琥珀色の戯言

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【読書感想】殉愛 ☆☆☆


殉愛

殉愛

内容紹介
誰も知らなかった、やしきたかじん最後の741日。


2014年1月3日、ひとりの歌手が食道がんで亡くなった。
「関西の視聴率王」やしきたかじん
ベールに包まれた2年間の闘病生活には、
その看病に人生のすべてを捧げた、かけがえのない女性がいた。
夜ごとに訪れる幻覚と、死の淵を彷徨った合併症の苦しみ。
奇跡の番組復帰の喜びと、直後に知らされた再発の絶望。
そして、いまわの際で振り絞るように発した、最後の言葉とは――。
この物語は、愛を知らなかった男が、本当の愛を知る物語である。
永遠の0』『海賊とよばれた男』の百田尚樹が、
故人の遺志を継いで記す、かつてない純愛ノンフィクション。


 「関西の視聴率王」と呼ばれた、やしきたかじんさんの「最愛の妻」との闘病記。
 発売日に『金スマ』で大きく採り上げられたこともあり、かなり売れているようです。
 僕も「百田尚樹さんって、完全フィクションの小説はあんまり面白くないけど、ノンフィクション成分が多いときには良作の割合が高いから、これは大丈夫じゃないかな」と思い、早い時期に購入したのです。


 ところが、『金スマ』放送後、たかじんさんに献身的な看護をした奥様、さくらさんの「過去」が、容赦なく掘り起こされ、Amazonレビューは大炎上(ちなみにこちらがそのAmazonレビュー)。


参考リンク:百田尚樹氏「殉愛」のウソに酷評 やしきたかじんの妻をなぜ庇った? (ライブドアニュース)


 それに対して、百田さんが「何も知らない連中が、たかじんさんの奥さんを叩くなんて許せん!」とTwitterで反撃の狼煙をあげ、大乱戦になってしまっています。

 大きく報道されたのは、2013年の12月、二人が秋に入籍していたというニュースだ。たかじんは過去二度の結婚生活の失敗から、「もう結婚はしない」と言っていただけに、このニュースは彼を知る関係者たちを驚かせた。ただ新妻の情報は氏名も含めてほとんど出なかった。
 彼女の情報がどっと出てきたのは、やしきたかじんが亡くなったあとだ。「たかじんの遺産が目当てで近づいた」「たかじんは騙されて結婚させられた」「末期がんで正常な判断力を失っているたかじんを自由に操っていた」……などなど。また「悪女」「女帝」と書いた週刊誌もあった。
 そうした報道は日増しにヒートアップした。「未亡人はたかじんの死を誰にも知らせなかった」「遺産を独り占めして、娘にも渡さない」「たかじんの個人会社を自分のものにし、永年たかじんに仕えたマネージャーを追い出した」という記事が週刊誌を賑わせた。やしきたかじんの遺産はかなりのものだろうといわれていただけに、世間の好奇心と関心が集まった。


 僕はこの本を最後まで読んでみて、なんだかものすごくモヤモヤしています。
 そもそも、この本の執筆の経緯も、やしきたかじんさんとほとんど面識がなかった百田尚樹さんのところに「お別れの会」で、さくらさんがやってきて、「たかじんは百田さんのことをすごく評価していました」「一緒に本を出したいというようなことを言っていました」と口説きはじめ、看病の際のさまざまなエピソードや記録したものを提供し、それらの資料と関係者への取材で、百田さんはこの本を書き上げたのです。
 ギッチリと詰まったスケジュールを、半年間強引に空けて執筆して。


 いくら、たかじんさんが病床で褒めていたとはいえ、ほとんど面識もない人にいきなりこんなことを頼むのだろうか? 
 でも、百田さんは今をときめく人気作家だし、『海賊とよばれた男』に、たかじんさんが感動していた、というエピソードも紹介されているしなあ……

