あらすじ
名古屋の女子高に通うお気楽女子高生のさやか(有村架純)は全く勉強せず、毎日友人たちと遊んで暮らしていた。今の状態では大学への内部進学すらままならないと案じた母は、さやかに塾に通うよう言いつける。彼女は金髪パーマにピアス、厚化粧にミニスカートのへそ出しルックで渋々入塾面接に行き、教師の坪田と出会う。
2015年12作目。
金曜日のレイトショーで観ました。
観客は老若男女15人くらい。中年女性が4人で来ていて、ものすごく楽しそうに観ていたのが印象的でした。
映画館で予告編を観た時点では、「なんかチャラチャラした『感動ストーリー』に、有村架純さんを「金髪女子高生」に起用して話題づくりを狙ったあざとい映画」だと思っていました。
「絶対に映画館では観ない映画」に頭の中で分類していたのだけれど、あまりにもネットでの評判が良くて、気になってしょうがなかったので観賞。
まあ、有村さんを観られるだけでも眼福か、というくらいの気持ちで。
ところが、期待値が低かったのも幸いしたのか、とても面白くて得した気分になる作品だったのです。
ギャル風の服装から、制服姿、入浴シーンなどの有村さん(華奢そうにみえるけど、けっこうスタイルも悪くないのだな、と思うような場面もあり)、塾の坪田先生役が、伊藤淳史さん。
僕は伊藤淳史さんをみると、つい、「おお、『電車男』、元気にやってるみたいでよかった!」と思ってしまうのです。
役者さんというのは、自分がその人を知ったときの役と、どうしてもリンクしてしまいがち。
この映画、本当に「キャスティングの妙」が光っています。
有村さんの「ビリギャル」は、金髪なんだけど、キツい感じじゃなくて(僕はなんだかいつも少しだけゆるんでいるような有村さんの口元がけっこう好きなんです)、「ヤンキーアレルギー」の僕にも好感が持てるくらいのキャラクターでしたし、伊藤淳史さんの坪田先生は、伊藤さん自身の「ちょっと不器用だけど誠実」なイメージに、すごく合っていて。
原作を書いた坪田先生の実際の仕事ぶりを収めた『情熱大陸』が、映画の公開にあわせて再放送されていたのですけど、いきなり「字がきれい」と生徒を褒め出すところなど、けっこう事実に基づいてつくられているのだな、と。
ただ、『情熱大陸』でみた坪田先生は、「実家が幼稚園で、アメリカで心理学を勉強し、その理論に基づいて、生徒のやる気を引き出し、力を伸ばす」という、ロジカルな面を持った人だったんですよ。
映画では、そういうところ、たとえば、「心理学を利用して」とか、他の先生の講義の様子をビデオで解析してアドバイスする、というような場面は描かれていませんでした。
事実に基づきながらも、観客が「でもちょっと感じ悪いな」と思うような小骨を丁寧にピンセットで抜いた、そんな感動ストーリー、ではあるんですよね。
「ダメな生徒なんかいない、ダメな指導者がいるだけです」
坪田先生の塾に通っている生徒には、学年ビリの経験者が15%もいるそうです。
もちろん、みんなが慶應大学に行けるわけもない。
それでも、『情熱大陸』で、「第5志望にようやく受かった」という男子学生が、楽しそうに「同窓会」に出席していたのを観て、僕はちょっと嬉しくなりました。
坪田先生は、勉強を徹底的に教えることによって、生徒に勉強以外のことも教えているのだな、って。
「勉強が嫌いな子供は大勢いるけれど、自分が成長するのが嫌いな子供はいません」
これも、その『情熱大陸』のなかに、出てきた言葉です。
「ビリギャル」=工藤さやかが、1年間ものすごい努力をしたのに……と落ち込む場面をみて、「いやいやいや、僕の周囲の『受験生』たちは、それこそ中学生くらいから、いろんなものを捨てて、勉強していたんだが……」とか、ちょっと言いたくなったのですが、有村さんがあまりにも可愛いので、野暮なことは言わないことにしました。
ずっと普通にやってきた人よりも、不良が「更生」したほうが「美談」として持ち上げられるのは、やっぱり、なんだか理不尽な気もするのだけれども。
この映画を観終えて考えてみると、主人公のさやかが勉強するようになった「劇的な転機」って、この映画では描かれていないんですよね。原作未読なので、原作に書かれていたのかどうかはわからないけれど。
坪田先生も、生徒たちに「高校時代、学校生活がどうしても合わなくて、交換留学で海外に行っていた」とか、「この塾で働くようになったのは、求人雑誌で見かけて、偶然だった」などと話していました。
なんとなく、だったり、他の選択肢がない、だったり、自分には誇れるものが何もない、というコンプレックスだったり。
人って、ドラマチックなきっかけや固い決意みたいなものがなくても、偶然の出会いや「誰かが褒めてくれること」で、「変わる」ことができるのです。
変わることに、ちゃんとした「理由」とか「きっかけ」を求めてしまうから、変わる機会を逸してしまう。
そして、「できない理由」ばかり、探すようになる。
坪田先生は「『やればできる』には、百害あって一理なし。『やればできる』と言われ続けていると、『やってもできなかった』という結果が出るのが怖くなって、かえって、やろうとしなくなってしまう、と言っていました。
人間はもともと「変わろうとしている生き物」で、変わるための努力をするのではなく、「変わらないように」という抑制を取り除くだけで十分なのかもしれません。
いまの社会って、「どうせダメだよ」って、他人の足を引っ張る人が、あまりに多すぎる。
そして、誰かが本気でがんばると、それが周囲の人を変える、ということもあるのだなあ、と。
さやかのために、お母さんが働き詰めで学費を稼ぐ場面があるのです。
そんなふうに「子供のために、自分の時間や趣味を犠牲にする」べきなのだろうか?
僕には正解は出せないかもしれない。
でも、そうやって娘を応援しているお母さんは、すごく良い表情をしていたのです。
こんなふうに「すべてが丸く収まる」なんてことはないのが人生なのかもしれないけれど、「勉強する」っていうのは、たぶん、もっとも間口が広くて、成功の可能性が高い「つまらない人生を変える手段」なんですよね。
ビリギャルとお母さんが慶應大学の学食でカレーライスを食べながら、「ここにいる人たちは、みんな自信に満ちた顔をしてる。こんなところで勉強できたら、人生を変えられる」と話していました。
僕はなんとなく、というか、そうするのが自分にとっては当然のことだと疑いもせずに受験勉強をして大学に入ったのだけれど、大学っていうのは「人生を変えられる場所」なんだよね。
それは、どんなに「グローバル化」がすすんで、「日本の大学なんて、ダメダメ」と有識者たちが呟いてみても、そこを目指す若者たちにとっては、ずっと、そうなのだと思う。
この映画のエンディングがサンボマスターの曲だったので、最後にまた、『電車男』を思い出してしまいました。
たまには、がんばった人が報われる話も、良いんじゃないかな。
勉強で人生が変わることを信じてみるのも、悪くないよ。
低予算でつくられたそうなのですが、最初から最後まで隙がないというか、しっぽまで餡がしっかりつまったタイ焼きみたいな映画でした。
けっしてハリウッド的な超大作ではないけれど、老若男女みんなが気軽に観られて楽しめる、そして、少し「自分もがんばってみようかな」と思える、そんな映画です。良作!