- 作者: 橋本崇載
- 出版社/メーカー: KADOKAWA
- 発売日: 2016/12/10
- メディア: 新書
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- 作者: 橋本崇載
- 出版社/メーカー: KADOKAWA / 角川書店
- 発売日: 2016/12/10
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内容紹介
スマホ不正疑惑をなぜ未然に防ぐことができなかったのか。将棋ソフト、プロなき運営、見て見ぬふりをしてきた将棋ムラ…「憧れの職業どころか食えない職業になる日も近い」という将棋界の実情を現役棋士が明かす。
藤田伸二さんが、引退前に『騎手の一分』という競馬界の内幕(エージェント制度の弊害や危険な騎乗をする騎手など)を書いた新書を上梓されていました。
今回、このタイトルをみて、「橋本崇載さん、引退するつもりなんだろうか……」と心配になったのですが、それは杞憂だったみたいです。
橋本さんは「コンピュータと人間の棋士の対局が行われたこととその経緯」についての疑問や、三浦弘行さんの「カンニング疑惑」について、かなり率直な意見を書いておられます。
また、旧態依然とした将棋界の上層部や中堅〜下位の「なかなか勝てない棋士たち」の現状や将来もかなり心配しておられるようです。
「将棋界は斜陽産業」
たしかに「ただ強い相手と勝負したい」のであれば、今はコンピュータで十分なわけですし。
この時代に、人間の棋士が、ときには2日間もかけて、勝負をする意義があるのか?
将棋界の七大タイトルは維持されているけれど、それは「スポンサーとの昔からの付き合い」の延長みたいなもので、新聞の売りあげに棋戦の報道がそんなに貢献しているとも思えません。
スポンサー料の減額や一般の棋戦の廃止も続いているそうです。
橋本さんの「プロ入り後の戦績」も紹介されているのですが、トップ棋士のひとりである橋本さんでさえ、年間30〜40局なんですね。
この新書、あの三浦九段の「将棋ソフトによるカンニング疑惑」が持ち上がる前に企画され、ほとんど書き上げられていたそうです。
橋本さんは。三浦さんの疑惑と自身について、こんな風に仰っています。
私個人が、この疑惑の原型について聞いたのは、(2016年の)9月に入ったばかりの頃である。このときは「なんかやっている人がいるらしい」ぐらいで、誰がその対象になっているかはまったく知らなかった。
先に述べたように普段は将棋会館にも出入りせず、他の棋士との交流機会は少ないほうなので、私がその噂を耳にしたのは棋士の中でも決して早いほうではなかっただろう。話を聞いたのは奨励会員の青年からだったが、奨励会員とは要するにプロ棋士のタマゴである。そんなところまで話が伝わっていたことから考えても、八月のうちにはすでに棋士のあいだでこの件をなんらかの形で知っていた人は少なくはないだろう。
私が噂の対象が三浦九段であり、竜王戦のトーナメントから疑惑が起きたということを知ったのは十月に入ってからであり、発表がある一週間ほど前のことで複数の棋士から耳にした。その際にはっきりと、ある対局相手がものすごく怒っていたという話も伝え聞いた。
一流棋士は対戦相手のちょっとした動揺も見逃さない。おそらく当事者からすれば「疑惑」ではなく「確信」に近いものがあったのだろう。
あれは大きな事件ではあったけれど、突然起こったものではなくて、いつか、誰かが「そういうこと」をやるのではないか、という懸念はされていたようです(いちおうお断りしておきますが、僕自身には三浦さんが本当にそんなことをやったかどうかはわからない、としか言いようがありません)。
橋本さんによると、将棋連盟からも2015年10月に「電子機器の取り扱いに関する規約」というのが施行されており、対局中の電子機器の私用禁止や疑いを持たれるような長時間の離席は慎むよう通達されていたのです。
ただ、それはあくまでも強制力を持たない「通達」でしかありませんでした。
