした。

最近、こんな記事を書いていただきました。
参考リンク(2):「ぶつぶつ更新」からさらにぶつぶつ - S嬢 はてな


これを読んだときは、本当に嬉しかった。
ああ、僕自身以外にも、こうして僕が書いてきた「積み重ね」みたいなものを読んでいてくれる人がいるんだな、って。
こういうのはまさに、「それなりの長さの文章を長期間書いてきたからこそ」なんだと思います。
「リアルでの知り合い」でもない人に、こうして読んでもらえているというのは、ありがたいことだなあ、と。
自分が書いたものを読み返すのはかなり恥ずかしいのですが、読んでみると「あのときは、あんなことを考えていたんだなあ」と自分でも感慨深いですし。

3年半くらい前に、こんなことを書いていました。

 僕にとって「ブログを書く」というのは、「人類の(というのは大風呂敷で、日本語で書いているかぎりは、せいぜい『日本人』くらいが対象なのでしょうけど)叡智という巨大な図書館の片隅に、自分が書いた本を1冊、そっと置かせてもらっているような感じ」なのです。

 この巨大な図書館で、誰かが手にとってくれるかすらわからないし、「役立てて」くれる人なんて全然いないかもしれない。でも、その本は、とりあえず「そこにある」。

 本はいずれ朽ちて捨てられてしまうだろうけど、手に取ってくれた人の中に、ごくごく微量でも「何か」を遺し、それがなんらかの形で未来に繋がっていくかもしれない。

 ささやかな自惚れですが、僕にとっては、これは、数少ない「存在証明」のひとつなのです。

僕は「何者にもなれていない」のですが、少なくとも、このブログのなかでは、「何者か」になっているのかもしれません。
そういう生き方が正しいかどうかはわかりませんが、それでも、これだけの分量の「この時代を生きてきた人のナマの声」というのは、後世の歴史学者が、なんらかの統計をとるときの砂粒のひとつくらいにはなってくれる可能性はあります。

自分の子どもやその子どもが読んだら、どう思うだろう?
そんなことを考えたりもします。
おそらく「恥ずかしいこと書くなよ爺ちゃん……」なんだろうけど……


Twitterの制限字数とリアルタイム性では、現在のところ、後から読み返して感慨に浸れるような文章を残していくのは難しい。
Facebookmixiでは、どうしても「読んでいる人の顔が見えすぎる」だけに、着飾ってしまう部分がある。


僕は、ブログが好きなんです。
ブログの出始めのときは、個人サイトのほうが好きでした。
「つながり」を、よりいっそう重視したツールが主流になっていくにつれ、言及したりされたりする面白さと同時に、「こんなことを書いたら危ないな」と感じることが多くなってきました。


「感想がもらえる」「反応がある」っていうのは、すごくありがたいことなんですよ。
更新するのに張り合いがでてくるし。
でも、その一方で、反応を求めて、「反応をもらいやすいほうに」流れてしまう傾向もあります。
ブログであれば、「自分自身の記録として残す」という目的もあるのですが、Twitterみたいな「短文で他人とのやりとりを楽しむ」ことが重視されるツールでは、なおさらです。

そして、コメントやトラックバックの中には、「これはキツイな……」と思うようなものもありました。
あなたは、僕の何をわかっているの?というような決めつけや誹謗中傷、誤読による批判。
もちろん、それは僕の主観でしかないのかもしれません。
でもまあ、それが他者からみれば幻肢痛なのだとしても、痛いものは痛い。


にもかかわらず、コメント欄やトラックバックを受けることを続けてきたのは、半分は「いろんな人の意見を聞きたい」という気持ちです。
そしてもう半分は、集客上のメリットです。
コメント欄読みたさに、また来てくれる人もいるんじゃないかな、というような。
あと、僕自身も、個人サイトをはじめた当初は、他の人の掲示板に書き込んだり、トラックバックを送ったりしていたので、これからブログを書こうとしている人たちの宣伝の場として役立てば、というのもありました。
無名人の個人ブログは、年々多くの読者を集めるのが難しい状況になってきていると感じていたので。



