琥珀色の戯言

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大統領の執事の涙 ☆☆☆☆



あらすじ: 綿花畑で働く奴隷の息子に生まれた黒人、セシル・ゲインズ(フォレスト・ウィテカー)。ホテルのボーイとなって懸命に働き、ホワイトハウスの執事へと抜てきされる。アイゼンハワーケネディ、ジョンソン、フォードなど、歴代の大統領に仕えながら、キューバ危機、ケネディ暗殺、ベトナム戦争といったアメリカの国家的大局を目の当たりにしてきたセシル。その一方で、白人の従者である父親を恥じる長男との衝突をはじめ、彼とその家族もさまざまな荒波にもまれる。

参考リンク:映画『大統領の執事の涙』公式サイト


2014年8本目の劇場での鑑賞作品。
火曜日のレイトショーを観たのですが、15人くらいお客さんがいて、ちょっと驚きました。
けっこう地味な映画で、イケメンハリウッドスターが主役でもないし、閑散としているのではないか、と予想していたので。
「地味だけど、滋味溢れる映画」という感じで、口コミでに人気になっているのでしょうね。


この映画を観る前の僕の歴史の知識は、こんな感じでした。

南北戦争のなか、リンカーン奴隷解放宣言を出し、アメリカの奴隷制度が終焉を迎えました。
そして、次第に黒人(アフリカ系アメリカ人、というのが政治的には正しいのかもしれませんが、この映画の記事については、あえてこの記述にしておきます)の権利が認知されていき、いまでは、少なくとも名目上は「平等」になったのです。

まあ、ざっくりとした感じ、ですよね。


あらためて考えてみると、「奴隷解放宣言」で、いきなり、白人と黒人が「すべて平等」になったわけではなく、その時点では「奴隷ではなくなった」だけなのです。
そこから、「法の下での平等」が確認され、南部で黒人が選挙で妨害を受けずに投票できるようになったのは、現在(2014年)から、わずか50年前のことなのです。


僕が生まれるほんの10年くらい前は、アメリカ南部では「白人席」と「非白人席」が分かれており、白人と黒人は同じ学校に行けなかったのです。
「差別」は、けっして、遠い昔の話ではありません。
作中で、「アメリカ人は他の国の歴史、収容所のことなどについて口を出したがる。自分たちの国では、200年以上も隔離政策を続けてきたことも忘れて」という述懐が出てきます。
「人種差別をしないのが人間の自然な姿だ」と、いまの時代を生きている僕は思い込んでいるのだけれども、「差別するのが当然」だと信じていた人たちのほうが多数派だった時代がありました。


この作品は、過酷な農場での労働から、あるきっかけで執事としての技を身につけ、そして、ホワイトハウスで働くこととなった黒人執事の物語です。
ユージン・アレンさんという実在の執事の手記をもとに(参考に)しており、フォレスト・ウィテカーさんが演じるホワイトハウスバトラー(執事)のセシル・ゲインズの視点で、執事の34年の任期中に起こったさまざまな事件が描かれていくのです。


主人公は、あくまでも「執事」で、「給仕をしているときには、その部屋の空気のような存在でいること」が優秀な執事の役割です。
ハリウッド映画的には、テロリストが潜入してきて、セシルがひとりでそれを撃退して大統領を助け出したり、歴史の転換点で大統領に「進言」したりしそうなものなのですが、もどかしいほど、セシルは「執事」であり続けるのです。
だからこそ、有能な執事として、34年間も勤め上げることができたのでしょうけど。
同じ黒人の権利が踏みにじられていき、同胞が危険を顧みずに声をあげていくなか、「白人の最高権力者のもとで、言いなりになって働く」というのは、名誉なことでもあり、苦しいところもあったはずです。
「仲間を助けてください」と言いたくなったことも、あったのではないかなあ。
セシルが仕事熱心でありすぎたために、家庭は崩壊しかけ、「社会を自分たちの力で変えていくこと」を目指した長男とは大きな温度差が生まれていきます。
その一方で、セシルの誠実な仕事ぶりは、歴代のホワイトハウスの主(大統領)に愛され、信頼されていきます。
アイゼンハワー大統領から、レーガン大統領まで、さまざまな大統領を有名俳優たちが演じているのですけど、「特殊メイクで完全に似せる」のではなく、「その人物の雰囲気を醸し出す」ようにしているのが印象的でした。
まあ、そっくりさんが続々と出てきたら、それはそれでコントみたいですしね。
当初は差別的な考えが染みついていた大統領も、ホワイトハウスで職務につき、人びとの運動や悲惨な事件、社会の変化に接していくにつれ、変わっていくのです。
その歴代大統領の「意識の変化」の積み重ねが、黒人の社会での権利の獲得につながっていったのです。


僕がこの映画のなかで、もっとも印象的だった場面は、キング牧師が、セシルの息子をこんなふうに諭す場面でした。
「執事というのは、白人に従属している恥ずかしい仕事だという人もいるが、私はそうは思わない。彼らは、すぐれた職能で白人に仕え、白人の近くで真摯な仕事ぶりを見せることによって、黒人に対する信頼や親近感を得ているのだ。彼らもまた、戦士なのだ」
キング牧師が、本当にこんな発言をしたのかどうか、ちょっと調べてみましたがわかりませんでした。
ただ、これが映画のために作られたセリフであったとしても、僕はこの言葉に感銘を受けたのです。


武器をとって血を流すことだけが「戦い」じゃない。
デモをやったり、論争をすることだけが「戦い」じゃない。
大統領の身近なところに常にいて、執事としてその生活を支えてきた黒人たちの存在が、歴代大統領の「黒人観」にも影響していたのではないかと思うのです。
もちろん、血を流して、あるいは、逮捕されたり、侮蔑の言葉を浴びせられながらも「行動」してきた人たちの力が大きかったのだとしても。


武器を持って戦うのが嫌いな人も、その人にあった戦いかたをすればいい。
さまざまな人の、さまざまなありかたを許容することこそが、差別をなくすためにいちばん大事なことでもありますし。


映画評論家の町山智浩さんが、ラジオで、この映画について「30年間のアメリカの公民権運動の歴史を、2時間あまりで楽しく学ぶことができる作品」というように仰っていました。
(僕はそれを聴いて、観てみようと思ったのです)
「人種差別」は、けっして「昔の話」ではないんですよね。

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