- 作者: 羽生善治,NHKスペシャル取材班
- 出版社/メーカー: NHK出版
- 発売日: 2017/03/08
- メディア: 新書
- この商品を含むブログを見る
内容(「BOOK」データベースより)
二〇一六年三月、人工知能の囲碁プログラム「アルファ碁」が世界ランクの棋士を破った。羽生善治は、その勝利の要因を、「人工知能が、人間と同じ“引き算”の思考を始めた」とする。もはや人間は人工知能に勝てないのか。しかし、そもそも勝たなくてはいけないのか―。天才棋士が人工知能と真正面から向き合い、その核心に迫る、“人工知能本”の決定版。
2016年5月15日に放送されたNHKスペシャル『天使か悪魔か 羽生善治 人工知能を探る』を新書化したものです。
この番組、放映時に観て、すごく面白かったんですよね。
羽生さんという「現代最高の知性」がナビゲーターをつとめていることによって、人工知能の開発者たちも「話ができる相手」に、親しみと敬意をもって取材に応じていたように感じました。
2015年に、NHKスペシャル「天使か悪魔か 羽生善治 人工知能を探る」(2016年5月放送)の番組作りはスタートした。羽生さんとの最初の打ち合わせのとき、私もこう聞いた。「羽生さんは人工知能に勝てるでしょうか」。そのときの羽生さんの答えが忘れられない。
「今、将棋の人工知能は、陸上競技で言えば、ウサイン・ボルトくらいです。運が良ければ勝てるかもしれない。しかしあと数年もすれば、F1カーのレベルには達するでしょう。そのとき、人間はもう人工知能と互角に勝負しようとか考えなくなるはずです」
プロ棋士が次々と人工知能に打ち負かされるなかで、「最後の牙城」として羽生さんにかかる期待は大きいが、当の羽生さんは、今後人間が、将棋の世界で人工知能に勝つことができなくなるという見通しを持っていた。
しかし、そう答える羽生さんの口ぶりは、残念がるわけでも、悔しがるわけでもなく、いつものように淡々としたものだった。むしろ人工知能の進化が楽しみでしょうがないという気持ちが感じられた。
私たちが、この番組のレポーター役を羽生さんに依頼したのは、人工知能の進化を肌身で感じており、それでいて、その進化を、人間を脅かすものと否定的に捉えるのではなく、人間の新たな可能性を切り拓くものと肯定的に考える人だったからだ。
多くのプロ棋士が、人工知能(コンピュータ将棋)に対して、自分の存在を脅かす存在という恐怖を持っていたり、将棋から人間性を奪うものとして反感を抱いてたり、勝てるわけがない、という諦めを示していたりするなかで、羽生さんは、ものすごくフラットというか「人工知能が、将棋や人間そのものを進化させていくのではないか」という純粋な興味を抱いているようにみえるのです。
羽生さん自身が、傍からみれば「将棋の世界での、コンピュータに対する最後の砦」であるにもかかわらず。
でも、現実的にはウサイン・ボルトには勝てないよね……
羽生さんは、コンピュータ将棋について、こんな話をされています。
そもそも、人間と指す将棋とコンピュータと指す将棋は、かなり違うゲームです。
相手が生身の人間なら、相手が指した手に「この人はこう指したら、例えば五手先がこうなるので、続きはこうなっていくだろう」と、相手のキャラクターや盤面の流れを含めて、読み合いをしていく楽しさがあります。しかし、これが、人工知能が相手だったらどうなるか。
実際には、だいぶ大きく思考の転換が求められるのです。
例えば、現在の電王戦のルールでは、対戦するソフトが貸し出されます。すると対戦相手の棋士は、そのソフトを対局の日まで休まずに動かし続けて分析をして、そのプログラムが選びそうな手を確率的に予想しそれぞれの分岐の局面での対策を立てていきます。乱数(ランダムな数字)が入っているので完全な予想は不可能です。しかし、対局は一局(先後それぞれ)なので後は当日のめぐり合わせです。確率の高い局面を引けるかどうかは運次第になります。これが現在の将棋ソフトと対戦する場合の対策なのです。
この作業は、もはや「将棋を指す」と言うより、「プログラムの特徴やバグを限られた時間とリソースのなかで見つけていく勝負」とでも言うべきものでしょう。
電王戦に出場した棋士の「電気代がかかって大変だった」という、「本当?」と言いたくなるようなエピソードも羽生さんは書いておられるのですが、これはもう将棋というよりは、プログラム解析作業ですよね。
電王戦では、プログラムのバグや癖に乗じて人間の棋士が勝った試合もあり、それは「あり」なのか、と物議を醸したこともありました。
とはいえ、それが現状で人間側が勝つための最善手であることも事実なのです。
