琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

【読書感想】世界の読者に伝えるということ ☆☆☆


世界の読者に伝えるということ (講談社現代新書)

世界の読者に伝えるということ (講談社現代新書)


Kindle版もあります。

内容紹介
日本文化が世界で人気があると聞くとうれしい。コンテンツ輸出も重要だ。ただ、日本文化の発信にあたって、いま求められているのは、「日本発の文化を、日本以外の世界の読者の視点から見てみる」ことではないだろうか?
アメリカで森鴎外を学び、大学で教えた経験も持つ著者が、文学と批評を例にして、比較文学と地域研究というふたつのアプローチを通して考える。


 「クールジャパン」なんて言葉が、僕の周囲でもけっこう認知されてきていますし、「日本発のアニメやマンガ、村上春樹をはじめとする文学作品」を愛好している外国人も少なからずいるようです。
 この新書の冒頭で、著者は、こう書いています。

 本書のテーマは、「日本発の文化を世界の読者の視点から見る」ことである。


 著者は長年海外に在住し、アメリカで日本の近代文学と英文学を研究してきたそうです。

 しかし、アメリカに長年住んでいて、また、最近ドイツに一年滞在して、そのような日本からの「発信」を外から見ていると、その情熱や努力にもかかわらず、期待したほどに成果があがっていないのではないか、と感じることがしばしばあった。日本では「日本文化を海外に発信した成果」と大々的にメディアで伝えられていることが、現地の視点から見たらそれほどインパクトがなかった、ということを間近に見ることもあった。
 そのいっぽうで、日本では知られていなくても現地で受け入れられている文化紹介のプログラムに出会うことも、少なからずあった。たとえば、ドイツに住んでいたときに、日本文化のイベントで人気があったのは、日本人の落語家によるドイツ語の落語公演や、日本のサイレント映画活動弁士の説明で見せる上映会などだった。このような企画が海外で行われているということは、日本ではあまり知られていないのではないだろうか。


 日本にいて知ることができる「海外でもてはやされている日本文化」と、実際に海外の人が体感している「日本初の文化の浸透」というのは、必ずしも一致しないのかもしれません。
 どうしても、メディアで採り上げられやすいのは、「見た目のインパクトがあるもの、話題になりそうなもの」でしょうし。


 著者は、日本人でありながら(という表現は不適切なのかもしれませんが)、森鴎外をはじめとする日本文学をアメリカで研究しています。
 僕の感覚では、資料の集めやすさとか、せっかく「母語(日本語)で読めるというアドバンテージがあるのに、なぜアメリカで、英語を介して研究するのだろう?」と疑問になったんですよね。
 それに対して、著者は、こう語っています。

 海外の日本文学研究は、おおむね日本文学について詳しくない読者を想定して、彼らにも読んで理解できるように書かれている。
 自分の経験を振り返ってみて思うが、そうした読者に向けて語ることにより、「なぜ日本文学を読むか」「日本文学にはどんな普遍的な価値があるか。また、日本文学を読むことで、どんな普遍的な問題を考えることができるか」「外国語で読む読者にどう語るか」という問いがより切実なものとして浮かび上がってくる。
 これは、先に述べた、海外の大学で日本文学の研究をするとき、「なぜこの作家を研究するか」説明を求められる、という話と重なる。
 それは、たんに日本について知らない読者に説明するということではなく、日本文学が日本を離れてどれだけの価値をもつか、という本質的な問いを含んでいる。海外の日本研究は、その問いに向き合い、説得力のある説明を与えようとしてきたのだ。
 そのような読者の問いにきちんと応える日本文学研究が「世界の読者にひらかれている」研究といえるのだろうと思う。
 国内の日本文学研究では、自分たちの研究が、日本とはかかわりのない「世界の読者」にどのような意味を持ちうるかということを議論することはまだまだ少ないと思う。
 そして、「日本文学は、オリジナルの日本語で研究するのが理想的だ」というのがおおかたの考えかただろう。
 しかし、「海外で、翻訳で日本文学を読み、研究する」ことにも、独自の意義があるのではないかと思う。
 どっちがよい、ということではない。


 作品が書かれた背景や、当時の作者が置かれた状況などについて研究し、明らかにしていくという研究もあるけれども、書かれた作品が、世界にどう広まって、どう読まれているのか、そして読者に、どんな影響を与えたのかを考えていく研究もある、ということなんですよね。
 前者の「作品そのものを分析していく」というのが文学研究が一般的だったのですが、近年では、背景にこだわるよりも、後者の「作品の読まれかた」が研究されることが増えてきているようです。
 そして、「翻訳よりもオリジナルの言語重視」という考え方も、揺らいできているようなのです。
 この新書のなかでは「日本初の世界的な作品」として、村上春樹さんのこんな話が紹介されています。

