- 作者: 橋爪大三郎,大澤真幸
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2011/05/18
- メディア: 新書
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内容説明
キリスト教がわからないと、現代日本社会もわからない――。イエスは神なのか、人なのか。
GODと日本人の神様は何が違うか?
どうして現代世界はキリスト教由来の文明がスタンダードになっているのか?
知っているつもりがじつは謎だらけ……
日本を代表する二人の社会学者が徹底対論!
話題になっている新書ですが、「いくら詳しくても、日本人の学者が『解釈』したキリスト教がアテになるのかな?」
そんなことを考えてしまって、僕はなかなか手にとる気がしませんでした。
今回、読んでみたら、けっこう面白かったんですよね。
「宗教に関する本だから、面白がってはいけない」というほうが、かえって偏見だったのかもしれません。
「ユダヤ教とキリスト教はどう違うのか?」という問いに対して、橋爪大三郎さんは、こう答えておられます。
橋爪:議論のはじめなので、ユダヤ教についても、キリスト教についてもよくわからないという前提で、ふたつの宗教の関係を端的にのべてみましょう。
では、その答え。
ほとんど同じ、です。
ユダヤ教もキリスト教も「ほとんど同じ」なんです。たったひとつだけ違う点があるとすると、イエス・キリストがいるかどうか。そこだけが違う、と考えてください。
わかりやすい!
でも、本当にそこまでわかりやすくしてしまって良いのだろうか……と、ちょっと不安にもなります。
この本のなかでは、「神の理不尽」が、これでもかと紹介されています。
『ヨブ記』は、旧約聖書のなかでも有名な「諸書」のひとつです。
これは、「神を信じて正しく生きていた「義人」ヨブの話なのですが……
それ(ヨブが正しく生きていること)をヤハウェ(ユダヤ教の「神」)が満足していると、サタンがやって来て、こう言います。「ヨブがああなのは財産があるから。それに、子どもも立派だからです。それを奪ってごらんなさい。すぐに神を呪うに決まっています」。ヤハウェはそこで、財産を奪い、子どもも全員死なせてしまった。でもヨブはまだ神を信じていた。「神は、与え、神は、奪う。神が与えるものを感謝して受け取るべきなら、苦難も同様に受け入れよう」。そこで今度は、サタンの提案で、ヨブの健康を奪ってみた。ひどい皮膚病になり、身体を掻きむしって血だらけで、犬に傷口をなめられる。ゴミ溜めに寝ころがる、ホームレスになっちゃった。それでもヨブは、まだ神を信じていた。神とヨブの根比べです。
そこへヨブの友達が三人やってきて、いろいろ質問をする。「ヨブ、お前がこんなにひどい目にあうのは、何か原因があるにちがいない。おれたちに隠して罪を犯しただろう。早く言え」。ヨブは反論して、「私は誓って、決して神に罪を犯していない。何も隠してもいない」。すると友達は「この期に及んでまだ罪を認めないのが、いちばんの罪だ」。話は平行線で、友達もなくしてしまった。
ヨブにとっていちばん辛いのは、神が黙っていることです。ヨブが神に語りかけても、答えてくれない。ヨブは言う、「神様、あなたは私に試練を与える権利があるのかもしれませんけど、これはあんまりです。私はこんな目にあうような罪を、ひとつも犯していません」。するととうとう、ヤハウェが口を開く。「ヨブよ、お前はわたしに論争を吹っかける気か。なにさまのつもりだ? わしはヤハウェだぞ。天地をつくったとき、お前はどこにいた? 天地をつくるのは、けっこう大変だったんだ。わしはリヴァイアサンを鉤で引っかけて、やっつけたんだぞ。ビヒモス(ベヘモット)も退治した。そんな怪獣をお前は相手にできるか?」みたいなことをべらべらしゃべって、今度はヨブが黙ってしまうんです。
さて、最後にヤハウェは、ヨブをほめ、三人の友達を非難する。そして、ヨブの健康を回復してやり、死んだ子どもの代わりに、また息子や娘をさずけた。娘たちは美人で評判で、ヨブはうんと長生きをした。財産も前より増えた。めでたしめでたしです。ヤハウェも、ちょっとやりすぎたかなと反省した。
神、ひどい……
善良な人を試すために、さんざん「試練」を与えておいて、我慢の末に愚痴をこぼしたら「逆ギレ」。
これ、死んだ子供はどうなの……
人間の感情なんて、「2人死んじゃったけど、3人生まれたから1人プラスでOK!」なんてもんじゃないと思うのだけれど……
どう考えても、これはいまの時代を生きる僕にとっては、「めでたしめでたし」と素直に受け入れることは難しい話です。
大澤:で、ぼくはいつも思うんだけど、神の国があって、そこで一部救われる。他方で救われない人がいて、火で焼かれる。なんかそれも、残酷と言いますか……。
橋爪:なんで全員を救わないのだろうと、思いません?
