琥珀色の戯言

3000冊以上の【書評】と500作以上の【映画感想】を、ちゃんと読んで、観て書いてきたブログです。話題になったあの本や映画の感想が、たぶんあります。新書、ノンフィクション、インターネット関連本が多め。

「ネット上で他者を責めるための『論理』」の危うさ

僕は基本的に、「コメントへのレスはしません。そのかわり、第三者への誹謗中傷やスパムコメントでなければ消さない」のですが、良い機会なので、ひとつ書いておこうと思います。


マンナンライフ事件は、やっぱり「事故」だと思う。(琥珀色の戯言)
↑のコメント欄に書かれていた、このコメントについて。

●●
2009/03/12 00:51
祖母の立場を考えれば、孫を亡くしてしまった悲しみに対して
同情することもできるでしょう。
では
祖母の無知から死んでしまった子供を考えたとき、
あなたはそれでも「悪意がなければ許される」と言えますか。

これがもし、亡くなったのがあなたの子供で、蒟蒻畑を与えたのが良く知らない近所のおばさんだったとしても。

その人には悪意がなかったのだと許せますか。
それともこの例は「子育て」ではないからと、相手を罵り訴えますか。
子供にとっては、相手の無知な好意で死んだことは変わりないですが。

たしかに、亡くなった子どもは天国で悲しんでいるかもしれないな、と思います。
これから、楽しいこともたくさんあったはずなのに。
お祖母ちゃんを責めているかもしれませんね。

これが、「悪意を持った犯人による事件」であれば、僕は「厳罰に処すこと」を大声で叫びます、まちがいなく。
でも、正直なところ、この事故の場合、「お祖母ちゃんを責めたり、刑事責任を追及したりして、誰が救われるのか?」と考えずにはいられないんですよ。
そのことによって、失われた子供の霊が慰められるのか?
残された家族は救われるのか?
赤の他人としては、自責の念に駆られているであろうこのお祖母ちゃんをこれ以上責める気にはなれません。

「じゃあ、悪意がなければ、パチンコ屋の駐車場に子供を放置してもいいのか?」と言われたら、それはやっぱり「そんなわけないだろ!」です。
最近のパチンコ屋には、「子どもの車内放置をしないように」呼びかけるポスターが見飽きるほど貼ってあるし、警備員が巡回している店も多いようです。
そして、ほとんどの親は、車内放置によって子供がどうなるか、「想像」できるはず。
「そんなふうに言うのなら、全くそんなことを知らない、わからない親が車内放置したら、許されるのか?」ということになりますよね。
うーん、もし本当にそういう人間がいたとすれば、それは「許さざるをえない」のかもしれない……これだけ車内放置に関する情報があふれているなか、本当にいれば、という話ですけど。

ちょっと前置きが長くなりましたが、僕がここで言いたかったのは、「ネット上で他者を責めるための『論理』の危うさ」なんですよ。
この●●さんのコメント「これがもし、亡くなったのがあなたの子供で、蒟蒻畑を与えたのが良く知らない近所のおばさんだったとしても。」には、「こういう近所のおばさんだったら、お前は許せないだろ、だからこの祖母だって許せないんだよ、わかったか!」という主張がこめられているように思われます。

でもね、ちょっと冷静になって考えてみてほしいんです。
ここに1歳9か月の僕の子どもがいるとします。それで、その子どもが、親の目が全く届かないところにいて(そういう状況そのものが、かなり珍しいはず)、近所の見知らぬ「悪意のない」おばさんに、いきなり凍らせた「蒟蒻畑」を食べさせられる、というシチュエーションが、本当に「現実的」なものなのか?
いや、1歳9か月の子供が凍らせた「蒟蒻畑」を保護者に食べさせられるというのもすでにかなり稀な事例だと思うのだけど、少なくともその100倍、あるいは1000倍くらいは低い確率のはず。

まだちっちゃいよ、1歳9か月。基本的にずっと親も目を光らせているはず。
「悪意のないおばさん」が、親がそばにいない見ず知らずの1歳9か月の子供をいきなり自宅に連れ込んで(まあ庭でもいいです)、半解凍の蒟蒻畑を食べさせる、なんていうのは、ちょっとありえないというか、あまりにも特殊な状況すぎます。「見知らぬ1歳9か月の子どもに何かを食べさせる」というのは、「怖すぎ」ですよ普通。
少なくとも「悪意がない」のにそんなことをする人間は希少だと思う。まず親を探すでしょう。
ああ、でも小さな子どもが偶然迷子を見つけたら、そういうことをするかもしれないかな。うーん、『Yの悲劇』!

ちょっと調子にのってしまって申し訳ありませんでした。
要するに、そんなありえないシチュエーションを設定して、「今回の事例と同じじゃないか!」って言うのは、ある種の「印象操作」でしかないと思います。
もちろん、万が一そんなおばさんがいたら、僕は許しませんけど(そんなことをする人に「悪意がない」わけないからね。ここに書いてある状況をひとつひとつ頭に思い描いて現実化していけば)、それを「許せない」からといって、血縁関係があって、日頃から子どもを預けている祖母が「起してしまった」今回の事例も「許せないはず」というのは、あまりに無謀な主張です。
ネット上で「うまいことを考えた!」って誰かを責めるコメントを書く人って、こういう「論理」をふりかざす人が、けっこう多いんですよ。槍玉にあげてしまって悪いけど。
でもね、ネット上って、言葉だけのやりとりだと、こういうのが「いかにも正しそうに見えてしまう世界」なんですよ。
ただ、「ママ友達」が食べさせたら「許せる」?と訊かれたら、ものすごく悩むだろうし、その状況になってみないと、なんとも言いようがない……


