- 作者: 松井彰彦
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2010/04/07
- メディア: 新書
- 購入: 74人 クリック: 736回
- この商品を含むブログ (43件) を見る
社会科学を塗り替えつつあるゲーム理論は、「人と人のつながりに根ざした理論」である。環境問題、三国志、恋愛、いじめなど、多様なテーマからその本質に迫る入門書。
序章 恋は駆け引き
第1章 戦略編
第2章 歴史編
第3章 市場編
第4章 社会編
第5章 未来編
書店で見かけて購入。有名人の思いつきみたいな新書ばかり読んでいたので、たまにはアカデミックなものを読んでみようかな、という気分で。
何ページかめくってみて、そういえば、大学時代に、この「ゲーム理論」の講義を受けたよなあ、と思い出しました。
僕は数学というか数学的な思考法が苦手で、なんかしっくりこない、そんなシンプルなものなのだろうか?とか考えながら、単位を取るための最低限の勉強しかしなかった記憶があります。
『ゼロサムゲーム』や『囚人のジレンマ』など、「耳にしたことはあるけれど、誰かに説明してと言われると困る」ようなものも、イラストをまじえてかなりわかりやすく説明されていますし、この本を読んでいると、「自分の感覚」と「実際の確率」にはけっこう差があるものだな、という実感がわいてきます。
「PK(ペナルティキック)は苦手な方向へ蹴れ!」って、適当なことを書いて目を引こうとしているんだろうけど、そんなわけないないだろ……と思った僕なのですが、この新書での解説を読むと、いまの世の中が「高度情報化社会」であるからこそ、そういう「意表を突く」ことのメリットがあるんですよね。
この新書、それぞれの「理論」が、数字や表で書かれているのですが、僕の心に最も訴えかけてきたのは、次のような「具体例」でした。
三つめの特徴は、顔の見えない競争では「退出」がものを言うのに対し、顔の見える競争では「声」がものを言うという点である(ハーシュマン『離脱・発言・忠誠』)。たとえば、ある町にレストランが100軒あって、客が1万人いたとしよう。客は100軒の店を食べ歩きながら自分の好みの店を探そうとするかもしれない、このとき、まずい料理やひどいサービスをすれば、客はいつの間にか離れていく。これを「退出」のメカニズムという。客は店に来ないことで無言の抗議をしているわけである。一方、100軒のレストランそれぞれが100人の得意客を抱えている状態を考えてみよう。この状況下では、得意客はそうそう鞍替えをしないが、レストランの味やサービスについてあれこれ注文をつける。これを「声」のメカニズムという。客は行き付けのレストランを替えることはそうそうしないが、直截的な抗議をすることで改善を促すのである。
「退出」は市場を通じた改革、「声」は組織的な取引を通じた改善を促している。どちらがいいかはときによりけるであるが、市場一辺倒である必要はないのである。ときに顔の見える競争は有効に働く場合がある。(中略)
話は変わるが、親が口うるさいのも「退出」と「声」という原理から説明できる。「退出」というオプションが使えない親は「声」を使って、子供に改善を促すしかなないのである。もっとも、親が勉強していないのに子供に「勉強しろ」と言ってもあまり効き目はない。ここには、「まず隗より始めよ」という諺がぴったりはまるが、もちろんそんなことを親に言って「逆鱗」に触れてはいけないことは言うまでもない。
世の妻が口うるさいのもまったく同じ原理だ。結婚前はあんなにおしとやかだったのに、と嘆く貴兄は男女の戦略的関係がわかっていない。離婚のコストは高いが、恋人なら「ごめんなさい」の一言で別れられる。恋人が口うるさくないのは、「退出」というオプションを持っているからなのである。結婚後、相手がどのように変わるかは、神のみぞ知ることかもしれないが、やはりそこには一定の法則があるのである。恋愛も学問の対象になり得る証左といえよう。
うちの妻も「最近口うるさくなったよなあ」なんて感じることが多いのですが、それは「彼女の性格が変わった」わけではなくて、「そう簡単に別れるわけにはいかなくなったので、可能な選択肢として『口うるさく注意』せざるをえなくなっただけのこと。
親が子どもに「勉強しろ」というのも「勉強しなければ見捨てる」という選択肢がないから、「勉強しろ」と言うしかない。
そう考えると、僕の親も、限られたルールのなかで、使用可能な最善の手を打とうとしていたわけです。
配偶者とか親というのは、なんて困難なルールのゲームに参加しているのだろう!
まあ、こういうのって、自分が親の立場になってみて、あらためて思い知らされたのですけど。
その他にも、いじめに対する、「ゲーム理論」からのアプローチも新鮮でした。
社会がゲームだとすれば、子どもたちは子ども社会というゲームを自分たちの狭い経験の中から作りあげている。そのゲームに入れてもらえないことほど辛いものはない。仲間外れは転校するたびにぼくが恐れたことだった。
大勢の中での孤独はたった一人で宙をさまよっているより性質が悪い。しかも、仲間外れの子をかばおうとすれば、今度はかばった子が仲間外れになる。仲間外れの子がいる状態というのは、そういうふうにして維持されているのだ。
A、B、C、Dという4人の子どもがいたとする。ここで、A、B、Cというグループができて、Dが仲間外れになったとしよう。この状態は均衡として意外に安定だったりする。たとえば、仲間外れがいる状況は望ましくないと思ったCがDと遊んだとする。そうすると、今度はCが仲間外れとなってしまう可能性がある。最悪、DもCから離れて、A、B、Dというグループに代わってしまうかもしれない。その可能性が否定できないのであれば、CはAやBと仲違いとしてまで、Dをかばおうとはしないだろう。子どもは残酷なまでに合理的なのである。
それにしても、なぜ、Dは仲間外れになったのであろうか。それは、A、B、Cという三人が仲間外れにしたからである。では、なぜDを仲間外れにしたのであろうか。決定的な理由はない。しいて言えば「他の子どもが仲間外れにする」からである。そして、「仲間外れ」という状況を説明するために、理由が探し出される。仲間外れになれば、無口になるのは当たり前なのに、「無口だから」とか、「ださいから」とかいったものが、後から理由として述べられたりする。状況を説明するために作り出された話がいつの間にか「本当の話」になる。人間関係においては、しばしば「真実」はみんなの意見で作られてしまうのである。(中略)
いじめの撲滅は、それが何の益ももたらさないし、見方を変えれば何の根拠もなくなる、とみんなが理解するところから始まる。いじめの問題はいじめられる側ではなく、いじめる側のものの見方が歪んでいることから帰納的に生じることをみんなが理解すれば、何を変えるべきかの答えは自ずと見つかるであろう。
僕個人の感覚としては、すべての人間関係が「ゲーム理論」にあてはまるというのは、なんとなくしっくりこないし、「それが社会というゲームのルールだから」と訳知り顔で語る人を好きにはなれません。
でも、「自分、あるいはこの社会を客観的にみるトレーニング」というのは、たとえば「いじめ」のような「社会というゲームのルールそのものが変わらなければ、無くならないもの」を撲滅するためには、とても大事なことだと思うのです。
自分はこのゲームのプレイヤーである一方で、ゲーム全体からみれば、ひとつの駒でしかない。
有名人が思いつきをダラダラと語っているだけの「新書」を読むだけでなく、たまにはこういう「簡単に自分の世界を広げることができる新書」を手にとってみてはいかがでしょうか。
「高校生からの」と書いてありますが、「もう一度勉強したい!」という大人にもちょうどいい新書だと思います。