琥珀色の戯言

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【読書感想】ジャズの証言 ☆☆☆

ジャズの証言 (新潮新書)

ジャズの証言 (新潮新書)


Kindle版もあります。

ジャズの証言(新潮新書)

ジャズの証言(新潮新書)

内容(「BOOK」データベースより)
ジャズクラブにジャズ喫茶、時にはバリケードや紅テントの囲いの中で、誰もが前のめりで聴き入った時代の熱気、病に倒れながらも「自分の音」を探し求めた青春、海外フェスに演奏ツアーでの飽くなき挑戦、ジャズの成り立ちと音楽表現―演奏家と批評家として、終生無二の友として、日本のジャズ界を牽引してきた二人による、白熱の未公開トーク・セッション!!


 ジャズピアニストの山下洋輔さんと音楽評論家の相倉久人さんが「日本の戦後のジャズの歴史」を語り合った新書です。
 相倉さんは2015年7月に亡くなられており、この新書は、お二人の未発表対談をもとに構成されています。ちなみに、この新書の出版は2017年5月。


 正直、僕はこの新書の内容を味わい尽くすには、あまりにもジャズの基礎知識がなさすぎました。
 もっとジャズに、山下洋輔さんに詳しい人が読めば、もっといろんなものが掘り出せるであろう鉱脈みたいなものの存在は感じたのですが。

相倉久人分析はもちろん必要です。でも、後付けの分析を規則のように誤解してしまうと、「あんなのはジャズじゃない」という言い方が生まれてくる。「そもそもジャズに規則なんてあるんですか?」、ぼくなんかはそう聞きたくなってくるね。
「最近の山下洋輔は、あんなのジャズじゃない」という意見があったりするけど、ジャズであろうがなかろうがいいじゃないの、山下洋輔であれば。その人は、ある時代の山下洋輔をジャズだと思っているだけで、生身の山下さんは常に動いているし、変化している。「山下洋輔はジャズじゃない」と言う人は、自分がそう思い込みたいだけ。ジャズのミュージシャンは、みなそれぞれ自分の音楽をやっています。それをトータルに、勝手に「ジャズ」と呼ぶだけのことで言ってみれば便宜上のこと。ですから、そこからはみ出すかどうかなど問題ではない。むしろ、はみだすほうが面白い。
 日本人というのは、「あんなのはロックじゃない」とか、「あんなのは××じゃない」という意見が非常に多い。言う側はけなしているつもりでしょうけど、ときには褒め言葉だとも言えますね。


山下洋輔なるほど。


相倉:ただ、「けなしてOK、けなせば批評」という風潮になるのだけは、僕は納得がいかないんです。


 これを読みながら、海外、とくに欧米では「あんなのは××じゃない」って言わないのだろうか、と思ったんですよね。
 ネットでも「けなせば批評」と考えていそうな人は見かけますし、何かを褒めると「ステマだ!」って言われてしまいがちです。


 この対談のなかで興味深かったのは、山下さんが子供時代の「ピアノとの出会い」を語っているところでした。

山下:父の仕事の関係で福岡県田川市に引っ越したのが八歳のとき。よく覚えているのは、外で遊んで帰ってきて、泥だらけの手でピアノを触っていたら鍵をかけられてしまったこと。母によると、すでに「エリーゼのために」を弾けたそうで、始まり音の場所を教えたら、そこからたどっていって最後まで弾いたとか。で、「じゃあ、教えてあべましょう」と母が勇んで楽譜を持ってきたら、ぼくは「嫌だ」と拒否したんですね。「お勉強」になるのが本能的に嫌だったんでしょう。すると母も負けていなくて、汚い指でピアノを触られるのが嫌で、「もう触ってはいけません」と鍵をかけてしまった。


相倉:はじめから、教わるのを嫌がった、それが最初のわかれ目だね(笑)。


山下:そうですね。母が近所の子に教えているのをずっと見ていたでしょう。楽譜を読んで、一つひとつバイエルを仕上げていく。それを自分もやるのが嫌だった。だって、マネして弾けるのに、なんでわざわざ教わらなきゃいけないんだって。
 母も一度は「しめた!」と思ったでしょうけど、ぼくは本能的に嫌がった。これが音楽家としての、ぼくの出発点です(笑)。あのとき目を輝かせて素直に楽譜に向かう子どもだったら、別の人生だったでしょう。


 ものすごく「山下洋輔らしい」エピソードだよなあ、って。
 山下さんのお母さんは、それでも、「音楽好き」の才能を見いだして、ヴァイオリンを習わせることにしたそうです。
 山下さんは「ヴァイオリンは楽譜がないと絶対に弾けない」そうなので、相性というか、とにかくピアノに関しては、不思議なくらい「波長が合っていた」のでしょうね。


 フリージャズについて、山下さんと相倉さんは、こんな話をされています。

相倉:だから、「でたらめをやろう」と言っても、何がでたらめで、何がでたらめではないか、あなたたちはよく分かっていたんだよね。西武の「スタジオ200」で、何週間か音楽講座をしたのを覚えてる? フリージャズを学ぼうという回で、三パターンの実験をしたよね。最初にお客さんに、「楽器を全く演奏したことのない人、上がってください」と言って舞台に上がってもらう。ドラムセット、ギター、ピアノがばらばらに置いてある状態で、勝手にめちゃくちゃやってくれ、要するに暴れてくれ、という趣向です。五分くらいで終わるんですね。演奏しているうちになんとなく収束する。「ありがとうございます」と舞台から降りてもらう。
 次に「楽器を勉強している人、上がってください」と同じことをしてもらうと、これがちっとも終わらないんだよね。聴いていても耐えがたいだけなんです。しかたないから紙を出して、「そろそろ、終わってください」と言う。まあ二十分ぐらい演奏したかな、その録音を巻き戻してそれぞれ聴いてもらった。すると演奏した当人も耐えられないほどの、ただの騒音でした。
「では、最後に模範演奏を」ということで、山下さんを中心にしてやってもらった。そうやって、どこがどう違うかを会場の人に聴かせた覚えがありますが、ぼく自身すごく面白かった。
 そもそも壊すのは難しい。なおかつ、デタラメふうにやろうとしても、テクニックを多少持っていると、さらに終わらなくなってしまう。しかも燃焼しないからますます終わらず、疲れるまでやってしまう。だから「もうやめてくれ」と途中で言うよりしかたない。それは、「フリー」ではないわけです。プロがやればそうはならないんだ、ということを見せたつもりでしたが、つまりその辺りの違いだね。


山下:ええ。終わりはビシッと格好良く終わろう、という形式観がぼくらにはありました。どこか「カッコいい」というのがテーマにあって、特に森山の潔さは半端なかった。


「フリージャズ」とはいうけれど、「型」を極めているからこそ「型破り」なことができるのです。
 全く基礎ができていなかったり、中途半端な実力しかなかったりすると、「フリージャズ」にはならず、単なる「騒音」が出るだけなんですね。
 それは突き詰めていくと、「フリー」というより、「即興」に近いものである、ということなのかもしれません。

山下:ジャズマンにも思いつめて自死を選んだ人は少なくありません。だけど何も死ぬことはないんですよ、一晩いい演奏すれば、それだけでもう王様なんですから。

 僕は山下さんのこの言葉が好きです。
 生きていると、楽しいことばかりじゃないというか、楽しくないことのほうがずっと多いのだけれど、その「王様になれる夜」があれば、人生はそんなに悪くないような気がするから。

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