あと、「擁護している文章に反論する」のなら良いのだけど、「擁護している人を攻撃する」ケースが多いことには、辟易しております。
これぞまさに「ネット赤軍派」なんじゃなかろうか。

ちょっと話は脱線しますが、吉本隆明さんが、講演のなかでこんなことを言っておられます。

なんといいますかね、素人であるか玄人であるかということよりも、経済論理というのは、大所高所といいますか、上のほうから大づかみに骨格をつかむみたいなことが特徴なわけです。それがないと経済学にならないということになります。

 そうすると、もっと露骨に言ってしまえば、経済学というのはつまり、支配の学です。支配者にとってひじょうに便利な学問なわけです。そうじゃなければ指導者の学です。

 反体制的な指導者なんていうのにも、この経済学の大づかみなつかみ方は、ひじょうに役に立つわけです。ですから経済学は、いずれにせよ支配の学である、または、指導の学であるというふうに言うことができると思います。

 ですからみなさんが経済学の――ひじょうに学問的な硬い本は別ですけど、少しでも柔らかい本で、啓蒙的な要素が入った本でしたら――それは体制的な、自民党系の学者が書いた本でも、それから社会党共産党系の学者が書いた本でも、いずれにせよ自分が支配者になったような感じで書かれているか、あるいは自分が指導者になったような感じで書かれているのかのどちらかだということが、すぐにおわかりになると思います。

 しかし、中にはこれから指導者になるんだという人とか、支配者になるんだという人もおえあれるかもしれませんし、またそういう可能性もあるかもしれません。けれどもいずれにせよ今のところ大多数の人は、なんでもない人だというふうに思います。つまり一般大衆といいましょうか、一般庶民といいましょうか、そういうものであって、学問や関心はあるかもしれない人だと思います。

 僕も支配者になる気もなければ、指導者になる気もまったくないわけです。ですから僕がやるとすれば、もちろん素人だということもありますけど、一般大衆の立場からどういうふうに見たらいいんだろうということが根底にあると思います。

 それは僕の理解のしかたでは、たいへん重要なことです。経済論みたいなものがはやっているのを――社共系の人でもいいし、自民党系の人でもいいですが――本気にすると、どこかで勘が狂っちゃうと思います。指導者用に書かれていたり、指導者用の嘘、支配者用の嘘が書かれていたり、またそういう関心で書かれていたりするものですから、本気にしてると、みなさんのほうでは勘が狂っちゃって、どこかで騙されたりします。

 だからそうじゃなくて、権力や指導力も欲しくないんだという立場から経済を見たら、どういうことになるんだということが、とても重要な目のように思います。それに目覚めることがとても重要だというふうに、僕は思います。それがわかることがものすごく重要だと思います。自分が経済を牛耳っているようなふうに書かれていたり、牛耳れる立場の人のつもりで書かれているなという学者の本とか、逆に一般大衆や労働者の指導者になったつもりでもって書かれている経済論とか、そういうのばっかりがあるわけです、それはちゃんとよく見ないといけないと思います。

 そうじゃなくて、みなさんは自分の立場として、自分はなんなんだと。どういう場所にいて経済を見るのかを、よくよく見ることが大切だと思われます。こういうことは専門家は言ってくれないですからね、ちょっと僕が言ったわけですけども。

ネットで「世界に向かって語っている」って、けっこう気分良いですよね。僕もときどき自分がいっぱしの「論客」であるような錯覚に陥ることがあるんです。
でもね、そういうときは、「じゃあ、現実のお前はどうなんだ?」って考えてみたほうがいい。
この事故について、「マンナンライフの立場」を慮ってくれる人が多いというのは、言いがかりによる医療訴訟の恐怖にさらされている僕にとっては、心強いことです。
ただ、その一方で、「こんなふうに訴訟を起こすことそのものに大バッシングが起こるようになったら、いわゆる『同調圧力』のなかで、自分がどうしても納得できないという立場に置かれたとき、訴訟という最後の手段に出ることが難しい世の中になっていくのではないか?」と危惧してもいるんですよ、ひとりの「一般市民」として。
いや、報道されている通りなら、マンナンライフへの訴訟は「いいがかり」だと思いますし、マンナンライフも苦慮しているはず。
しかしながら、一市民がこういうときに「真実を明らかにする」手段としての訴訟が全否定されてしまうのは、将来の僕にとっても、プラスにはならない予感がしています。
僕はマンナンライフも「営業妨害」とか「名誉毀損」とかでこの親たちを訴訟し返してもいいと考えているんですけどね。
少なくとも、「訴訟そのものを起こすな」という圧力がかかりまくるよりは、そのほうが健全だと思う。
まあ、裁判っていうのは、本当に当事者にとっては消耗しきってしまうものだし、やらなくてすむなら、それにこしたことはないのだけれど……

ネットって、本当に「自分の立ち位置を勘違いしてしまうツール」なんですよ。
それで誰が得をするかというと、プロバイダーと権力者なんだよね、たぶん。
みんなネット上で空威張りするだけで、現実の苦境を忘れてくれるから。


みなさんは自分の立場として、自分はなんなんだと。どういう場所にいて世の中を見るのかを、よくよく見ることが大切だと思われます。
こういうことはアルファブロガーは言ってくれないですからね、ちょっと僕が言ったわけですけども。

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