 もっとも、それほど真剣に知りたいと思ったわけではない。男と女なんて、所詮は相性だ。他人が聞いても本質的なところはわからない。ましてたかじんにとっては、ガンに蝕まれた自分を看病してくれた女性だ。大きな感謝が愛に上乗せされたとしても不思議はない。
 未亡人は二年間の闘病生活を淡々と語った。こういう話は聞くほうにとっては決して楽しいものではない。だから私も最初はそれほど身を入れては聞かなかったし、適当なところで切り上げて帰ろうと思っていた。
 ところが、気が付けばあっという間に三時間が過ぎていた。話を聞き終えたとき、私は本を出したいという気持ちに駆られていた。それは「たかじんの物語」ではなく、彼の妻である「さくらの物語」だった。


 この本「さくらの物語」として読むと、それなりに納得できるのです。
 逆に言えば、「たかじんの物語」として読むと「こういうことを書かれるのを、故人は望んでいたのだろうか……」と思うところもあるのです。


 Amazonでは、「ウソばっかり!」というレビューが目立つのですが、実際に読んでみると、たかじんさんのテレビ界での関係者や治療を担当した医療関係者の多くが、取材を受け、実名でコメントをしています。

 看護師長の竹中陽子は私にこう語った。
「単に、頑張るだけじゃなくて、勉強量がすごい。自分でも調べるし、医師やナースたちの勉強会にも参加する。最初は、すぐに音を上げるんじゃないかと思っていましたが、最後まで頑張り抜いたのは、本当にすごい」

 これらの人々が、全員、社会的な信用を失ってまでウソをつき、さくらさんを「聖女化」しようとしているとも思えないんですよね。
 たかじんさんの晩年の闘病生活を、さくらさんが献身的に支えていたのは事実なのでしょう。

 鶴間(医師)はたかじんの印象を私にこう語った。
「芯の強い人だが、一方で非常に繊細でナーバスな人というイメージです。強がっている感じがあったが、常に不安を抱えていて、信頼関係を築くのに時間がかかると思いました。対応の難しい患者さんという印象です」
 たかじんに接した多くの医師や看護師の彼に対する印象は共通している。「芯が強い」「我慢強い」という一面と、「ナーバス」「精神面が弱い」という反対の一面を持つというのが、彼らの一致した意見だった。


 ただ、僕はこの作品が「ノンフィクション」と銘打たれながら、あまりにも「さくらさんの視点」で書かれていることが、不快でもあったんですよ。


 この本のなかで、百田さんは、たかじんさんのマネージャーであったKさんとUさん。そして、実の娘であるHさんの行状を、かなり厳しく糾弾しています。
(正確には、彼らを糾弾する、さくらさんの言葉を紹介しています。百田さんは、さくらさんの身内や医療関係者へのコメントについて、彼らを擁護したり、立場を慮っているところもあります)
 僕は、彼らの悪口が書かれているところを読むのが、すごくイヤだった。
 彼らが「正しい人間」なのかどうかはわからないし、僕にはそれを知る手段もない。
 でも、実の娘さんが、たかじんさんにカネの無心ばかりして、身体の心配もせず、最悪の親子関係だった、というような話が挿入されるたびに、僕は考えこんでしまうのです。


 たかじんさんは、さくらさんと出会う前、若い頃に2回の離婚歴があり、いずれも結婚生活は長続きしなかったそうです。
 「自分は女性とずっと一緒にいられない性分だ」と仰っていたのだとか。
 それはそれで、ひとつの「人生観」ではあります。慰謝料・養育費もきちんと出していたそうです。
 そういう男だって、いると思う。
 でもさ、それって、娘さんからすれば、たかじんさんは「妻と娘である自分を捨てて、その後も好き勝手やってスターとしてチヤホヤされている男」に見えるんじゃないかな。
 いくらお金を援助してくれていたとしても、そんな「父親」に好感だけを持てというほうが、無理なんじゃなかろうか。
 「複雑な関係」になってしまうのは当然、という気がします。


 それは、たかじんさんとの長いつきあいだったマネージャーたちにもいえることです。
 そんなに有能なビジネスマン、という感じではないKさん、Uさんですが、さくらさんとの出会いまでは、たかじんさんの活動を支えていた人たち、なんですよね。
 それが、突然入り込んできた若い女性が、「妻」として、すべてを取り仕切って、あれこれ指図するようになったら、そりゃ面白くはないだろうな、と。


 百田さんは、ノンフィクションを書くには、あまりにも白黒をつけたがりすぎているのではないか?
 さくらさんの献身的な看病やたかじんさんとの生活を描くのに、なぜ、ここまで執拗に「敵味方」を分けて書かなければならないのか? 
 そもそも、娘さんやKさん、Uさんにも取材すべきではなかったのか?