 また、翻訳出版にあたっての編集で非常に興味深いのが、長篇小説『ねじまき鳥クロニクル』のケースだ。
 この長篇小説は、日本語版ではBOOK1・2が1994年にまず出版され、BOOK3が1995年に出版されたのに対し、英訳版はBOOK1〜3が一冊の小説として1997年に出版された。
 日本語版ではBOOK1・2が出版された時点では、BOOK3が出版されるかどうかはまだ明かされておらず、BOOK2の最後には小説のエンディングとも読める場面がある。いっぽう、英語版では、BOOK3までが一つの作品として同時に出版されたため、そうしたあいまいさはない。
 その結果、英語版では、BOOK2の最後の場面が削除されたり、章の順序が大きく変更されたりと、かなり大胆な編集がされたことが知られている。このことは著者本人も認めており、翻訳者や英語版の編集者が著者と連絡をとりながらおこなった公認の変更だとされている。
 こうしたことは、オリジナルを重視する考えかたでは「原作に忠実ではない翻訳」「構成の改変」などと否定的な評価を与えられてしまうだろう。
 しかし、オリジナルからの改変をネガティブにとらえる考えかたは、翻訳出版の評価基準を、オリジナルを忠実に再現することのみに置くことに注目しているといってよい。
 村上春樹の作品は、翻訳で広く読まれることにより、春樹が日本語で行っている文学の実験の意図が伝わり、そのオリジナリティが英語圏に広く知られることになった。その意味では、その翻訳された作品の一部がオリジナルから離れたものだとしても、その改変を肯定的にとらえることもできるのではないだろうか。
 さらに、春樹の場合は、ここ数年のすべての新作長篇は、日本で出版後、二、三年のうちに英訳が出版されている。発行部数も非常に多い。日本語のテクストよりも、英訳テクストの方が読者が多いという状況が存在しうるのだ。
 このような状況で、春樹作品の英語テクストは、「日本語オリジナル」の下に位置する「英訳版」ではなく、「日本語版」と同等の価値をもつ「英語版」といってもいいのではないだろうか。


 村上春樹さん自身は、柴田元幸さんとの翻訳についての対談を読んでいると、基本的には「オリジナルを忠実に再現するべき派」のようなんですよね。
 にもかかわらず、自分の作品の英訳版に関しては、「改変」を認めています。
 アメリカでも、日本と同じように「1」「2」「3」が分冊されていれば、同じになったのかもしれませんが、こういうのは、各国の出版事情というのもありますし。
 村上さんとしては、結局、「読者に不自然さを感じさせないこと」を重視したともとれますし、それだけ、英語で読む人のことを意識した、とも言えそうです。
 改変できたのも、作者が翻訳者としっかり意見交換できたからこそ、でもあるでしょう。
 そして、英語で読む人のほうが多い場合でも、「それは『翻訳』だからと、オリジナルよりも下に見る」のが正しいのかどうか、というのは、なかなか興味深い問題です。
 文学の翻訳だけでなく、ネットを通じて、世界中で日本初のアニメが見られているというのは、それが「日本文化」だからというよりは「日本発で、世界に通じる普遍的な『何か』を持っているもの」だということなのです。


 著者は「日本文化論」について、こんな見方があることを紹介しています。

 特に、ハルミ・ベフは、日本国内の論壇やアメリカの日本研究での日本文化論の読まれかたに注目し、どちらでも日本文化論が「イデオロギー」として機能していると批判している。
 日本人自身が日本文化論を語るときに、日本人や日本文化が特殊だという議論の裏に、「自分たちが特別だ」という日本人のナショナリズムがある。また、それが「だから日本文化は日本人にしかわからない」と、他国の人々には日本文化を学ぶ門戸を閉じてしまう、排除の論理に簡単にすり替わるのではないか、というのだ。
 たとえば「日本社会は集団主義である」という日本文化の見かたがある。それが正しいかどうかは、学問的に検証すればよい。しかし、日本人自身が、自分たちの社会は(良くも悪くも)「集団主義」で、そのような社会は世界では珍しい、と言うとき、そこには、日本人が自らを世界で特別な存在と見たいという欲望、そして国際化が進む時代の自らのアイデンティティへの不安が表れているのではないか。さらに、そのような書籍が、日本国内で大量に消費されるとき、それはイデオロギーとしての機能ももってくるというのだ。
 海外の日本研究でも、日本文化を特殊なものとして研究することが、みずからの「地域研究」としての存在の裏付けとなったのだ。
 

(中略)


 海外の日本研究者が「日本文化論」を批判する。その背後には、「日本人にしか日本文化はわからないのか」という、外国の研究者が日本文化を学ぶときに直面する、微妙な問題が隠れているように思う。


 日本は「特別な国」なのか?
 僕は日本人なので、もちろん、僕にとって日本というのは特別な国なのですが、「他国からみて、どうなのか?」というのは、ちょっと実感できないんですよね。
 日本人は「日本人論」が好きだと言われますし、とくに外国人による「日本人論」には過剰なくらい興味を示すことが多いのですが、その一方で、「やはり日本は特別な国で、外国人には『本当の日本』はわからない」というような気持ちは、たしかに内包されているような気がします。
 こういう「文化的な差異」が、イデオロギーに結びつけられてしまっていることって、たしかに、少なくないよなあ、と。
 もしかしたら、外からみれば、日本人というのは、自身が思っているほど「特別」ではないのかもしれません。



 この新書の後半については、ちょっと専門的な内容でもあり、僕はいまひとつ理解できませんでしたし、あまり面白いとも思えませんでした。
 でも、村上春樹さん絡みの考察の部分だけでも、ファンにとっては、なかなか興味深いものはありますよ。


『かえるくん、東京を救う』の翻訳者が「かえるくん」の「くん」のニュアンスを英語にするのに苦労したという話などは、なんのかんの言っても、翻訳というのは難しいものだよなあ、と考えずにはいられませんでしたし。

アクセスカウンター