琥珀色の戯言

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パーマネント野ばら ☆☆☆


パーマネント野ばら (新潮文庫)

パーマネント野ばら (新潮文庫)

出版社/著者からの内容紹介
私の家は「パーマネント野ばら」。
山あいのハウス農家のおばあちゃん達のパンチパーマを一手に引きうけます----。
「どんな恋でも、ないよりましやんか----」。
 娘を連れてふるさとの村に出戻ったなおこ。その母が営む、村にひとつのパーマ屋さんは、女のザンゲ室。そこでは女たちが、恋にまつわる小さな嘘を日々告白している。男に裏切られても、泣いて笑ってたくましく。おとなの女の恋心を描く感動の物語。

「おとなの女の恋心を描いた物語」としては、本当に素晴らしい作品だと思います。
とか言いながら、僕には正直、「おとなの女」の気持ちってよくわからないんですけどね。

でも、この作品が手放しで褒められることにたいしては、ちょっと抵抗があるのです。
僕は「灰になるまで女」とか「据え膳食わぬは男の恥」という言葉を口にする人が「女」や「男」はそういうものだ、と語ることで、自分の個人的な欲望を正当化しているように感じるのです。
この『パーマネント野ばら』は、西原さんがいままでのさまざまな体験を通じて描いた「女の世界」だと思うのだけれど、こうして「どんなにダメな人生しか歩めなくても、それもまた『女の人生』というふうにあっさり肯定してしまうのは、西原さんの「本心」なのだろうか?

この『パーマネント野ばら』で描かれる女性たちへの西原さんの優しい目線と、『この世でいちばん大事な「カネ」の話』で子どもたちに対して、「こういう『貧しさの再生産』から抜け出すために、人は仕事をしてお金を稼ぐべきだ」と語る西原さんの言葉は、なんだかすごく矛盾している(というか、西原さんのなかには、たぶんその両方の感覚が共存しているのでしょうが)、ように思われるのです。
僕はつい考えてしまいます。
この『パーマネント野ばら』の世界を否定するところから、西原さんの「新しい人生」は始まったはずなのではないか?
にもかかわらず、それを肯定した作品を「感動的に」描くことに、罪悪感はないのか?

結局のところ、僕にとっては、「感傷的な気分にはなれるけど、共感はできない作品」でした。


この世でいちばん大事な「カネ」の話 (よりみちパン!セ)

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