 これは裁判のための供述書ではありませんから、「さくらさんからみた世界」が書かれていることを、責めるべきではないのかもしれないけれど。

 相原はこう言った。
「柔和な雰囲気になっていました。病気のせいで、気が弱くなっていたせいもあるかもしれないけど、それよりもさくらちゃんといることで性格が変わったような気がします」
 相原は実はもうひとつ別のことにも驚いていた。
「師匠は前の嫁さんや女をハワイに連れてきたときは、必ずホテルに泊まらせて、コンドミニアムには自分一人で寝るんです。女とずっと一緒におるのが嫌な人だったんです。それがさくらちゃんとは、どこへ行くにもずっと一緒なんで、びっくりしました。

 人生の最晩年に、さくらさんのような献身的に尽くしてくれる伴侶に出会えたことは、たしかに、たかじんさんにとっては幸運だったのです。
 「遺産目当て」なんて言うけどさ、本当に遺産だけが目当てだったら、出会ったばかりのがん患者、しかも、きつい治療や幻覚妄想まで出て、看護者が一睡もできないような患者の看護をちゃんとやれるのだろうか。
 ただ、食道がんの闘病中のたかじんさんは、精神的に弱っていたのも事実で、看護者に依存しやすい状況ではあったのでしょう。
 それを「病気につけこんで、あの女が入り込んできた」と感じる人がいるのも、おかしくはない。
 たかじんさんの60年以上の人生、まあ、それをずっと共にしてきた人はいないとしても、数十年来苦楽を共にしてきた人たちは、「2年くらいしか付き合いのない女が、全部もっていってしまう」ことに「なんだかなあ」とは思うだろうなあ。


 これって、「淀君が語る、豊臣秀吉」みたいなものなのかな、と。
 晩年の、すっかり淀君の虜になり、子煩悩で猜疑心と野心ばかり強くなった秀吉を語って「これが豊臣秀吉だ!」と言われたら、そりゃ、正妻・ねねや前田利家加藤清正は「お前の知っている範囲だけで、『豊臣秀吉』という人間のすべてを知っているように語るな!」と怒るはずです。


 ちなみに、看病に関しては、僕がこれまでみてきた印象(あくまでも「印象」です)では、


家族の看護の献身度=患者さんへの愛情×看護者の性格×看護者の経済的・肉体的な余裕


という公式が成り立つのではないかと考えています。
 

 どんな人でも、患者さんへの愛情がなければ献身的な看護なんてできないし、几帳面な人、完璧主義的な性格の人は、患者のためにとどまらず、自分を納得させるために、自分自身をも壊してしまうような看病を選択することがあります。そして、いくら「やる気」があっても、看病する家族が高齢だったり、持病があったり、経済的に苦しかったりすれば、限界がある。


 そういう意味では、さくらさんの「献身的な看護」は称賛されるべきであるけれども、世の中には、そこまでできない人のほうが多いし、できない人たちのほうが、むしろ「普通」であるわけです。
 聖路加病院の特別室に入れるような人、お金に糸目をつけずに、新しい器具の導入を病院に頼める人のほうが、世の中では少数派なのだから。


 この本に書かれていることが事実ならば、さくらさんは、実父が病気になって手術を受けることになっても、たかじんさんのことが心配ということで実家に顔をみせることもなく、長年かわいがっていた犬を引き取りにイタリアに行くこともなく、自身の突発性難聴の治療も「たかじんさんの看病のため」に中止しています。


 いやちょっと待ってくれ。
 これって、向こう側からみれば、「ひどい娘」だし、「ひどい飼い主」だし、「無謀な患者」じゃないのか?
こんな「ブラック看病」を「美談」にしてしまって良いのか?
 たかじんさんの娘さんが「ひどい」のなら、酷い仕打ちをされたわけでもないのに、父親を放ったらかしにして、Facebookのオフ会で出会った30歳も年上の男の世話ばかりしていて、病気の父親のところに顔すら出さないさくらさんも、同じくらい「ひどい」んじゃない?


