琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

【読書感想】こんな夜更けにバナナかよ ☆☆☆☆☆


Kindle版もあります。

内容紹介
ボランティアの現場、そこは「戦場」だった――


自分のことを自分でできない生き方には、尊厳がないのだろうか? 介護・福祉の現場で読み継がれる傑作ノンフィクション!


単行本が出たのが、2003年。
文庫とKindle版は、2013年の夏に出ていたんですね。


この本、最相葉月さんが『仕事の手帳』のなかで書評されていたのです。
10年前くらいにかなり話題になっていた記憶があるけれど、読み損ねていたのだよなあ。
今回あらためて読んでみると、10年経っても、良質のノンフィクションというのは「古さ」を感じないことがわかりました。
文庫化の際に、この10年間に変化がみられていることについては、追記もされています。

 鹿野靖明。40歳。「進行性筋ジストロフィー」という病気を患っている。全身の筋力が徐々に衰えてゆく難病である。効果的な治療法はまだ解明されていない。
 筋ジスだと医師に告げられたのは小学校6年生のときだった。以来、中学・高校を養護学校(現在の特別支援学校)で過ごし、18歳のとき脚の筋力の低下により、車いす生活となった。32歳のとき心臓の筋力低下により、拡張型心筋症と診断された。
 1年ほど前から首の筋力低下により、ほとんど寝たきりの生活になっていた。動くのは両手の指がほんの少し、という第1種1級の重度身体障害者である。


 できないといえば、この人には、すべてのことができない。
 かゆいところをかくことができない。自分のお尻を自分で拭くことができない。眠っていても寝返りがうてない。すべてのことに、人の手を借りなければ生きていけない。
 さらに大きな問題があった。
 35歳のとき、呼吸筋の衰えによって自発呼吸が難しくなり、ノドに穴を開ける「気管切開」の手術をして、「人工呼吸器」という機械を装着した。筋ジスという病気が恐ろしいのは、腕や脚、首といった筋肉だけでなく、内臓の筋肉をも徐々にむしばんでゆくことだ。
 以来、1日24時間、誰かが付き添って、呼吸器や気管内にたまる痰を吸引しなければならない。放置すると痰をつまらせ窒息してしまうのである。
「なんでコイツ、24時間介助されてて狂わないんだろうって、みんなが不思議がるわけさ。そこでいろいろと発見が始まる。――不思議発見だね」
 身動きできないベッドの上で、鹿野はそういって愉快そうに鼻を鳴らす。
「なぜなんですか」
「それは自分をさらけ出すことによって……だって、さらけ出さないと他人の中で生きていけないわけでしょ。できないことはしょうがない。できる人にやってもらうしかない」

「親とは一緒に暮らさない」と鹿野が決意したのは、1983年(昭和58年)、23歳のときだった。
「親には親の人生を生きてほしい。ぼくが障害者だからといって、その犠牲になってほしくない」という強い思いがあったからだ。また、そう思わざるをえない、別の事情もあった。
 しかし、当時の障害者福祉の状況からすると、身体障害者の生きる道はほぼ2つしかなかった。
 一生親の世話を受けて暮らすか、あるいは、身体障害者施設で暮らすか、である。
 鹿野は、そのどちらでもないイバラの道へと足を踏み出した。重度身体障害者が挑んだ「自立生活」への挑戦だった。
 

 以来、介助者探しとスケジュール調整が、この人の生きてゆくための「仕事」となった。電動車いすで自ら街に出て、チラシをまいたり、大学や医療・福祉関係の講演活動をしたり、また、新聞に募集広告を打って、ボランティア募集とその必要性を訴える。
 しかし、1日24時間、1年365日をどう人で埋めるか。この問題は深刻だ。


 鹿野さんの一日の介助には、3交代制で、一日あたり4人の介助者が必要でした。
 月にのべ120人、年間のべ1460人。
 そのなかには、無償のボランティアと、有償の介助者が含まれています。
 夜間を含むこのシフトを埋めていくのは、かなり大変な仕事です。
 「介助者が誰かいなければ、鹿野さんは死んでしまう」し、介助を行えるようになるには、それなりのトレーニングが必要でした。
 お金をもらえるコンビニのアルバイトだってシフトを埋めるのは大変なのに、ボランティア中心での24時間態勢をつくりあげていったのだよなあ。
 