ところが、2016年の9月、あの事件の前の棋士会で「対局寺の外出禁止」と「金属探知機の導入」の方針が決められたのです。
この新書で、橋本さんは、「コンピュータ将棋と人間の棋士は、どういう関係であるべきか」についての考えを述べています。
2012年、第1回の『電王戦』で、米長邦雄さん(当時の日本将棋連盟会長)がボンクラーズというソフトと対局した経緯について。
結果からいえば、米長会長は完敗した。
米長会長は2003年に現役棋士を引退していたので、プロ棋士がコンピュータ将棋に敗れた最初の対局には当たらない。だが、米長会長の知名度と永世棋聖という称号も得ているほどのキャリアを考えれば、将棋界全体にとっても大きなイメージダウンになったのは間違いない。
このときから「コンピュータはすでに棋士より強くなっているのではないか?」という印象が世間一般でもたれるようになったともいえる。
それとともに私が問いたいのは、どうして米長会長がこの対局を決めて、自分自身が出て行ったのかということだ。
当時の状況や日本将棋連盟の実態を知る人であれば、それが米長会長の私利私欲が先行したものであったことを疑いはしないだろう。
この対局が行われる20日ほど前の2011年12月27日に、米長会長名義で「お知らせ」という通達が出されている。そこにはコンピュータとプロの対局料が1000万円だと明記されており、そのうえでこう続けられていたのだ。
《コンピュータとの対局は今年が第一回。来年以降はプロ棋士もソフトも違う人が対局予定です。
第一回は「米長を指名」という先方の希望がありましたので不肖米長が対局するものです。といっても対局料が1000万円というわけではありません》
この通達を見たあと、私は一人で会長室へと乗り込んでいった。とても黙ってはいられなかったからだ。そこで私は「こうした高額の対局料が出るところに会長自身が出て行くのは道義に反する」と意見をぶつけた。
それに対する米長会長の返答は「私が自分から出て行くと言ったわけではなく向こうの希望だ」「1000万円と書いた対局料にも細かい内訳があり、その全額を私が受け取るわけではない」というものだった。
「正確な金額の問題ではなく、こういう対局にあなたが出て行き、対局料を受け取ること自体がおかしい」と返しても、「それは自分の意志ではない」というところに戻されてしまい、話が先に進まない。
僕が米長さんがこの対局について書かれた本も読んだので、米長さんがこの対局に大きなプレッシャーを感じ、ボンクラーズを研究して勝負に臨んだことも知っています。
自分自身が出馬したことについては、「現役のプロ棋士がいきなり出ていって敗れたらダメージが大きいから、まずは引退した自分が」という思いもあったのでしょう。
でも、こうしてプロ棋士のひとりである橋本さんからみた、「第1回電王戦」は、必ずしも納得がいくものではなかったのです。
現役は引退しているとはいっても、ネームバリューがある米長さんがコンピュータと戦い、敗れたときの世間に与えるインパクトは、確かに大きかった。
これが引退したプロ野球選手とかなら、「まあ、年齢を考えると、しょうがないよね」とみんな思うのでしょうけど、「加齢にともなって将棋の強さを維持するのは難しくなる」というのは、将棋ファンでなければ、実感しにくいと思われます。
そして、「偉い人が、高額報酬の仕事を地位を利用して自分のものにしてしまった」と、同業者として不満なのも、理解はできるのです。
のちに橋本さんにも「電王戦」への出場依頼があり、その時の対局料は「数百万円レベル」だったそうです。
橋本さんは「コンピュータと真剣勝負をして負けたら、将棋界全体に迷惑をかけてしまうから」と、引き受けませんでした。
ところが、第2回の電王戦で、トップ棋士のひとりである三浦弘行さんがコンピュータに敗れてしまってからは、「多くの棋士がコンピュータとの対局を望むようになった」のです。
前回大会ほど大きな責任を背負う必要がなくなったのが理由の一つだ。
