琥珀色の戯言

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「弱者を勝手に代弁する人々」と「『論理』を振りかざす人々」

参考リンク:Togetter - 「「弱者を勝手に代弁する人々」について、佐々木俊尚@sasakitoshinao氏のツイート 2011/5/3」

 ああ、この話はとてもよくわかる。
 それと同時に、なんというか、このまとめとそれに対するコメントの流れに、拭えない違和感があるのはなぜだろう?

「被災者の目の前で言ってみろ」「被害者の目の前で同じことが言えるのか?」
 これはネットでよく言われる「太宰メソッド」ってやつです。
太宰治人間失格』より。

「しかし、お前の、女道楽もこのへんでよすんだね。これ以上は、世間が、ゆるさないからな」

 世間とは、いったい、何の事でしょう。人間の複数でしょうか。どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。けれども、何しろ、強く、きびしく、こわいもの、とばかり思ってこれまで生きて来たのですが、しかし、堀木にそう言われて、ふと、

「世間というのは、君じゃないか」

 という言葉が、舌の先まで出かかって、堀木を怒らせるのがイヤで、ひっこめました。

(それは世間が、ゆるさない)

(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)

(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)

(世間じゃない。あなたでしょう?)

(いまに世間から葬られる)

(世間じゃない。葬るのは、あなたでしょう?)

 汝は、汝個人のおそろしさ、怪奇、悪辣、古狸性、妖婆性を知れ! などと、さまざまの言葉が胸中に去来したのですが、自分は、ただ顔の汗をハンケチで拭いて、

「冷汗、冷汗」

 と言って笑っただけでした。

 けれども、その時以来、自分は、(世間とは個人じゃないか)という、思想めいたものを持つようになったのです。

「世間」を振りかざして、自分を正当化しようとする人は、太宰の時代も今も少なくないようです。

 僕は病院で働いているので、ときどき、「モンスターペーシェント」に遭遇してしまうことがあります。
「俺は患者だ、弱者だから、お前らはなんでも俺の言うことを聞け」
 ちょっと待ってくれ、本当に「他人がなんでも言うことを聞かなければならない」のであれば、その人は、「強者」なんじゃないの?

 ネット上にも、「弱者の代弁者」として登場し、「糾弾」してくる人がいます。

 じゃあ、「僕がもし被災者だったら、こういう物言いは腹が立つはず」という言い方ならば、「当事者」じゃなくてもOKなのか?
 そのへんのボーダーラインというのは、すごく難しいんですけどね。


 その一方で、いわゆる「論理的な正しさ」ばかりを振りかざす人も、僕はちょっと気持ち悪い。

 論理的に言えば「牛肉の生食には、食中毒の危険があるのは当然」
 ……ですよね。
 それが事実であることは間違いない。
 でもね、その一方で、あの食中毒の件について、そんなふうに「割り切る」ことができる人は、ちょっと羨ましい。
「あなたはいままで、『死ぬかもしれないリスク』を受け入れて、ユッケを食べてきたのか?」
 幼稚園児ならともかく、10歳の子供がユッケを食べて亡くなったことに対して、「親の責任」とか「肉の生食には、そういうリスクがあることを知るべきだ」と言えるほど、日頃から自分や子供の口に入るものに気をつけているのか?あるいは「覚悟」しているのか?

あの店だけが「肉の衛生管理」に突出して問題があったのだろうか?と僕は考えてしまうのです。
同じことが、自分に起こっても「リスクは承知していました」と言えるだろうか。


それこそ、先日書いて、よくもわるくも大反響だった「自分の運の良さを正しさだと勘違いしている人たち」ではないのか。


僕も「自分の価値を高めるために弱者を代弁している人たち」は醜いと思う。
その一方で、そういう「おせっかいな代弁者」が、弱者の権利を向上させてきたという歴史もあるのです。
アメリカの奴隷制度反対の盛り上がりのきっかけのひとつとなったのは、ストウ夫人の『アンクル・トムの小屋』でした。
あの作品が、当時の奴隷たちの「実情」を100%示しているわけではない。
でも、ああいう「美談」とか「哀しい物語」のほうが、人の心を動かしやすいのもまた事実。
(もちろん、酷使されている奴隷の人口が増えたことによる、社会不安への恐怖というのも背景にはあったと思います)