……すみません。僕もつい「誰かを責める」ことによって、自分の優越感を満たそうとしてしまいました。



 率直に言うと、この本に書かれていることって、「感動のエピソード」というより、「僕には関わりのない世界で起こっている話」であり、「大金持ちの老人が、晩年に若い女性にハマって周囲を困惑させ、遺産で揉める」という、人類的には「ありがち」だとしか言いようがない出来事なんですよ。
 そして、やしきたかじんという人に、そんなに思い入れがない僕にとっては、どっちが正しくても、どうでもいい話でもあります。
 というか、こういうことって、あるんだろうな、と。ただそれだけです。


 うーむ、この物語へのモヤモヤ感って、さくらさんが、あまりにも「きれいすぎる」ことにもあるんだよなあ。
 『永遠の0』の宮部少尉(こちらは架空の人物ですが)みたいに、あまりにも美化されすぎている感じがするのです。
 本当に、こんな人がいるのだろうか?


 ……というところに、例の「さくらさんとイタリア人男性との結婚歴疑惑」ですからね。
 きれいに描かれているだけに、そのギャップに「何それ!」って言いたくなる気持ちはわかる、というか僕もそう思う。
 百田さんは「過去を詮索するのは間違っている」と仰っているけれど、過去を徹底的に詮索するのが「ノンフィクション」というジャンルなわけで、「自分が書きたいことに合わない事実は、無かったことにしてしまう」っていうのは、それこそ、百田さんが激怒されていた朝日新聞の「従軍慰安婦報道」と同じなのでは……


 正直、「読んでいくら考えても、事実はわからないし、わかってもどうしようもないな」という作品です。
 郷ひろみさんの『ダディ』と同じ、「瞬間的にものすごく売れて、売れた冊数のわりには、あとで顧みられることが少ない本」になりそう。
 かなり売れていることもあり、発売から何か月かすれば、ブックオフで100円均一本として積み上げられているんじゃないかな。


 さくらさんは、悪い人ではないと思う。
 でも、さくらさんや百田さんの「他人にこうみられたいという願望」に、お金を払って付き合う必要もありません。
 ただ、こういう本が出た背景には、マスコミなどでの(おそらく)事実無根、あるいは過剰に脚色された「さくらさんバッシング」があったことも、忘れてはならないとは思うんですけどね。


 火葬場での、さくらさんの言動として『週刊文春』には、こう書かれていたそうです。

「彼女は遺骨を見るや、へらへら笑って『うわあ〜、焼き上がったマカロンみた〜い』と言い放ったそうなのです。これには参列者全員が〓然としたそうですよ(たかじんさんの親友)」
 これは真っ赤な嘘である。
「へらへら笑うなんてありえない! さくらちゃんはずっと泣いていた。遺骨が出てきたときは、ぼくの左後ろにいて、『かわいそう』と言ったんです。だいたい、たかじんさんの親友なんて書かれたら、ぼくしかいない。訴えたいくらいですよ」
 記者の捏造でないとしたら、彼はこんな証言を誰から聞いたのだろうか。記事全体の「さくら」(記事中では「S夫人」となっている)像は、かなりひどい。露骨に悪意に満ちている。また、「彼女自身の口から『私は韓国人だ』ということを聞いたことがあります」という記述もある。前にも書いたように、彼女は日本国籍である。また「密葬」なんてたかじんの意思ではないはずだ、という内容の北新地のママの証言というものまで載せていた。


本当に、読んでいると、何が正しいのか、わからなくなってきます。
いくらなんでも、「マカロンみた〜い」は、無いと思う、いや、思いたい。



ゆめいらんかね やしきたかじん伝

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