- 作者: 菅野完
- 出版社/メーカー: 扶桑社
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内容紹介
「右傾化」の淵源はどこなのか?
「日本会議」とは何なのか?
市民運動が嘲笑の対象にさえなった80年代以降の日本で、めげずに、愚直に、地道に、
そして極めて民主的な、市民運動の王道を歩んできた「一群の人々」がいた。
彼らは地道な運動を通し、「日本会議」をフロント団体として政権に影響を与えるまでに至った。
そして今、彼らの運動が結実し、日本の民主主義は殺されんとしている。――
安倍政権を支える「日本会議」の真の姿とは? 中核にはどのような思想があるのか?
膨大な資料と関係者への取材により明らかになる「日本の保守圧力団体」の真の姿。
安倍政権を支える「日本会議」。
日本を右傾化させ、憲法改正をたくらむ、悪の秘密結社、その正体は……
「日本会議」の関係者から、出版社に「出版停止」を求める申し入れもあったということで、壮大な「秘密結社」が告発されているのではないか、と期待しながら読みました。
「はじめに」のなかで、著者は「日本の右傾化」について、疑念を呈しているのです。
本書執筆時点で直近の衆議院選挙である第47回衆議院総選挙(2014年12月14日施行)では、確かに、自民・公明の連立与党が、議席配分としては圧倒的な勝利を収めた。しかし、得票率を見ると自公連立レ政権=49.54% 野党・無所属合計50.46%と、わずかとはいえ、野党の得票率が上回っている。
ロングスパンで見た世論調査の解析結果はさらに興味深い傾向を示している。
2003年から2014年までの長期間にわたり、政治家と有権者双方に対して実施された大規模世論調査を分析した谷口将紀は、有権者の好む政策争点はここ10年左右にぶれることなくほぼ不変であるにもかかわらず、政治家、とりわけ自由民主党の政治家たちだけが右側に寄り続けているという解析結果にもとづき、「たとえ過去10年間で日本政治が保守化したとしても、それは政治家の右傾化であって、有権者の政策位置が右に寄ったのではない」と指摘している(谷口 2015)。
これらの数字や分析を踏まえると、やはり、「日本の社会全体が、右傾化している」とは言い難い。
社会全体として右傾化したとは言い難いにもかかわらず、政権担当者周辺と路上の跳ねっ返りどもだけが、急速に右傾化している……。これはなんとも不思議だ。
あらためてそう言われてみると、僕の周囲の人たちが、どんどん右傾化している、という印象はありません。
安全保障関連法案についても「積極的に賛成」という人はほとんどいなかったんですよね。
僕の場合は、親しい人でも、政治に関する話はほとんどしないのも事実なのですが。
では、なぜ日本の政権担当者(というか安倍晋三首相)は「右傾化」しているようにみえるのか?
国民にとっては、「触らぬ神に祟りなし」という感じの「安全保障」や「集団的自衛権」に、なぜ、踏み込んでいくのか。
もちろん、現時点での世界唯一の大国・アメリカと、それを追う立場の中国とのパワーバランスへの配慮は不可欠なのでしょうけど。
著者は、いまの日本の中枢にいる政治家たちの多くが所属している「日本会議」に着目しています。
日本会議とは、民間の保守団体であり、同団体のサイトによれば「全国的に草の根ネットワークを持つ国民運動団体」だ。
私が集めたサンプルは、保守論壇人の一部が、これまで「右翼」あるいは「保守」と呼ばれてきた人々と、住む世界も違えば主張内容さえ大幅に違うということを示していた。サンプルから読み取れる彼らの主張内容は、「右翼であり保守だ」と自認する私の目から見ても奇異そのものであり、「保守」や「右翼」の基本的素質に欠けるものと思わざるをえないものばかりであった。
そうした傾向は70年代から徐々に高まり、90年代中頃を境にピークに達し、その後現在に至るまで、そのピークを維持し続けていることを示した。
そしてそうした保守論壇人の共通項が、民間保守団体「日本会議」なのだ。
膨大な出版物から、特定の人物名を探し続けたり、集会に「潜入」したり、関係者に接触して話を聞いたりと、著者は自分自身の頭と身体で、この「日本会議」の歴史と現在について、調べあげていくのです。ある宗教団体とのつながりや絶縁、などについても書いておられます。
マスメディアの一員としてではなく、個人の力で。
こういう話って、池上彰さんが言うところの「公明党と創価学会の関係」みたいなもので、「マスメディアについては、わかりきった常識でもあり、あらためて報道するようなことではない」からなのかもしれませんが、僕もこの「日本会議」のこと、この新書ではじめて知りました。
でも、知れば知るほど、考え込んでしまうのです。
この人たちは、「明治憲法の復活」や「日本の古い家族制度の維持」に、何を求めているのだろう?って。
本当に、そんなことが「いまの日本のためになる」と信じているのだろうか、信じ続けているのだろうか?