 介助者のひとり、国吉さんのこんなエピソードが、この本のタイトルになっています。

 とりわけ、国吉にとって納得がいかなかったのは、鹿野が「夜寝ない」ということだった。
 入院患者が寝静まった深夜にも、不眠症の鹿野は容赦なく「あれしろ、これしろ」といっては、手に握った鈴をチリチリと鳴らした。「眠らない」のではなく「眠れない」のだということに、当時の国吉は深く思い至らず、アルバイト疲れで大変な夜は、とりわけ介助がつらかったという。
 そんな不満が爆発寸前のとき、「バナナ事件」は起こった。
 ある日の深夜、病室の簡易ベッドで眠っていた国吉は、鹿野の振る鈴の音で起こされた。「なに?」と聞くと、「腹が減ったからバナナ食う」と鹿野が言う。
「こんな真夜中にバナナかよ」と国吉は内心ひどく腹を立てた。しかし、口には出さない。バナナの皮をむき、無言で鹿野の口に押し込んだ。2人の間には、言いしれぬ緊張感が漂っていた。
「それに鹿野さん、食べるスピードが遅いでしょ。バナナを持ってる腕もだんだん疲れてくるしね。で、ようやく1本食べ終わったと思って、皮をゴミ箱に投げ捨てて……」
 もういいだろう、寝かせてくれ。そんな態度を全身にみなぎらせて、ベッドにもぐり込もうとする国吉に向かって、鹿野がいった。
「国ちゃん、もう1本」
 なにィー! という驚きとともに、そこで鹿野に対する怒りは、急速に冷えていったという。
「あの気持ちの変化は、今でも不思議なんですよね。もう、この人の言うことは、なんでも聞いてやろう。あそこまでワガママがいえるっていうのは、ある意味、立派。そう思ったんでしょうか」
 そのときの体験を、国吉は入社試験の作文に書いてNHKに合格したという。


 このエピソードを読んでいて、僕は国吉さんに同情してしまいました。
 それと同時に、人と人との関係っていうのは、不思議なものだな、とも。
閾値」を超えてしまえば、人って、案外「許せてしまう」ものなのだろうか。
 この部分だけを読むと、「自分では何もできない障害者の要求に対して、こんなふうに邪険に扱うなんて、冷たい人だな」と思う人もいるかもしれません。
 でも、夜中、自分だって疲れているのに眠ることもできず、きつくてしょうがない状態のときには、苛立ち、介助している相手に対してネガティブな感情を内心抱くようになるのは、ごく自然なことだと思います。
 現場を体験した人、あるいは、その状況を想像できる人であれば、この国吉さんの気持ちは、理解できるはず。
 ちなみに、このエピソードには「後日談」があるのですが、興味を持たれた方は、ぜひ読んで、確かめてみてください。

 もとはといえば、「日々を切実に、ギリギリのところで生きている人に会ってみたくなった」というのが、私がシカノ邸に足を踏み入れた最初の大きな理由だった。
 重度の障害、そして、死と向き合って生きる人間の、清らかで、崇高なイメージ――。
 そうしたイメージを頭から信じ込んでいたわけではなかったにしろ、今思えば、そこには私なりの「障害者」や「病者」に対する幻想があったのかもしれない、と思う。
 というのも、現実に出会った鹿野という存在は、鹿ボラ(鹿野ボランティア)OBの国吉智宏の言い草ではないが、まさに「『あれしろ、これしろ』のシカノさん」なのである。
「ジュース飲む!」「新聞読む!」「いや尾てい骨イタイわ、体交ぉ!」
「テレビ見る!」「メロン食べる」
「このクスリ苦〜い!」「豚肉イヤだ〜きらーい!」
 鹿野と向き合っている限りにおいて、例えば「死」と厳粛に向き合う”枯れた人間”のイメージは少しも湧かない。代わりに、どこまでも「自分、自分」を強烈に押し出してきて、自らの”欲求充足”と”生命維持”のためにまわりの人間を動かし、世界がまるで鹿野中心に回っているかのような自己中心性の渦に、たちまち私も巻き込まれてしまう。
 こうしたチグハグなところが、鹿野とシカノ邸のおもしろさの一つなのだが、正直、この現実をどう受け止め、どう解釈すればいいものなのか、私としては長らく判断がつかなかったのだ。


