- 作者: 塩野七生
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2013/12/18
- メディア: 単行本
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内容紹介
この人を見よ! その生と死とともに、中世が、壮絶に、終わる―― ! 構想45年、ユリウス・カエサル、チェーザレ・ボルジアに続いて塩野七生が生涯を描き尽くした桁違いの傑作評伝が完成! 神聖ローマ帝国とシチリア王国に君臨し、破門を武器に追い落としを図るローマ法王と徹底抗戦。ルネサンスを先駆けて政教分離国家を樹立した、衝突と摩擦を恐れず自己の信念を生き切った男。その烈しい生涯を目撃せよ。
内容(「BOOK」データベースより)
古代にカエサルがいたように、中世にはこの男がいた―!構想45年、塩野七生がどうしても書きたかった男ルネサンスを先駆けた“世界の驚異”
神聖ローマ皇帝、フリードリッヒ二世は、西暦1194年に生まれ、1250年に55歳11か月で没しています。
この『フリードリッヒ二世の生涯』では、のちに「世界の驚異」と言われたこの皇帝の事績を追いながら、彼が生き、改革しようとした「中世」という時代が語られていくのです。
冒頭の「読者に」で、著者の塩野七生さんは、こう書いておられます。
私は、読んでくださるあなたに保証できることはただ一つ、これらを、とくに中世モノの真打ちの感ある「フリードリッヒ」をお読みになれば、中世とはどういう時代であったかがわかるということ。そしてその中世の何が古代とはちがっていて、なぜこの中世の後にルネサンスが起こってきたのかもおわかりになるでしょう。
また、古代と中世とルネサンスのちがいを最も明快に示してくれるのは、登場人物たちの「顔」を紹介できるか否か、にもあります。私の作品の中でも、古代モノとルネサンスモノではそれが可能でした。反対に、中世モノではそれができません。中世の有名人たち、リチャード獅子心王やフランス王フィリップやこのフリードリッヒさえも、肖像は描かれなかったからです。この中世で描かれた「顔」は、信仰の対象である神やイエス・キリストや聖者たちでした。
人間の「顔」がリアルに描かれるということは、人間性の現実を直視する態度と比例の関係にあります。ゆえにこれ一つ取っても、中世とはどういう時代であったかが想像できるのではないでしょうか。
歴史には、ときおり、「生まれた時代を間違えてしまったように見える人」が登場してきます。
キリスト教の教会の力が強い時代に、神聖ローマ帝国の皇帝の嫡子として生まれたフリードリッヒ2世。
彼は早熟の天才として、さまざまな言語に通じ、イスラム圏との交流が盛んだったシチリア王国の王位についていたこともあって、イスラム文化にも造詣を深めていきました。
当時のキリスト教の世界では、「理解不可能な異教徒」であり、「十字軍での討伐の対象」であったはずのイスラム教徒にも、子どもの頃から接しており、偏見を持っていなかったのです。
むしろ、「宗教だけでなく、政治にも介入してこようとする、ローマ法王の権力」のほうが、フリードリッヒにとっては理解しがたい存在であったようにさえみえます。
とはいえ、あの時代に生きる人間として、フリードリッヒは「教会をないがしろにしていた」わけでもなかったんですよね。
皇帝フリードリッヒの生涯を通しての信念は、イエス・キリストが言ったように、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」に基づいていた。信徒の心の平安は、神の地上の代理人とされるローマ法王が担当し、現実生活は、公正な統治の実施が責務の皇帝の担当分野である、ということである。この責任分担の考えは、近現代に至って「政教分離」という表現で定着する。
この本を読んでいると、21世紀を生きている僕の感覚で、フリードリッヒに肩入れしてしまい、「フリードリッヒは、もっと法王に対して、思い切って圧力をかければよかったのに」とか、思ってしまうんですよ。
現にフリードリッヒ2世の没後半世紀が経った世界では、フランス王による「アヴィニョン捕囚」が起こっています。
しかしながら、「まだそういう時代ではない」と考えていたのか、自らのポリシーであった「政教分離」を自分のほうに都合良く曲げることも嫌ったのか、フリードリッヒは、自らの「皇帝としての使命」をやりとげようとしたのです。
何度も、ローマ法王から「破門」されながら。
