琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

ヒューゴの不思議な発明 ☆☆☆☆☆


あらすじ: 1930年代のパリ。駅の時計台にひそかに住む孤児の少年ヒューゴ(エイサ・バターフィールド)の唯一の友達は、亡き父が残した機械人形だった。壊れたままの人形の秘密を探る過程で、彼は不思議な少女イザベル(クロエ・グレース・モレッツ)とジョルジュ(ベン・キングズレー)に出会う。やがてヒューゴは、機械人形にはそれぞれの人生ばかりか、世界の運命すらも変化させてしまう秘密があることに気付き……。

参考リンク:『ヒューゴの不思議な発明』公式サイト



 映画に夢中になっている女の子の横顔を隣で見るのって、いいものですよね。


 この映画のなかで、「人生ではじめて映画を観る」というイサベルの隣に座ったヒューゴの姿に、大昔の自分の記憶をちょっと重ねてしまいました。


 木曜日のレイトショーで観たのですが、観客は僕も含めて7人。
 地元の映画館では、「字幕の2D」か、「吹替えの3D」しか選択できなかったため、「吹替えの3D」にしました。
 僕は基本的に、字幕>吹替え、3D>2Dなのですけど、この映画に関しては、役者の生の声よりも3Dのほうが優先されると判断したのです。


 この『ヒューゴの不思議な発明』、予告を観たときには、「ああ、この主人公の少年が、機械人形を修理して、その機械人形のおかげで、いろんな不思議なことが起こるんだな」と思っていました。
 でも、アカデミー賞での紹介では、『アーティスト』と並んで、「今年は、『映画についての映画』の対決ですね」なんて言われていて、「あの人形がC3−POとかになるのか?」なんて勝手に想像していたのですけど、全然違ったんですよね。
 冒頭の15分〜20分くらい(『HUGO』のタイトルが出るくらいまで)は、いまひとつストーリーがわからないまま幻想的な映像が流れ、まさかこれは『オリバー・ツイスト』なのか?と不安になりましたが、その後は見事に軌道修正。
 機械人形の役割は、「予告編では、あれだけすごい秘密が隠されているっぽいのに、そんなものかよ!」と、『ファイナルファンタジー2』で「アルテマ」を獲得したあとのような脱力感に襲われますし、そもそもこれ、「ヒューゴの発明」じゃないのでは……とも思うのです。
 しかしながら、この映画、「映画ファン」(いや、マニア、くらいじゃないと、ちょっと厳しいかな)にとっては、どっぷりとノスタルジーにひたれます(とはいっても、リアルタイムであの映画を観た人は、もうほとんどいないと思いますが)。
 僕自身は「映画マニア」ではありませんが、「マンガ」とか「アニメ」「テレビゲーム」の創生期から黎明期をみてきた人間として、「新しいことをやるために、いろんなものを犠牲にしてきた開拓者たち」の姿には、共通したものを感じます。
 彼らは、みんな希望に満ちていて、エネルギッシュで、そして、向こう見ずでした。
 この映画には、そういう人たちと時代への愛情が詰まっているのです。
 そして、「フィクションで救われてきた人たちの姿」も。


 僕も「ゲームや映画、小説などのフィクションを友達にして、人生をなんとかやり過ごしてきた人間」なので、この映画は、本当に心にしみました。
 冒頭で、ヒューゴに、イザベルが「あなたは真人間には見えない」って言うんですよ。
 でもね、そういう「真人間になれな人たち」が、たくさんの「人々が楽しく生きられるための杖」をつくってきたのです。
 マーティン・スコセッシ監督といえば、『アビエイター』『ディパーテッド』『ギャング・オブ・ニューヨーク』など、「アウトローの映画」を撮る監督というイメージがあります。
この『ヒューゴの不思議な発明』を観たジェームズ・キャメロン監督は、「ようやくできた子供たちを連れて行けるスコセッシ映画」と絶賛したそうです。
 それでも、スコセッシ監督にとっては、「映画をつくった人たち」というのは、「変わり者」で、「時代に妥協できない人々」であり、この『ヒューゴの不思議な発明』もまた、「アウトロー映画」なのでしょう。

 こうしてみると、街はひとつの機械のように見える。
 機械には、要らない部品なんてひとつもないんだ。
 だから、僕にも、そして君にも、何かの「役割」があるはずだよ。

 僕は「つくるひと」に弱いので、この映画に甘くなってしまっているのかもしれませんが、これだけ「何かをつくらずにはいられない人」への愛情に溢れた作品は、めったにありません。
 「子供向け」っぽくみえるかもしれませんが、「大人のための映画」ですよ。
 こんな時代で、夢をみられなくなった大人たちのための。

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