「おせっかいな人々」によって、変わっていく面というのは、確実にあります。
僕は「労働運動なんて、古くさいし自分には関係ない」なんてつい考えてしまうのですが、その一方で、組合の人たちの交渉で得られた賃上げを「俺たちは関係ないから」と、元の給料のままでいい、と拒否することもありません。


本当に、「当事者以外が、どこまで『代弁』していいのか?」っていうのは難しい問題です。
「当事者以外はダメ」というのであれば、一人の人間が殺されただけでは、凶悪な事件も「黙殺」されてしまいそうだし、今回のような大きな災害では、被災した人たちのなかにも「温度差」があるはず。
所詮、他人が考えていることなどわからないのだけれども、だからといって、他者に対して何もしないようでは「社会」とは言えない。
拉致被害者家族の立場には同情してしまうけれど、だからといって、「日本も核武装せよ」と言われると、気持ちはわからないでもないけれど、さすがにそこまでは……と「当事者」ではない僕は考えてしまう。


「功名心」みたいなものを全否定しまえば、「それでも他人のために何かをしようという人間」って、どのくらい残るのだろうか?


ただ、「代弁する人自身も、リスクを背負っているか?」ということは、その人の言葉の「重み」を左右すると感じています。

歴史上、「世界に向かって、誰かの立場を代弁すること」には、大きなリスクがありました。
弾圧されて死んでしまった人もいるし、そこまでいかなくても、地域のコミュニティで白眼視された人は、数えきれないほどたくさんいるでしょう。

ところが、ネット上では、匿名で(ツイッターだと、完全匿名、というわけにはいきませんが)、本人はほとんどノーリスクで誰かの「代弁者」になることができる。
このことそのものは「悪」だとは言い切れません。
困っている人に支援の声をあげただけで弾圧される世界よりは、はるかに「健全」でしょう。
しかしながら、言いたいことだけ言って、あとはアカウントを消して逃げられる「代弁者」に比べて、佐々木さんのような著名人は、背負っているものが多すぎます。そう簡単にアカウントを消してやり直すわけにもいかない。
もちろんそういう立場であることは、逆にいえば、その人の「信頼の証」でもあるのだけれども。
(この件に対しての、佐々木さんの苛立ちは僕にも想像できるし、それと同時に、このまとめの中には、佐々木さん自身も「そんなつもりじゃないのに……」と辟易してしまうような「擁護コメント」もあるのではないでしょうか。僕が「代弁」してますねこれ。蛇足だな)


まあ、基本的には「リスクも背負わずに自分をアピールしたいだけの人」っていうのは、傍からみれば明白なので、いちいち相手にしないのがいちばんなんでしょうけどね。


実は、「論理的」だからという理由で、他人をわざと傷つけるようなことを声高に叫ぶ人たちも同じなんだけどね。
彼らもまた「リスクを背負わずに自分をアピールしたいだけの人」であるという点においては。
「人間を幸せにしない論理」って、そんなに自慢げに振りかざすべきものなのか?
こういう人たちの「論理」って、実は太宰治が書いた「世間」と大差がないのに、言っている本人だけが、それを「論理的」だと思い込んでいる場合も多いですし。


「これは論理的な話だから、感情で文句をつけてくるな」って言う人の多くが、「感情を表明したい人に対して論理で反論してくる」のです。
それはそれで、矛盾しているんじゃない?


