琥珀色の戯言

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氷上の光と影―知られざるフィギュアスケート ☆☆☆☆


氷上の光と影―知られざるフィギュアスケート (新潮文庫)

氷上の光と影―知られざるフィギュアスケート (新潮文庫)

内容(「BOOK」データベースより)
氷上の華麗な舞は、観る者を魅了する。だが、その水面下では壮絶なドラマが繰り広げられている。より高い「技術」と、より美しい「芸術」との狭間で、日々闘い続ける選手たち。そして、彼らを支えるコーチや振付師の役割とは何なのか。また、複雑な採点方法、4回転ジャンプ、トリプルアクセル等々、進化する専門用語も解説。フィギュアスケートの深淵を描く本格ノンフィクション。

いまや「フィギュアスケート大国」となった日本。
テレビでもゴールデンタイムにフィギュアの大会が中継され、高視聴率を叩きだしています。
僕はオリンピックの女子フィギュアは必ず観るけれど、あとは裏番組次第、という程度の「フィギュアスケート好き」ですが、この本は、長年フィギュアスケートを取材してきた著者による、「リンクのすぐそばから見た、フィギュアスケートの世界」として、非常に興味深いものでした。

なかでも印象的だったのは、あの事件のことでした。

 (1994年)1月6日にケリガンが襲われてから、リレハンメル五輪で女子シングルが終了した2月25日まで、米国のニュース番組にケリガンとハーディングが登場しなかった日は一日もなかった。
 リハビリに励むケリガン。回復後に会見をするケリガンリレハンメルに旅立つケリガン。初の公式練習をするケリガン。一方では事件関与の疑惑がもたれていたハーディングの日々の様子がこれでもかと放映され、二人がはじめて公式練習で顔を合わせるころには騒ぎはピークに達した。CBSのコメンテーターをつとめたスコット・ハミルトンは、リレハンメルのノーザンライトリンクに押し寄せたメディアたちの様子を「しつけの出来た動物園のようだ」と評した。
「タイム」「ニューズウィーク」「ピープル」などの雑誌が、次々とケリガンやハーディングの写真を表紙に起用して事件を報道し続けた。その社会的な注目度により、米国にはかつてなかったほどのフィギュアスケートブームが訪れたのである。
 リレハンメル五輪の女子テクニカルプログラム(現在のショートプログラム)の日、米国のCBSネットワークは48.5%という視聴率を記録した。これは当時、テレビ史上二番目という数値だった。

F1が、セナとプロストの「(プロストによる「政治的な圧力」も含む)ライバル対決」で人気のピークを迎えたのと同じことが、フィギュアスケートの世界でも起こっていたのです。
ケリガンとハーディングはともに優れたスケート選手ではあったのでしょうが、アメリカでのフィギュアスケート人気を盛り上げたのは、皮肉にも、2人のアスリートとしての演技ではなく、「場外乱闘」(といっても、ケリガンは「被害者」なのですが)だったのです。
スポーツ・ファンは多いけれど、それ以上に、「スキャンダル好き」は多い、ということなのでしょう。

ちなみに、「ケリガン人気」は、彼女が周囲から与えられた「悲劇のヒロイン」のイメージに従うことができなかったため、リレハンメル五輪すぐに暴落してしまいました。


この文庫のなかでは、フィギュアスケートの世界の華やかな部分だけではなく、「スケートをやる人にしかわからない、スケートの技術」の話や、選手のメンタルコントロール、コーチ・コリオグラファー(振付師)の役割なども、世界のトップにいる人たちへの取材も含めて、しっかり描かれています。
ニコライ・モロゾフというコーチの「すごさ」を、僕はこの本を読んでようやく理解できました。
いままで、「選手を誘惑してやる気を出させる、ナンパコーチ」みたいなイメージを勝手に抱いていたんですよね。


そして、よく問題となっている「フィギュアスケートのジャッジ」についても、かなり詳細に描かれています。
「自分の国への利益誘導」ばかり行われていて、公正なジャッジが行われていないのではないか?
そんな批判も多いフィギュアのジャッジなのですが、著者は「フィギュアという競技の性格上、100%客観的で公正なジャッジというのはありえない」という見解を示しています。

 各国のジャッジは、自国の連盟の推薦なしには国際ジャッジの資格を手にすることはできない。その彼らに、自国の連盟の利益をまったく度外視して採点せよ、というのはそもそも無理な理想論なのかもしれない。ISU(国際スケート連盟)の技術コンサルタント、カナダのテッド・バートンは、このように言い切った。
「どの国の連盟もジャッジを送る目的は、自国の選手をなるべくいい順位につけるためです。ある特定の国だけが、そうなのではない。どの国も同じです。だから複数の国のジャッジが集まって採点するのです」

この本によると、ジャッジというのは「名誉職」みたいなもので、彼らはほとんど交通費・宿泊費のみ支給で、「仕事」についてはノーギャラに近いのだそうです。
非難の対象となることが多いジャッジなのですが、ある意味「割に合わない仕事」ではあるんですよね。
そして、いまのフィギュアの採点というのは「性悪説」というか、「みんな自国の選手を贔屓にする」ことが前提で、そのなかで、いかに「ジャッジをまとめた時点での評価の偏り」をなくしていくか、というシステムになっているのです。


ちなみに、この本のなかで、僕がいちばん笑ってしまった話(当事者にとっては、笑えない話かもしれませんが)

 選手には、外の音がどのくらい聞こえているものなのだろうか。
 村主章枝ソルトレイクシティ五輪のフリーで氷上に出て、ベートーベンの「月光ソナタ」のメロディがはじまるのを待っていた。静まり返った観客席から、誰かが日本語で叫ぶ声が聞こえてきた。
「村主、光を放て!」
「いやあもう、集中力が切れそうになっちゃって。こんなことをいう人は、いったい誰なんだって思いましたよ。あの後で、よく自分でも最後までどうにか滑ったものだと思います」
 後日、村主は笑い転げながらそう語った。
 実は声の主は、元プロテニスプレイヤーの松岡修造氏だった。彼が現役の選手だったころ、海外で日本語の応援の声が聞こえると勇気付けられたものだったという。その自分の経験から、リンク際から熱い声援をおくっていたのだった。

なんて、「松岡修造的」なエピソード!
しかし、フィギュアスケートほど、「演技中には極限の集中力を必要とし、少しのミスが大きな失点や危険につながる」というスポーツは、他に類を見ないかもしれません。
テニスの場合は、「長時間の試合中の(起伏を含めた)メンタルマネジメント」が大事なため、こういう「応援」をプラスにできる選手も多いのでしょうけど、村主さんにとっては、相手が善意でやっているだけに、もう「笑うしかない話」でしょうね、しかし、オリンピックのフリーの直前にねえ……

それにしても、この本を読んでいると、華やかなイメージばかりが強いフィギュアスケートの世界というのは、こんなにも精神的・肉体的にハードな「戦場」だったということに驚かされます。

「ぼくはこれまでアメリカンフットボールも、NBAも撮影してきた。だけれど、フィギュアスケーターほど、強靭なアスリートはほかに知りません」
 長年フィギュアスケートの撮影をしてきたABCのTVカメラマン、ジョン・ボイドはあるとき私にそう語った。
 私も、まったく同感である。

この本を読めば、この言葉に僕も頷けます。
松岡修造とも戦わなきゃいけないっていうのは、大変ですよねやっぱり……

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