将棋の「強さ」に関しては、ある程度頂上がみえてきた印象もあるのですが、人工知能の進化は、「強さを極める」目標だけに向かっているのではありません。
しかし、人工知能の研究には、実はもう一つの方向性があるのです。それが、人間に「寄り添う」、もっと言えば「人間のような」人工知能の開発というものです。
例えば、北陸先端科学技術院大学に、飯田弘之さんという将棋ソフトの研究をしている研究者がいます。元々は、プロ棋士だった方なのですが、面白いことに自分の研究課題の一つとして、「接待する将棋ソフト」を掲げています。
それは、人間を強い手で打ち負かす将棋ソフトとは、まったく方向性を異にするものです。むしろ一生懸命人間の相手をし、気持ちを慮り、相手に気づかれないように棋力を調整し、接戦の末にちゃんと投了してくれる——そんな「接待ゴルフ」のような将棋をしてくれるソフトなのだそうです。
飯田さんは、そんな研究を10年以上も続けているそうなのですが、その進捗状況を聞くと、なかなか難しそうでした。少なくとも、飯田さん自身が「これはすごい」と思える段階には、まだ到達していないと言います。
この「接待する将棋ソフト」の難しさの理由は、「接待」が人間ならではの行動である点が大きいようです。前章で説明したように、人工知能やコンピュータの思考は、やはり人間の思考とは別物で、彼らが何を考えているのか予想をすることができません。
以前は「ものすごく強い将棋を指す」という時点で、「コンピュータではない」とされていたのです。
しかしながら、コンピュータがここまで強くなってしまうと、コンピュータが「弱い人でも勝負を楽しめるよう、手加減して『接待』できる」ことが目標になってきています。
羽生さんは、「人工知能の進化」に対する期待と興味を持っている一方で、その便利さは、人間の「考える力」を退化させてしまうのではないか、と危惧しているように感じました。
実のところ、勝負の世界では、ベストだと思う手法が通じるかどうかは、常に皆目わからないものです。しかし、そういう局面でこそ、経験値は活きてきます。
そのときに大事なのは、実は「こうすればうまくいく」ではなくて、「これをやったらうまくいかない」を、いかにたくさん知っているかです。取捨選択の「捨てる方」を見極める目こそが、経験で磨かれていくのです。
その意味で、これまでに遠回りをした経験の積み重ねも、決して無駄にはならないと思っています。喩えて言うなら、経験によって“羅針盤”の精度がだんだん上がっていくイメージです。経験の積み重ねが、年を経るなかで自分に「こっちにいくとうまくないぞ」と教えてくれて、確実な方向性が見えてくるのです。
羽生さんが取材した数々の開発者たちも、「人工知能は完璧ではない」とくり返しておられるのです。
「便利なテクノロジーに頼る」のは、悪いことではありません。
しかしながら、致命的なエラーが起こってしまった場合に、「ずっと人工知能に頼ってきて、自分で考えることをやめてしまった人間」は、その非常事態に対応することができるのか?
そして、すべてが「最適化」された世界は、本当に幸福なのか?
ちなみに、私は最近のハリウッド映画などに顕著な、徹底的なマーケティングを重ねて制作された映画を観ると、「まるで人工知能みたいだな」という印象を受けることがあります。全てのプロセスが、「計算」されているように思えて、個人的にそういう作品は無機質に感じられ、あまり面白いとは思わなかったりします。また、そもそも、「二時間以内に収めないと多くの観客が来ない」とか「何分かに一回は展開が変わらないと飽きてしまう」とか、そんなことばかりを突き詰めた先には、歴史に残る作品が生まれる気もしません。
人間は「これは今までと違う!」という作品が登場したときにこそ、「すごい」とか「面白い」とかの感想を抱くのではないでしょうか。もちろん、「売上が伸びればいいのだ」という考え方もあるとは思いますが。
僕も「マーケティング重視のあまり、みんな同じようになってしまっているハリウッドのアクション映画」には、がっかりさせられることが多いのです。
ただ、今後の人工知能の進化によって、もしかしたら、こういう経験を踏まえて、あえて「ブレ」をつくってみせる、というようなことも可能になるかもしれません。
それに、「ありきたりだなあ」って言いたくなることは多いのだけれど、「これは今までと違う!」という作品の大部分は「……けど面白くない」なんですよね。
羽生さんは、人工知能によって、これまで定義が曖昧だった、人間の「知性」というものがあらためて定義されていくのかもしれない、と仰っています。
人工知能の開発というのは、「人間を超えるもの」ではなくて、「人間の知性を解読していく研究」でもあるのです。