琥珀色の戯言

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されど われらが日々―― ☆☆☆☆


されどわれらが日々― (文春文庫)

されどわれらが日々― (文春文庫)

■内容紹介■
何一つ確かなもののない時代を懸命に生きようとした二人の男女を描き、60年代〜70年代にヒットした青春文学の大ベストセラー

1955年、共産党第6回全国協議会の決定で山村工作隊は解体されることとなった。私たちはいったい何を信じたらいいのだろうか――「六全協」のあとの虚無感の漂う時代の中で、出会い、別れ、闘争、裏切り、死を経験しながらも懸命に生きる男女を描き、60〜70年代の若者のバイブルとなった青春文学の傑作。 解説・大石 静

 僕は最近、「少し旧めの本(とくにベストセラーになったもの)」を意識して読んでいるのです。
 この『されどわれらが日々――』という作品は、僕にとってはずっと「学生運動とかをやっていた自分の父親くらいの『イデオロギーに酔って暴走してしまった世代』の愛読書」であり、「時代の遺物」だと思っていました。
 そして、そういうタイトルのベストセラーがあったことくらいを知識として持っていればいいと考えていたのですが、書店でこの文庫の新装版を見かけ、そんなに分厚くないことを確認すると、ちょっと読んでみたくなったんですよね。

 自分で読み終えて感じたのは、この作品は、けっして「全共闘世代のバイブル」なんかではない、ということでした。
 この作品を読みながら僕がずっと思い出していたのは、夏目漱石の『こころ』で、たぶん、著者もそれを意識していたのではないかと。誰かが自ら命を絶ったり、決定的に傷つけられたりして、その理由が主人公たちへの「手紙」で語られる、という構造そのものもそうですし、死んでいったものたち、あるいは、生き続けているものたちが抱えている「欠落」と、彼らをみる他人の目には著しいギャップがあるのだ、というところも。
 いや、僕としては、「東大出てるエリートさんたちが、『苦悩ごっこ』しやがって!」みたいな気分にもなるんですよこれを読んでいると。お前らは、ありもしない「敵」や「虚無」を自分のなかに勝手に作り上げて、それを恐れている自分に酔っているだけなんじゃないか、って。
 でも、それはまさに、現在の僕も抱えている「普遍的な憂鬱」みたいなものでもあり、だからこそ、この物語に出てくるエリートたちの苦悩に、僕はちょっと反発してしまう面もあるのです。この作品が発表されたのは1964年であり、時代背景は現在と明らかに違いそうですし、「学生運動からの挫折が描かれた作品である」という先入観が強いのですが、僕がこれを読んで感じたのは、半世紀近くたっても、人間、とくに若者が悩むことなんて、そんなに変わりばえしないんだな、ということだったんですよね。

主人公の婚約者・節子からの手紙の一部(主人公と節子は「幼馴染」だったのです)。

 でも、そうした遊びの続いたある日、その積木遊びがもとで、あなたが私を泣かせてしまったことがあったのを、覚えていらっしゃいますか。あの日、その遊びに熟達した私たちは、二人とも殆ど自分たちの背丈に近い高さまで、積木を重ね競っていました。そして二人は、その上に更に高く重ねようと一生懸命になっていました。
 けれども、実を言うと、あの時の私には、どちらが高く積み上げるか、あるいは、どこまで高く積み上がるかなどは、どうでもいいことでした。少なくとも一番大事なことではありませんでした。幼い私には、あなたと一緒に遊べさえすれば、積木を段々高く積み上げて行くのも面白ければ、それがあっという間に崩れてしまうのも、胸がわくわくするほど楽しく感じられたのでした。普段東京の家で、仲の良い近所の友だちも年の近い兄弟もいず、一人ぼっちだった私には、一つ違いのあなたと遊べることが、何よりも楽しかったのです。私は、積木が一つ載ったといっては威張ってみせ、ぐらりと揺れたと言っては声を上げて喜んでいました。
 が、最後の一つをとうとう載せそこなって、折角積み上げた私の塔ががらがらっと崩れてしまった時です。はしゃいだ私は、思わず、「大地震だ!」と叫んで、手を打ち飛び上がり、大仰に驚いてみせました。と、
「馬鹿!」
 あなたはいきなりそう言うと、とてもこわい目をして私をにらみました。
 私はびっくりしました。何故おこられるのか、判らなかったのです。だって、二人でこんなに楽しく遊んでいるのに、おこられる理由なんか、何もないはずでした。それだのに、あなたは本当に真剣なこわい顔をして、私をにらんでいるのです。
 あなたは、あっけにとられている私に、もう一度、
「静かにしなよ、倒れちゃうじゃないか」
 と言うと、また、倒れないで高くそびえている自分の塔の方へ向き直りました。
 私はそれでも、すぐには、私がさわいだのであなたの塔が倒れかかり、それであなたが怒ったのだということが、よく呑み込めませんでした。もし、あなたの塔も倒れたら、それこそ二人で「大地震だ、大地震だ」とさわげばいいのにと思いました。けれども、あなたは、そんな私に背をむけて、また積木を一つ手にとると、もう随分高く積み上がった積木の塔の上に、それをそっと、実にそおっと、実に緊張した様子で載せようとしていました。それは、一緒に遊んでいる私のことなど、もうすっかり忘れてしまっているのでした。あなたは一遍積木を重ねはじめたら、自分がどれだけ高くそれを積み上げられるか、ただそのことだけに夢中になって、最初の、一番肝心な、私と一緒に遊んでいるのだということなど、思い出そうともしないのです。私はそれに気がつくと急に悲しくなってしまい、思わずわあーと泣き出してしまいました。そして、
地震よ! 地震よ!」
 と涙声で叫びながら、身体中でぶつかって、あなたの塔を滅茶苦茶にこわしてしまったのでした。

 僕はいまでも、この「塔を積み上げる側」であったり、「塔を滅茶苦茶にこわしてしまう側」だったりするのではないかな、と考えずにはいられません。
 同じことをやっている、同じベクトルを向いているはずなのに、拭い去れない疎外感に支配されてしまう夜もある。

 「あの時代だから、大ベストセラーになった本」ではあるのかもしれません。
 でも、そういう歴史が、この本の持つ「普遍性」を曇らせ、「今の時代には読む価値がない本」だとみなされているのだとしたら、それはとても勿体無いことだと僕は思います。
 夏目漱石の『こころ』が好きな人は、一度読んでみて損のない作品ですよ。

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