構成員も、「70年代の学生運動で、左翼学生へのカウンターとして活動してきた右派学生運動の闘士」の子どもたちが、親に言われて渋々やっている、ような感じなんですよ。
組織としては、そんなに大規模なものではないし、暴力装置を持っているわけでもない。
テロ活動を行うこともない。
著者は、2015年11月に行われたという、日本会議が主導する1万人集会に潜入したときの様子を紹介しています。
そのなかで、「会場の一体感が生まれた瞬間」について、こんなふうに述べているのです。
ケント・ギルバートの発言も、百田尚樹の発言も「9条遵守派」や「朝日新聞」という「なんとなくリベラルっぽい」とされるものを揶揄の対象としている。そしてその発言の瞬間にこそ、国歌斉唱のときと同じ、一体感が生まれた。利害関係の大幅に異なる各教団や団体の連帯感を生むものは、この「国歌斉唱」と「リベラル揶揄」しかないのだ。一昔前に掃いて捨てるほどいた、小林よしのりを読んで何かに目覚めた中学生たちと、大差ない。しかしこの実に幼稚な糾合点が、日本会議事務方の手にかかると、見事に「圧力装置」として機能しだす。
日本会議事務方が行っているのは、「国歌斉唱」と「リベラル揶揄」という極めて幼稚な糾合点を軸に「なんとなく保守っぽい」有象無象の各種教団・各種団体を取りまとめ、「数」として顕在化させ、その「数」を見事にコントロールする管理能力を誇示し、政治に対する圧力に変えていく作業なのだ。
自分たちはこれが正しいと思っている、というよりは、気に食わないリベラルの連中をバカにすることによって、結びついている人々。
もちろん、指導者層はそればかりじゃないのでしょうけど。
とりあえず、数=票になれば、政治家たちは、彼らを無視するわけにはいきません。
著者は、第一次安倍政権が誕生した際、安倍さんは小泉元首相に若くして抜擢されたために党内での支持基盤が弱かったため、「日本会議」くらいの大きさの組織でも重んじられたという「タイミングの妙」についても言及しています。
なるほど、「若すぎる抜擢」には、しがらみが無いというメリットはあるけれど、そういう難しさもあるのか……
「日本会議」は、それなりの「集票組織」ではあるのでしょうが、規模としては、日本医師会とそんなに変わらないのではなかろうか。
にもかかわらず、「日本会議」は、安倍政権の中枢に食い込み(というか、日本会議=安倍政権のようにすらみえます)、その思想を政策に反映しようとしているのです。
ただし、構成員ですら、末端のほうでは、その思想にガチガチに染まっているわけではない。
ある程度「時間稼ぎ」をしていけば、「日本会議」を支えている高齢の理論的指導者たちはリタイアしていって、「時間切れ引き分け」にすることも可能かもしれません。
だからこそ、「日本会議」の側にも、焦りがあるように思われます。
この新書を読んでいると、日本会議の中心メンバーの「愚直さ」みたいなものについて、考えずにはいられなくなります。
彼らは、戦後の日本では、まちがいなくアウトサイダーだったはず。
にもかかわらず、諦めることなく、この国で、「活動」を続けてきたのです。
私には、日本の現状は、民主主義にしっぺ返しを食らわされているように見える。
やったって意味がない、そんなのは子供のやることだ、学生じゃあるまいし……と、日本の社会が寄ってたかってさんざんバカにし、嘲笑し、足蹴にしてきた、デモ・陳情・署名・抗議集会・勉強会といった「民主的な市民運動」をやり続けていたのは、極めて非民主的な思想を持つ人々だったのだ。そして大方の「民主的な市民運動」に対する認識に反し、その運動は確実に効果を生み、安倍政権を支えるまでに成長し、国憲を改変するまでの勢力となった。このままいけば、「民主的な市民運動」は日本の民主主義を殺すだろう。なんたる皮肉。これでは悲喜劇ではないか!
日本会議は、けっして強大でも難攻不落でもない。
日本の政治への影響力の大きさの割に、世の中に知られてもいない。
でも、それを自覚した上での「地道な活動の積み重ね」が、この組織を支えてきたのです。
その結果、日本を、国民の多くが(少なくとも積極的には)望んでいない方向へ、あまり熱心ではない末端の構成員たちの力で、導こうとしています。
そういえば、ヒトラーも「民主的な選挙」で最初は選ばれたのだよなあ。
「当時のドイツほど、今の日本は酷くないだろう」と思いたいけれど、あの時代のドイツ人たちも、最初は「ヒトラーだって、あんまり極端なことはできないよ」って思っていたのかもしれません。