- 作者: 椎名誠
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2013/07/17
- メディア: 新書
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内容(「BOOK」データベースより)
著者は、自身の原点となった様々な“街”に再会する旅に出る。浦安、銀座、熱海、浅草、四万十川、石垣島の白保、銚子、新宿…。日本各地を巡る旅は、これまでの人生に堆積してきた記憶の断層を掘るかのようで、なつかしい風景に心震わせ、感無量となることもあれば、思いがけず困惑し落胆することもあった。作家の原点となった街やいまだ昭和の空気をまとう町など、現在の風景を入り口に記憶をたどる。
椎名誠さんが、記憶に残っている、さまざまな場所を再訪し、その現在の風景と過去の記憶についてしみじみと語る、というエッセイ+写真(椎名さん自身の撮影)をまとめたものです(『小説すばる』連載)。
これを読んでいると、1944年生まれの椎名さんの「年輪」みたいなものと同時に、あれだけ行動的で、僕にとっての「男らしさの象徴」だった人も「晩年」を迎えているのだなあ、とあらためて感じますし、ちょっとせつなくもなるのです。
そこで、妙に若者に対して物わかりが良い人生の先輩を演じたり、若作りをしたりしないで、これまでに得てきたものと失ったものを率直に振り返ってみせる椎名さんは、やっぱりすごい人だな、とも思うんですけどね。
それにしても、「陰気な子安」さんが10年も前に亡くなられていたり、「タルケン」こと垂見健吾さんが「おじいさん」になっていたりしているのを読むと、その「現実」にしんみりしてしまうんですよね。
この本のなかには、椎名さんの昔の記憶がつまっているのですが、その中に、こんな話が出てきました。
国分寺駅はこのあたりではやはりちょっとしたターミナル駅だからいつも沢山の人で賑わっていたが、久しぶりに訊ねたその駅はかつて栄えていた北口が取り残されたように汚くさびれ、かつてあまり降りる人もいなかった反対側の南口が圧倒的に立派になり、風景に活気があった。栄華は逆転していたのだ。その南口がまだひっそりしていた頃にぼくがよく行っていた古本屋が二軒あった。そのうちの一軒は「国分寺書店」といった。神田の古書店のようにいい本が揃えられていて、とくに民俗学の本が充実していた。店主は白髪をひっつめた初老の婦人で、この人がたいへん怖かった。雨の日に入り口のガラス戸をきちんと閉めなかったり、濡れている傘をいいかげんなところへ置くと「ビシャリ!」というふうに鋭く怒られた。平積みになっている本の上に持っていたバッグを置いたりするとまたもや「ビシャリ!」だ。
あまり怖いので、この店の常連ばかりが店内に数人いるとそれぞれが発信する緊迫感で店内の空気がビリビリしていた。
ぼくがモノカキになったきっかけは、実にこの店のそういうありさまをモチーフにして書いた『さらば国分寺書店のオババ』というエッセイ本がベストセラーになってしまったからだが、書いた当時は書店の固有名詞もそのままで、怖い店主のその怖さを誇張して書いたが、こんな本どうせそんなに売れはしないだろうという予測と、ぼく自身がまだ幼く、あらかじめモデルとして書くのをことわっておく、というような知恵がなかったからだ。
あとになって思うに、その店主が客の心ない行動に対して怒ることはすべてまっとうで、礼儀のない学生などはこの店主の叱責によってかなりしっかりと社会のルールを学んでいたのだ。店主の白髪の婦人は津田塾大出の博識なインテリである、ということもあとで知った。
その『さらば国分寺書店のオババ』が世に出たのは1979年。
もう、35年くらい前になるんですね。
ちなみに「国分寺書店」は、「とうのむかしに閉店している」そうです。
「いまから考えると、あの店主の怒りはまっとうなものだった」と椎名さんはここで書かれており、その店主を茶化すようなエッセイで世に出てしまったことに対して、若干のほろ苦さを感じておられるのかもしれません。
しかしながら、その『さらば国分寺書店のオババ』は、その文体が「昭和軽薄体」なんて呼ばれたりもして、あの時代以降のエッセイに、大きな影響を与えてもいるのです。
店主の怒りを茶化してしまうような「若さ」(失礼な言葉を使えば「幼さ」)こそが、あの歴史的なエッセイを生んだのも事実で、もし、椎名さんが当時から「礼儀作法に厳しい、立派なオトナ」だったら、あの斬新なエッセイにはならなかったはずです。
すばらしい作品を生むのは「常識的な感覚」や「気配り」ではなくて、「勢い」や「怖いもの知らずの傲慢さ」なのかもしれないな、と、これを読みながら僕は考えてしまいました。
すっかり賑わいを失ってしまった熱海や、中野ブロードウェイ再訪など、関東近辺のことはよくわからない僕にとっても「自分の父親世代がどういう旅行をして、どんなふうに仲間を酒を飲んでいたのか」なんてことも教わった気分になったんですよね。
また、神保町の古書店街を探訪した回には、こんなことが書かれていました。
取材などで地方のわりあい大きな商店街を歩くと、ブックオフに代表される、いわゆる「新古書店」のたぐいばかりが目につくようになり、本物の古書店はやはり地方でも急速に減少している。新古書店は、新、というだけあってカラフルな外装に派手な店内装飾ながら、置いてある本はマンガや軽い流行もの本、若者向けの関連グッズなどで、これまでの日本の書店のいわゆる「紙臭い」イメージとはほど遠い。
そういう店しか見ないで育った若者がやがて都会に来て、本格的な大きな書店や神保町の本当の古書店を見たとき、自分の故郷の書店文化との「はっきりとした差」にはじめて気がつくことになるのだろうか。
古書とはこういうものだったのか。
新刊書とはまったく違う、荘重で重い空気。シンと静まりかえった店内の空気。熱心に書棚の前で分厚い本を読みふける大人たち。落ち着いた知の宝庫。
彼らの故郷にはない風景がそこにあることを知り、本の深さのようなものにはじめて気がつき、本にのめり込んでいく、というような若者がどれくらいいるのだろうか。
若い頃に本当の本に馴染めないまま来てしまった若者が、そういう風景を見て「読書人」という大人の文化や趣味に没入していくかどうか、今は店舗、客側、どちらも先が見えなくなってしまっている時代のような気がする。
この話、「なるほどなあ」と思ったのと同時に、ずっと地方都市に住んでいて、神保町のような「古書店街」に縁がなかった僕にとっては、いまひとつ実感がわかなくもあるのです。
そりゃ「ブックオフ」と「専門書を集めた古書店」は違うのかもしれないけれど、どちらも「本」を売っていることには違いないだろうし、「ポピュラー=無価値」と決めつけられると、正直、ブックオフやAmazonの味方をしたくもなるんですよね。
いや、僕だって、たとえば博多の大型書店に行くと、難しい専門書の前にも必ずといっていいほどお客さんがいるのを見て、「文化の裾野の違い」みたいなものを痛感することもあるんですけど。
東京のすごさというのは、古書店街のすごさというより、そういう古書店を愛する人の層の厚さなのかな、とも思います。
彼らがつくりだす「濃密な空気」は、いまのところAmazonにも再現できません。
その一方で、「紙の本を読むなんて、インテリか物好き」なんて時代が、迫ってきている可能性もあります。
30〜40年前の東京の風景、あるいは、椎名誠さんという人の生きざまに興味がある人にとっては、懐かしさとせつなさに満ち溢れた読書体験になると思います。
椎名さんを知らない人にとっては、「何この昔話ばかりしているオッサン……」って感じなのかもしれないけれど。