 鹿野靖明さんという人は、本当に「剥き出しのひと」なんですよ。
 かなりワガママなことも要求してくるし、感謝の気持ちを周囲に伝えるようなこともほとんどないのです。
 介助者に対して、「先生」のように振る舞うことも少なくありません。
 その一方で、24時間ずっと、誰かに介助されている生活には、プライバシーが全くない。
 食事も排泄も、すべて、他人に見られながらです。
 身体の向きを、ちょっと変えることさえも。
 もし自分が同じような状況に置かれたら、「正気」を保っていられるだろうか……

 それにしても、優秀な女性ボランティアを自分の「秘書」と呼び、新人ボランティアたちには、研修をほどこす「教師」となる。そうやって鹿野は、自分にふりかかる境遇を、すべて能動的に解釈しなおしてゆく。そうしたたぐいまれな”あつかましさ”があった。
 また、講演会や研究会で発表する自分の原稿を「論文」と呼び、自分が取材を受けているこの本のことは、いつも「自伝」と呼んでいた。「どうですか、進んでますか。ぼくの自伝は」という具合である。そのバイタリティに私は、ときに辟易しながらも、たじたじとなっていた。

 鹿野さんは、重い障害を抱えています。
 でも、イメージされがちな「かわいそうな障害者」ではなく、「自分が生きるために、他者に要求することを厭わない、もの言う障害者」なのです。
 僕はこの本を読んでいて、「ご両親や介助者、ボランティアの人たちは、ほんとうによく付き合っていけたよなあ……」なんて感心してしまいました。
 なぜか彼の周りには、いろんな人が集まってきて、介助をしながら、さまざまな影響を受けていくのです。
 周囲の人たちも、みんな「善意のかたまり」ではなくて、それぞれ悩みや満たされない気持ちを抱えていて、それでも、「誰かが介助をしなければ、死んでしまう人」を目の前にすると、逃げ出すこともできない。
 この本を読むと、多くのボランティアたちが、その後の進路にこの体験で得たものを反映させています。


 日本では、この本が単行本で出版された2003年も、そして、現在(2014年)も、「障害者や高齢者は、まず親や兄弟などの『家族』が世話をするべきだ」という考え方が根強く残っています。
 鹿野さんは、そんななかで、病院や施設に入らず、「他人」であるボランティアたちに自分をさらけ出しながら、「自活」する道を選んだのです。
 逆にいえば、鹿野さんのような状態の人を、自分たちだけでサポートし続けている「家族」も、大勢いるということになります。
 そして、いまの日本社会が進んでいる方向性としては「家族が世話をするべき」という傾向が、さらに強まっているのです。
 医療費がかかりすぎているし、病院も施設も一杯一杯ですから。
 鹿野さんたちの「試み」があっても、社会はむしろ、「公的な援助や他者の助けによる自活」から、「家族責任」へと逆行しているように思われます。
 海外では、「施設や病院をつくる半分のお金で、障害者が街で自立した生活がおくれる」という研究結果があるそうなのですが。


 僕はまたここで考えてしまうんですよね。
 鹿野さんひとりであれば、こんなふうにシフトを組んで、「ローテーションを組む」ことは可能かもしれないけれども、もっと多くの障害者たちが、同じような生活を望んだとしたら、それが可能なくらいのボランティア希望者が存在するのだろうか?
 ある意味「有名人」であった鹿野さんでさえ、介助者の確保に苦労している様子が、この本には描かれていますし。
 学生に対するボランティアの義務化とかをすすめていけば、解決できる問題なのだろうか。


 正直、僕はこの本にかかれていることを、自分の中でうまく消化しきれていないのです。
「ワガママな人」のほうがみんなに愛され、報われるのだとしたら、相手に気を遣って、何も言わない人は、損をしているだけなのだろうか?とも思うし、ボランティアの人たちが、こうして自分自身と向き合い、語る言葉を持っていることが、ちょっと羨ましい気もするのです。


 著者は、こう書いています。

 そして、鹿野と向き合った、2年と4ヵ月の日々――。
 さまざまな人々の間を歩きまわり、話を訊き、話を持ち帰り、それらと揉み合い、へし合いするうちに、いつのまにか自然と運ばれ、押し出されるようにして私がたどり着いたのは、とてもシンプルな一つのメッセージだったようにも思うのだ。
 生きるのをあきらめないこと。
 そして、人との関わりをあきらめないこと。

 
 人間は、そんなに立派じゃない。
 でも、そんなに酷いものでもない。


「わからない」のが、たぶん、本当なんだよね。
 それでも、手を腫らしながらドアをノックし続けるのが、生きるってことなのかな。

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