琥珀色の戯言

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『崖の上のポニョ』感想(再掲) ☆☆☆



『崖の上のポニョ』公式サイト

公式サイトでの、宮崎駿監督の「作品の内容の解説」

海辺の小さな町
海に棲むさかなの子ポニョが、人間の宗介と一緒に生きたいと我儘をつらぬき通す物語。
同時に、5歳の宗介が約束を守りぬく物語でもある。
アンデルセンの「人魚姫」を今日の日本に舞台を移し、
キリスト教色を払拭して、幼い子供達の愛と冒険を描く。
海辺の小さな町と崖の上の一軒家。
少ない登場人物。
いきもののような海。
魔法が平然と姿を現す世界。
誰もが意識下深くに持つ内なる海と、波立つ外なる海洋が通じあう。
そのために、空間をデフォルメし、絵柄を大胆にデフォルメして、
海を背景ではなく主要な登場人物としてアニメートする。
少年と少女、愛と責任、海と生命、これ等初源に属するものをためらわずに描いて、
神経症と不安の時代に立ち向かおうというものである。
宮崎 駿

 昨日ようやく観てきました。
 17時からの回で、観客はだいたい100人くらい。時間帯もあってか、大人7割、子供3割といったところ。

 観終えて最初に感じたのは、「えっ、これで終わりなの?」ということでした。
 クライマックスらしいところもあまりなく、大きなバトルも主人公たちを苦しめる厳しい苦難も不在で、いつのまにかあの「ぼーにょぼーにょぼにょ」のテーマ曲が流れておしまい。
 後ろで観ていた家族連れのお父さんの「思ってたより面白かったな」という呟きが印象的でした。

 僕は、正直ちょっと退屈だったかも……寝不足で観てしまったこともあったにせよ、途中何度かウトウトしてしまいましたし……

 「海を描いたアニメーション」という技術的な面では、非常に素晴らしい作品だと思います。
 ただ、なんというか、「あーボニョかわいいねえ」というのと、「なんかすべてにおいて唐突な作品だなあ」というのが僕の感想です。


 以下はネタバレになりますので、隠します。


 本当にネタバレですので、未見の方(で、今後観る予定の方)は、先に作品を観てから読むことをオススメします。


 それで、僕が『ポニョ』に対していちばん考えたことって、「ああ、宮崎駿監督は、『人魚姫』の物語に対して、不満というか、心残りがずっとあったんだろうなあ」ということでした。
 「おとぎ話」とか「童話」っていうのはときにものすごく残酷な結末を迎えるのですが、子供心に、「なんだこの結末は、納得いかん!」って思ったことはみんなあるのではないでしょうか?
 監督自身が上の「作品の内容の解説」で「キリスト教色を払拭して」と書かれていたように、大部分の子供たちにとっては、『人魚姫』や『幸福の王子』の結末は、「納得いかない」と思うんですよ。そして、子供たちは、自分のなかで、「人魚姫や王子やツバメが幸福になる物語」を創りあげます。
 この『崖の上のポニョ』は、老境を迎えた宮崎駿監督が、子供たちに向けて遺したかった「新しい童話」じゃないかな、と僕は思うのです。
 この物語には「常識的な大人」が存在しません。主人公・宗介の母親・リサなんて、大人である僕からすれば、交通法規を破りまくり、大雨のなか「とにかく家に帰らなきゃ」といって、無謀にも水浸しの道路に突っ込んでいく大バカ。「そんなにあの老人保健施設が気になるなら、とりあえずあの夜はあそこにずっといればよかったじゃないか!」と、危険区域に踏み込んでテロリストに捕まってしまう人を見るような、醒めた視線で見てしまうのです。いや、アニメだよアニメ。でもさあ、あんなことされたら、踏み切り番の人たちは後で責任問われちゃったりするんだよやっぱりさ。
 そして、あとは「ひまわりの家」の老女たち。彼女たちは最後に魔法で「歩けるようになる」のですが、そのささやかな奇蹟の背景で、あの嵐のために何百人、何千人もの人が死んでます、たぶん。
 なんかね、宮崎駿は、子供と老人には優しいよね、基本的に。


 物語の最後に、ポニョの父、フジモトは、宗介にこのように問いかけます。

 ポニョは半魚人だ、そして、人間になってしまえば、もう魔法は使えない。
 それでも君は、ポニョを好きでいられるかい?

