琥珀色の戯言

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共喰い ☆☆☆


共喰い

共喰い

内容紹介
第146回芥川賞受賞作「共喰い」――昭和63年。17歳の遠馬は、怪しげな仕事をしている父とその愛人・琴子さんの三人で川辺の町に暮らしていた。別れた母も近くに住んでおり、川で釣ったウナギを母にさばいてもらう距離にいる。日常的に父の乱暴な性交場面を目の当たりにして、嫌悪感を募らせながらも、自分にも父の血が流れていることを感じている。同じ学校の会田千種と覚えたばかりの性交にのめりこんでいくが、父と同じ暴力的なセックスを試そうとしてケンカをしてしまう。一方、台風が近づき、町が水にのまれる中、父との子を身ごもったまま逃げるように愛人は家を出てしまった。怒った父は、遠馬と仲直りをしようと森の中で遠馬を待つ千種のもとに忍び寄っていく....。川辺の町で起こる、逃げ場のない血と性の臭いがたちこめる濃密な物語。
第144回芥川賞候補作「第三紀層の魚」も同時収録。

第146回芥川賞受賞作。
この作品を読み終えて僕が感じたのは、「気持ち悪さ」と「古さ」でした。
いまどき、この平成24年に(舞台は昭和63年なんですが)「こんな話」かよ……
僕もちょうど昭和の終わりに高校生くらいだったけど、こんな「セックスモンスター」じゃなかったけどなあ……
以前、本屋大賞候補になった『ふがいない僕は空を見た』を読んだときにも感じたのですが、この作品の舞台設定は、僕にとっては「敬遠球」なんですよね。
僕は基本的に「恋愛小説」が苦手で、なかでも、「中高生をセックス猿扱いしている『大人』の小説」が大嫌いなんです。
なんかね、これだけ堂々と「セックスとバイオレンス」が描かれていると、「あーはいはい、そういうのが『文学』なら、僕は歴史小説のほうがいいです」とか言いたくなります。


『なぜケータイ小説は売れるのか』(ソフトバンク新書)という本のなかで、本田透さんは、次のように書いています。

ケータイ小説では「7つの大罪」が描かれる。


 売春(援助交際)、レイプ、妊娠、薬物、不治の病、自殺、真実の愛。

『共喰い』って、「ものすごく文章が上手な(これがポイント!)ケータイ小説」みたいなもんじゃね?

 ほじゃけど、お前も分かろうが、ああ? 我慢出来ん時は、誰でもよかろうが。割れ目じゃったらなんでもよかろうが。

だったら、シュレッダーにでも突っ込んどけ!


『共喰い』に関していえば、僕は正直、石原慎太郎さんに同意なんですよね。
上手い文章であることは認めるけれども、

戦後間もなく場末の盛り場で流行った『お化け屋敷』のショーのように次から次安手でえげつない出し物が続く作品

という石原さんの選評は、言い得て妙なのではないかと。
これ、いつの時代の小説なんだ?と言いたくなるようなレトロ感とセックス&バイオレンスの大サービス。
読みながら、「ああもうこういうの読むのイヤだな」と思った理由の半分は「いたたまれなさ」であり、あと半分は「もう、こういう小説には飽きた」でした。



ただ、島田雅彦さんは、芥川賞の選評で、こう書かれています。

作者が、近代小説の理屈よりも神話的荒唐無稽に惹かれているのだとすれば、父と子の神話的原型を忠実になぞるのも一つの選択である。この古臭さは新鮮だ。

みんながストライクゾーンのギリギリを狙って投げているなかでは、この「ど真ん中のストレート」に、圧倒的な力があるように見えるのだろうか。
もしかしたら、いまの若者たちにとっては、現実にはありえない「ファンタジー小説」として読まれているのかもしれない。
あるいは「メタ純文学」とか……


まあね、これだけ「嫌い」と思えるというのは、それなりのインパクトがあった、ということでもあるんでしょうけどね。
しかし、この作品が「もらって当たり前と作者が豪語していた」とか「石原都知事を揶揄した」という話題性で、20万部も売れているのって、僕はなんだか腑に落ちないのです。
芥川賞作家に必要なのは、作品そのものじゃなくて作家のキャラクター?
みんな、小説の何を読もうとしているの?

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