それまではコンピュータと対局することが貧乏くじを引くのにも近かったのに、それが一転した。無論強いコンピュータと戦いたい、戦ってプロの矜持を示したいという棋士もいただろう。ただ、それ以上に、多額の対局料を受け取れるうえ、負けて失うものがなくなったというのが大きかった。最初に負けるのにくらべれば、はるかに責任は軽減するからだ。トップ棋士がコンピュータに負けるというのは、それくらい大きな事件だったのだ。
そういうふうに考えると、三浦さんもちょっとかわいそうだよなあ、と思うし、棋士というのも人間で、お金は欲しいし、恥もかきたくないよね、と頷けるところはあるのです。
橋本さんは「人間の棋士がコンピュータと対局するべきではない理由」について、こう仰っています。
しかし、将棋というゲームがもつ可能性は無限ではなく有限である。ボードゲームである以上、真相・真理があるのは絶対だからだ。
それでも、その有限を無限に見せることができる。それまで誰も考えつかなかったような一手を指すことなどがそうだ。苦労を重ねて定跡をつくり、試行錯誤によってそれを塗り替えていく。長い歴史の中でそうした繰り返しがありながらも結論が出ないからこそ奥が深いを感じる人がいて、ゲームの虜になるのだ。
そこに計算機、コンピュータが入ってくれば、そうした魅力がなくなってしまいかねない。このままコンピュータが発達すれば、理論上最も正しいと考えられる定跡が、計算によって「正解」というかたちで示されることにもなるかもしれない。
極端な話、すべての解析が果たされてしまえば、どんな局面においても悩むまでもなく最善手が示されることになる。人間同士で対局するなら、その手順をどこまで記憶しておけるかが問われるだけになる。
お互いにそのすべてを記憶しているとすれば、先手になったほうが100%勝つことにもなりかねない。そうなれば、そのゲームに魅力があるかどうかというよりも、ゲームとして成立しなくなる。
見る価値がなくなり、お金を取れるものでなくなれば、プロ棋士も存在できなくなるのは必然である。
一度、対局禁止令を出したなら、そのままそれを貫いていればよかったのだ。プロ棋士とコンピュータ将棋が交わっていかなかったのであれば、コンピュータの世界で何が解析されようとも関係なかったはずである。
いち将棋ファンである僕としては、その主張に頷けるところもあれば、そうでないところもあります。
人間の棋士がいて、将棋ができるコンピュータがあれば、「どちらが強いのか」勝負させてみたい、というのは、あたりまえのことだと思うんですよね。
いつかはコンピュータが勝つ勝負だ、ということはわかっていたとしても、両者の実力が拮抗しているなかで、人間側が立ち向かっていく姿には、ドラマがある。
これまで、チェスをはじめとして、オセロ、バックギャモンなど、多くのボードゲームの名人がコンピュータと対戦して敗れ、ゲームそのものも解析されていきました。
ボードゲームを好む人というのは、そのゲームの世界を解析することにも興味を持つタイプが多そうですし、コンピュータとの親和性も高いはず。
もちろん、興行としての将棋は「コンピュータに人間が負けると困る」のかもしれないけれど、「どちらが強いのか知りたい」という興味は尽きることはないし、コンピュータと戦うことを拒否し続ける人間の棋士、という構図ができあがった場合、観客としては、そこに「神聖さ」よりも「逃げ腰な姿勢」しか感じないと思うのです。
でも、そう考えていった場合、棋士という仕事は「斜陽産業」であることから逃れられないし、「強さ」だけでは食べていけなくなりそうです。
羽生善治さんのように、現代の「コンピュータにも近づける知の象徴」になれる人は、ごく一握りでしょうし。
正直なところ、橋本さんの主張には、頷けるところもあるし、将棋界の外部の人間である僕からすれば「それは橋本さんのほうが無理筋なんじゃないか」と感じるところもある新書でした。
将棋界の偉い人は「カチンと来る」かもしれませんが、外からみて、将棋界全体にとって革新的な提言だと思うところは、あまりなかったんですよね。
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