そして、彼に心酔した人は、法律家や諸侯だけではあく、聖職者にも少なからずいたのです。
すべてにおいて合理性を重視し、封建国家から、法治国家への移行を目指したフリードリッヒは、中世においては「生まれる時代を間違えてしまった人」のように見えます。
ところが彼は「自分に合っていない時代のほうを、自分の、そして多くの人が望む方向へ動かしてしまった人」だったのです。
「生まれる時代を間違ってしまった人」は、少なくありません。
でも、その中で「時代のほうを変えようとし、それが一定の成果をもたらした人」というのは、本当に稀有な存在です。
フリードリッヒ2世は、まさに、そういう人でした。
それまで、多くの命と費用を犠牲にしてきた「十字軍」を、「イスラム世界側との話し合いによって、無血でエルサレムを取り戻した(ただし、イスラム教徒にとっての「聖地」は除く)というのは、まさに「偉業」でしょう。
ただし、当時は「キリスト教徒の血をもって、エルサレムを取り戻す」というのが正しいこととされており、「異教徒と妥協した」ということで、フリードリッヒは「破門」されています。
フリードリッヒのやり方は、あまりにもそれまでとは違いすぎて、とくに教会側にとっては理解不能であり、恐怖の対象だったのです。
その一方で、戦乱に疲弊した人たちからは、「新しいタイプの君主」として、畏敬されてもいました。
もちろん、全戦全勝ではなかったし、生涯において、痛い敗戦や身内の悲劇などもあり、こんなに英邁な人でも、すべてがうまくいくわけではないのだな……と、嘆息せずにはいられません。
フリードリッヒへの対抗心が、教会側に、悪名高き「異端裁判所」を設置させるきっかけとなったことも、描かれています。
その後、「異端裁判」は、キリスト教世界で、猛威を振るうことになります。
それはフリードリッヒのせいではないのだけれども、もし、こういう「政教分離を主張する皇帝」が出現しなかったら、「魔女裁判」は行われなかったかもしれないのです。
塩野さんは、当時の「メディアの評価」として、3人の記録者によるフリードリッヒ二世についての記述を紹介しています。
そのなかで、2人の「教会側」の記録者は、こんなふうに述べています。
もしも彼が、良きカトリック教徒として神と教会への忠誠を欠かさなかったならば、同時代の君主の誰よりも傑出した統治者になっていたにちがいない――
死の後には別の「生」があるとは信じず、それが、聖なるカトリック教会から敵視されつづけた最大の要因であった――
一方で、「皇帝寄り」とされる、ニコロ・ディ・ジャムシーラという人は、こう書き残しています。
しかし、何と言っても特筆に値するのは、法治国家建設への彼の強烈な熱意であろう。自ら学ぶことによって得た一つ一つの法律への深い理解だけに頼ることはせず、法律に詳しい専門家たちからの助言や忠告には耳を傾けるのが常だった。そして、法律は誰に対しても公正に施行されるべきという信念は、あらゆる妨害を前にしてもゆらぐことはなかったのである。
この彼の考えによって統治されていた王国内では、弁護士は誰に対しても弁護を嫌がらず、弁護費用のない人には国選弁護人をつけることで、その権利を皇帝自らが保証していたのである。ただし、ときには、法の厳正な施行を重視するあまりに情状酌量が軽視される場合はあった。
この皇帝に対する敵側からの憎悪は強く執拗で、皇帝はしばしば苦境に立たされ、それゆえの苦悩は味わわねばならなかった。
しかし、彼らからのいかなる敵対行為も、フリードリッヒを破滅させることはできなかったのだ。彼の知力が彼を守っている間は、できなかったのである。つまり、死がついに彼にも訪れるまでは――
フリードリッヒ二世という人は、当時としては、相当の「変人」だったと思うんですよ。
その「変人」が、ぶれることなく自分のやり方を貫いたことによって、中世という閉塞した時代に風穴をあけ、ルネサンスへの橋渡しをしたのです。
たしかに、この人は「世界の驚異」だとしか、言いようがない。
しかしながら、この本を読んでいくと、フリードリッヒ二世の子孫たちは、偉大な皇帝の死後、けっして幸福な人生を送っているわけではなく、というか、かなりの苦難の道を歩むことになるのです。
フリードリッヒ二世ほどの智者が、できるだけのことはしていたはずなのに、彼の威光は、直径の子孫たちを明るく照らすことができなかった。
それもまた、歴史というものの、一面ではあるのでしょう。
世界史好きにとっては、本当にたまらない一冊だと思います。
こんな人がいたということを、知らずに死ぬのは、もったいない。