 その問いに、僕は心のなかで答えます。
 うーん、まだ5歳だし、育ってきた文化も違うし、ポニョの食費だって、育てるための手間だってバカにならないだろうし。
 そもそも、5歳のときの「好き」っていう感情なんて、いつまで続くか、わからないよね……

 しかしながら、画面の宗介は、なんのためらいもなく、こう答えるのです。

 うん、僕はポニョのこと、好きだよ!

 ………宗介、それはまだ、君が「子供」だからだよ。
 『人魚姫』の王子様は大人だったから、そんな安請け合いはできなかったんだ。

 でも、このシーン、「くそ、この無責任な『ゆとり』アニメが!」とか思いながらも、僕にはけっこうグッと胸にくるものがあったのです。
 
 宮崎駿監督が、主人公を5歳の男の子にしたのは、この選択が、「5歳の男の子なら、ギリギリ受け入れられるはず」だと判断したからではないでしょうか。
 大人は、「好きなものは好き」って簡単に言ったり、好きなものを守るためでも、他人に迷惑をかけちゃいけないかもしれない。それはしょうがない。
 でもね、子供が「好きなものは好き」でいることを、許してあげられない世の中って、あまりにも寂しくないか?

 そして、子供たちよ、お前たちは、大人の顔色ばっかりうかがって、そんなに「物分りがいい」ふりをしなくていいんだよ。
 たとえ、お前の「好き」で世界が破滅しそうになったとしても、そんなこと気にしなくていい。それは子供の「特権」なんだ。


 この『崖の上のポニョ』って、たぶん、宮崎駿監督が「未来の子供たちに遺すための新しい『人魚姫』」として作った作品なのです。

 宮崎駿監督と養老孟司さんの対談集、『虫眼とアニ眼』のなかで、宮崎駿監督は、こんなことを仰っておられます(1997年の対談です)。

 世の中には悪いヤツが必ずいて、そいつをやっつければ、この世はよくなるという考え方、あれば、もうやめようと思っているんです。そうじゃなくて、こうなったのは、みんなで一緒にやっちゃったんだというふうに思わないと、なにも道は生み出せないと思う。この日本の現状がどこかに軟着陸するのか、あと2、3年緩やかに衰えていって、ガダルカナル戦みたいな悲惨な経済戦争に向かうのか、最後は大敗退が決定的になって、原爆が落ちるまでやるのか、それとも、多少は賢く降伏するのか、ぼくには予想もつきませんが、一方で人心は確実にすさむでしょう。別に深刻ぶって言ってるわけじゃありませんが、ただ、ぼくが友人と呼んでいる小さな女の子や男の子たち一人ひとりが、こういう時代に育ってどういう気分なのかというのがひどく気にかかる。彼らが可哀想だというつもりもありませんけれど。
 この前散歩をしたときに通りかかった教会の前に書いてあいったんですが、マザー・テレサは「遠い人類より、隣の人を愛しなさい」って言ったそうですね。なるほどと思って帰ってきたんですが、あらためてそう言われると、確かにぼくらは人類のことを考えすぎてますね。それから未来のことも。なんでこんなに未来、未来って言うのか。子どもの未来はつまんない大人って決まってるんですよ、ぼくたちがそうなんですから(笑)。

 実は、この宮崎監督の言葉こそが、『崖の上のポニョ』という作品の主題なのではないかと、映画を観て、僕は感じました。
 宗介は、まさに「人類や未来ではなく、自分の目の前にいるかけがえのない存在であるポニョを選んだ」のです。

 ちょっと意地悪なのですが、僕は映画を観ながら、フジモトがリサや耕一を人質にとって、「ポニョとお前の両親のどちらかを選べ」と迫ったら、宗介はいったいどうするだろう?と考えていたんですけどね。

 この映画、宮崎駿監督から、この時代を生きる子どもたちへの「遺言」なのかもしれません。
 そして、『人魚姫』の結末に憤っていた大人たちには、けっこう「心に響く」のですよね。ああ、こういう結末になってほしかったんだ、って。

 ただ、鈴木敏夫プロデューサーは、こんなことを言っておられました。

この映画、僕は傑作だと思うし、大人には評判いいんだよね。でも、肝心の子どもたちの反応が鈍いって宮さん(宮崎監督)はボヤいてた。

 実は、昨日この映画を観にいったとき、こんな光景を眼にしました。

父親どれ観る?『崖の上のポニョ』がいいんじゃない?

5歳くらいの男の子:ええーっ!『ポニョ』なんかより、『ポケモン』のほうがいい、絶対『ポケモン』っ!

 大人の「子どもが子どもらしく生きられるように」なんていう「願い」は、当事者である子どもたちにとっては、単なる「大人による『子どもらしさ』の押しつけ」なのかもしれませんね……

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