他人に反感を買う覚悟もなく「論理」を標榜する人は、覚悟が足らないと思う。
ソクラテスの時代から、「本当に論理的な人」というのは、大衆から憎まれ、嫌われています。

そして、自分の足元も確かめられない人の「論理」ほど、危険なものはありません。

僕が好きな吉本隆明さんの言葉に、こういうのがあります(ちょっと長い引用で申し訳ない)。

なんといいますかね、素人であるか玄人であるかということよりも、経済論理というのは、大所高所といいますか、上のほうから大づかみに骨格をつかむみたいなことが特徴なわけです。それがないと経済学にならないということになります。

 そうすると、もっと露骨に言ってしまえば、経済学というのはつまり、支配の学です。支配者にとってひじょうに便利な学問なわけです。そうじゃなければ指導者の学です。

 反体制的な指導者なんていうのにも、この経済学の大づかみなつかみ方は、ひじょうに役に立つわけです。ですから経済学は、いずれにせよ支配の学である、または、指導の学であるというふうに言うことができると思います。

 ですからみなさんが経済学の――ひじょうに学問的な硬い本は別ですけど、少しでも柔らかい本で、啓蒙的な要素が入った本でしたら――それは体制的な、自民党系の学者が書いた本でも、それから社会党共産党系の学者が書いた本でも、いずれにせよ自分が支配者になったような感じで書かれているか、あるいは自分が指導者になったような感じで書かれているのかのどちらかだということが、すぐにおわかりになると思います。

 しかし、中にはこれから指導者になるんだという人とか、支配者になるんだという人もおられるかもしれませんし、またそういう可能性もあるかもしれません。けれどもいずれにせよ今のところ大多数の人は、なんでもない人だというふうに思います。つまり一般大衆といいましょうか、一般庶民といいましょうか、そういうものであって、学問や関心はあるかもしれない人だと思います。

 僕も支配者になる気もなければ、指導者になる気もまったくないわけです。ですから僕がやるとすれば、もちろん素人だということもありますけど、一般大衆の立場からどういうふうに見たらいいんだろうということが根底にあると思います。

 それは僕の理解のしかたでは、たいへん重要なことです。経済論みたいなものがはやっているのを――社共系の人でもいいし、自民党系の人でもいいですが――本気にすると、どこかで勘が狂っちゃうと思います。指導者用に書かれていたり、指導者用の嘘、支配者用の嘘が書かれていたり、またそういう関心で書かれていたりするものですから、本気にしてると、みなさんのほうでは勘が狂っちゃって、どこかで騙されたりします。

 だからそうじゃなくて、権力や指導力も欲しくないんだという立場から経済を見たら、どういうことになるんだということが、とても重要な目のように思います。それに目覚めることがとても重要だというふうに、僕は思います。それがわかることがものすごく重要だと思います。自分が経済を牛耳っているようなふうに書かれていたり、牛耳れる立場の人のつもりで書かれているなという学者の本とか、逆に一般大衆や労働者の指導者になったつもりでもって書かれている経済論とか、そういうのばっかりがあるわけです、それはちゃんとよく見ないといけないと思います。

 そうじゃなくて、みなさんは自分の立場として、自分はなんなんだと。どういう場所にいて経済を見るのかを、よくよく見ることが大切だと思われます。こういうことは専門家は言ってくれないですからね、ちょっと僕が言ったわけですけども。

ネット上の「論理」には「神の視点」「支配者の視点」に基づくものが多いような気がしてなりません。
「正論」に酔うあまり、自分が徴兵されるかもしれないことを忘れて、徴兵制に賛成してしまう危うさ、とでも言えばいいのか。


そもそも、誰も傷つけない「正しさ」なんて、存在するのだろうか?
(そういう意味では、やなせたかし先生の「飢えた人に一切れのパンを与えるのは、どんな文化においても揺るぎない『正義』だ」というのは、僕が知るかぎり、もっとも「普遍的な正しさ」に近いと思う)


最後にひとつ、気になっていること。
みんな、他人に対して「弱者」って言葉を気軽に使っているけれど、自分のことは「強者」だと思っているの?

人間なんて、災害だけでなく、自分や身内の病気や事故でも、あっという間に「弱い立場」になってしまうものです。

僕は、今日困っている人に手を差し伸べることは、明日困るかもしれない自分を助けることだと信じています。

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