大澤:そう思いますよ。
それに救われたほうだって、そんなに心穏やかでしょうか。仮に神の国に入れたとしても、あっち側ではずっと焼かれた人がいる。あまり楽しくないですね。ずっと死なずに、隣の苦難を見ていなければならない……。しかも、救われなかった人も死なずに、ずっと焼かれているんでしょ?
橋爪:そのとおりです。
大澤:だから、楽しく死なない人と苦しく死なない人がいて、これはとんでもないことじゃないかと思います。救ってやるならみんな救ってやれよ、と(笑)。
そもそも「全知全能」なら、そんな「救われない人」を、わざわざ製造する必要があるのか?とも思いますよね。
この新書を読んでわかったのは、「神というのは、理不尽で理解不能だからこそ『神』なのだ」ということでした。
「それでも神を信じる」のが、「信仰」なんですね。
そして、理不尽な存在である「神」の存在を、いかにして証明するかというのが、キリスト教文化にとっての永遠のテーマだったのです。
「神」という、少なくともいまの科学の世の中からみると、かなり矛盾にみちた存在を「なんとかして存在していることにする、信じようとするための不断の努力」こそが、キリスト教文化を支えてきたのです。
穿った見方をすれば、「ヘリクツ」にすら思われる「理論」を次から次へと積み重ねていき、「それでも神はいるのだ」と信じようとしてきた姿は、ちょっと感動的ですらあります。
みんながそうやってつくりあげてきた「神という壮大な物語」をリセットして台無しにしようとしたからこそ、ニーチェの「神は死んだ」という言葉には、インパクトがあったのだなあ。
「それを言っちゃあ、おしまいだろ!」って。
ニーチェは、みんなが「いかにこのお湯が熱いか」とアピールしているなかで、「熱くない…」と言ってしまった小島よしおみたいな存在だったのかもしれません。
その一方で、この新書のなかで、著者たちは、宗教に対してネガティブなイメージを抱きがちな人々に、こう問題提起しています。
もうひとつは、科学と聖書の問題ですね。
日本人は、聖書を読むと荒唐無稽なことが書いてあるので、この科学の時代にキリスト教を信じるなんてナンセンス、という印象をもつ。
科学と宗教が対立する、と考えることのほうがナンセンスです。
科学はもともと、神の計画を明らかにしようと、自然の解明に取り組んだ結果うまれたもの。宗教の副産物です。でもその結果、聖書に書いてあることと違った結論になった。
そこで多数派の人びとは、「科学を尊重し、科学に矛盾しない限りで、聖書を正しいと考える」ことにした。こうすれば、科学も宗教も、矛盾なく信じることができます。地動説や進化論やビッグバンセオリーは、こうしてキリスト教文明の一部に組み込まれた。
これに対して、福音派みたいに、聖書を文字通り正しいと考える人びとがいます。極端な考え方で、少数派だが、アメリカなどではそれなりの勢力をもっている。進化論に反対したなどとニュースになる、あれです。
日本では、科学を信じない福音派を馬鹿にする傾向がありますが、私に言わせれば福音派の考え方は多数派のキリスト教徒とある意味そっくりです。どうしてかと言うと、福音派は多数派の裏返しに、「聖書を尊重し、聖書に矛盾しない限りで、科学の結論を正しいと考える」ことにした。こうすれば、やはり、宗教も科学も、矛盾なく信じることができます。
聖書も、科学も、どちらも包括的な考え方の体系で、それを信じて生きていくことができる。問題は、両者が互いに矛盾する場合があることです。両方を正しいと考えることができない。そこで、矛盾を避けるため、片方を信じないことになる。多数派は、聖書を話半分と考える。福音派は、科学を話半分と考える、結論は反対になるけれども、考え方は瓜二つ。きわめて合理主義なのです。
橋爪さんは、この後、太平洋戦争中に捕虜になった日本人が、アメリカ軍の将校に「進化論を知っているか?」と問われたという話をされています。
この将校は「天皇を現人神だと信じている日本人は、進化論なんて知らない(あるいは、信じていない)だろう」と考えていたようです。
ところが、その日本人は、進化論をちゃんと知っていて、正しいと思っているにもかかわらず、天皇を現人神だと信じてもいたのです。
その将校には、「なぜ、進化論と現人神という存在を両方信じることができるのか、理解できなかった」。
いまでも、「宗教を持たない日本人」は、「科学では、まだ説明できないもの」に対して、どう接していいのか、迷っているのかもしれません。
「正解」を求めて読む新書ではないと思います。
イエス・キリスト誕生以来、2000年以上、キリスト教世界が知恵をしぼっても、「答え」を出せていないのだから。
でも、「そこまでして神を信じようとした、あるいは信じようとし続けている人間の心」って、ほんとうに「ふしぎ」ですよね。