どうなんだろうな、とも思うんですよ実際。
昔はHTML手打ちやホームページ・ビルダーでサイトをつくっていた人間としては。
「ブログ」が出てきたときには、「こんなにラクに他者とつながれるなんて!」と思っていたのです。
それが、いまとなっては、すっかり「書くのがめんどくさく」なってしまうような「重さ」を感じるようになってしまって。
はてなブログ」では、「生きた証を残そう」というようなことがうたわれていますが、実際、インターネット上のコンテンツなんて、儚いものです。
さるさる日記』みたいに、サービス側の都合で、膨大なライフヒストリーが消えてしまうこともあります。
もちろん、多くの場合「予告」はされるのですが、「過去ログ」を大事にする人ばかりではないし、「ネット上のものはずっと後世まで残る」なんて保障もない。
そして、仮に残っていたとしても、誰もそれを読まなければ、それは、存在しないのと同じことです。
それならばいっそ、紙の本にして、家の本棚に忍び込ませておいたほうがマシなのかもしれません。


参考リンク(3):はてなブログ(beta)

はてなブログ」が、トラックバック機能すら廃することで、ある程度の「閉鎖性」を保ち、「自分自身と向き合いやすいように」したのは、英断だと思います。
機能って、あるとどうしても使いたくなるしね。
「他者とのつながり」というのは、一度その味を知ると、どんなにそれで痛い目にあっても、完全に断ち切ることは難しい。
「つながれない仕様」であれば、いろんなものをリセットして、また「原点」に戻れるかもしれません。


その一方で、「『はてなブログ』は、使いやすいだけの『さるさる日記』として、歴史を逆行しようとしているのではないか」、とも感じます。
実際のところ、現在のような「良くも悪くもつながりやすいブログ」でさえ、大多数のブロガーは、「ほとんど他者とつながる機会がない」のです。
ブログの世界のなかで声の大きな人たちが、「過剰につながることの苦しさ」を訴えている一方で、多くの人たちは、「ブログでは、つながることが難しい」と考えているのではないでしょうか。
過剰なつながりに疲れて、「個を守り育てるための外界からの距離」を求めるというところにまでたどり着いてしまった人は、それほど大勢じゃないような気がします。


はてなブログ」のコンセプトには、すごく興味深いものがありますし、僕にとっては、ちょうどいい他者との距離をとりうる場所となる可能性があります。
ただ、これまで「はてなブログ」のβ版に登録されているブログをざっと眺めているかぎりでは、「これ、『はてなダイアリー』と何が違うの?」と疑問になってきます。
もちろん、「ツールとしての使いやすさ」が、「ブログを書くモチベーション」を上げてくれるかもしれません。
iPodが、音楽鑑賞のスタイルを変えたように。
いまのところは、「古い酒を新しい器に入れて、ラベルを貼り替えてみた」ようにしか感じられないのですけど。


でもね、ブログは、というか、こうして自分のことを書き続けていくのは、けっこう楽しいですよ。
こんなに「僕が僕が」って言うことができる場所、他には無いから。
いかに自分が成長していないか、よくわかるしね。
簡単なことでも、積み重ねていくことによって、意味が出てくることもある。


僕も、twitterfacebook全盛の時代だからこそ、ブログでまとまった文章を遺していくことにやりがいを感じているし、アドバンテージもあると思うのです。
ブログブームといわれた5〜6年前よりも、いまのほうが、チャンスかもしれません。
だって、いまのネットでは、まとまった文章を書く人が減っていて、そのうえ、他人が書いたものをリツイートしたい人は増えているんですよ。


それにね、この時代のネット上に遺されるログが、有名人の文章のリツイートばっかりって、なんだか寂しいと思いませんか?
マイナーだから、一般人だからこそ書ける、遺しておけることって、まだまだたくさんあるはずなのに。


参考リンク(4):個人ブログの現在、そして、たぶん未来 - 琥珀色の戯言

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