
- 作者: 小谷野敦
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2017/11/08
- メディア: 新書
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内容紹介
芥川賞と直木賞の候補作選びにはじまり、村上春樹はノーベル文学賞をいつとるのか、など、季節ごとに繰り返される文学的時事ネタがある。話題の根底にあるのは、「文学」そのものへの関心であり、境界がみえなくなりつつあるといわれる「純文学」と「大衆文学」の違いである。しかし、本当に「純文学」と「大衆文学」の区別はなくなったのだろうか。
「母子寮前」で第一四四回芥川賞(平成二二年下期)、「ヌエのいた家」で第一五二回芥川賞(平成二六年下期)の候補になったこともある著者が、『久米正雄伝』で「純文学では食べていけない=純文学余技説」を論じ、『芥川賞の偏差値』で詳細なデータブックをつくり、いま、満を持してはなつ、「純文学とは何か」。
日本における「純文学」と「大衆文学」それぞれの歴史を、過去の具体的な作品をとりあげながら考察する。また、専門分野である比較文学の立場から、ノーベル文学賞をはじめとする海外での文学賞のあり方や、とくに特徴的な英語圏における「文学」の定義づけ、そして映画、コミック、ラノベなどのジャンルにおける今日的「文学」のあり方を描く。
「純文学」という言葉はよく耳にするのですが、どんな作品が純文学か、というのは、きちんと定義されているわけではないんですよね。
『芥川賞』は純文学に授賞されると思われがちなのですが、「特定の文芸誌に掲載された作品のなかから選ばれている」だけですし。
もちろん、それらの文芸誌に載るには、その雑誌にあった内容や文体であることが要求されるのでしょうけど、個々の作品について考えれば、綿矢りささんの『蹴りたい背中』、又吉直樹さんの『火花』と、黒田夏子さんの『abさんご』、円城塔さんの『道化師の蝶』が同じジャンルとは言い難いよなあ、と。
「純文学」に関する議論はいくつもあるのだが、どうもいいのがない。第一に、それらの議論は、昭和以降の日本だけを対象にしていることが多い。「純文学」という語が、大正末から昭和初年にあらわれ、定着したからなのだが、それ以前にも、藝術的な文藝、大衆的な文藝という区別はあった、と谷崎潤一郎が書いている。
「純文学」という語は北村透谷が広い意味での「文学」つまり歴史なども含むものと区別して、詩や小説をさして使ったのが最初である。ところがそのことにとらわれて、「純文学」という語だけ穿鑿(せんさく)する学者もいる。そんなことを言ったら日本語である以上、漢語はともかくそれ以外に対応する語はないに決まっているのだからおかしな話である。
それと同じことか、海外には「純文学/大衆文学・通俗小説」という区別はない、という誤解がわりあい広まっている。『源氏物語』やシェイクスピアは純文学か、などと言って、そういう区分が無意味である、と言いたげな人もいる。だがこれもちゃんと答えることができるのである。
個人的には、この本の著者が何度か言及している、「もともと資産があるか他の仕事(大学の研究者など)を持っている人じゃないと、それだけ書いていても食べていけないのが純文学」というのが、けっこう説得力のある「分類」なのかな、などと思いました。
「いま、文芸誌に私小説をコンスタントに載せることができているのは、西村賢太さんと小谷野敦さんだけ」というのも、言われてみればそうだよなあ、と。
この新書、「純文学の定義」について追究したものだと思っていたのですが、それだけではなくて、さまざまな文学(あるいは、音楽や美術、テレビゲームにまで言及されています)の「ジャンル」についての蘊蓄を集めた内容になっています。
「純文学」の定義については、正直なところ、読み終えてもよくわからなかったのですが、その「よくわからない」ことを証明するために、古今東西のさまざまな文学のジャンルについて縦横無尽に語りつくしている、という感じなんですよね。そもそも、小説のジャンル分けというものに、どのくらいの「意味」があるのか?
とはいえ、本好き、小説好きには、「あんなのは『文学』(SF、ミステリなど代入されることも可能)じゃない!」って言いたがる人が多いのも事実ですし、分類そのものが、話のネタにもなるわけです。
さて、逍遥は、藝術である「小説」は「人情」を描き、「世態風俗」を描くべきだとした。これは現実には「恋愛とその周辺」を描き、現代を舞台とすべし、という風に働いた。つまり、歴史小説の否定であり、武士の治乱興亡や、講談にある戦の動き、剣豪の戦いといったものが批判されたのである。北村透谷なども『源氏』を正しく評価できず、かつ自由民権運動の闘士だったことから、民衆文学を見出したいという思いから、近松や人情本に目を向けた。
実は西洋でも、「純文学」の考え方は、同じ方向にあった。十八世紀から十九世紀にかけて、ロマン派とされるウォルター・スコットの中世歴史小説が流行したが、スコットには恋愛もあった。ロマン派には、中世歴史小説が流行したが、スコットには恋愛もあった。ロマン派には、中世の理想化という傾向があって、ワグナーに受け継がれるが、「文学」つまりベル・レットルの動きは、現代ものを重視する方向へと動いた。
日本では、森鴎外が「歴史小説」を書いたが、これは軍医総監で学識のある鴎外が、典拠のある小説を書いたというので認められたところがあって、大正期から始まった「大衆文学」とは切断されている。いわゆる「歴史小説」と「時代小説」の違いは、前者が実在の人物を描き、後者がだいたい徳川時代を舞台に、架空の人物を描くというところにある。もう少しさかのぼって戦国時代になると、忍者もの、剣豪ものなどがある。
どうやら、実在の人物を描いた歴史小説の数は日本が圧倒的に多く、そのことは、海外には「純/通俗」の区別がないという俗説が形成される一因をなしていると言えるだろう。海外では、通俗小説は、推理小説とその変形の冒険小説、ロマンスが一般的で、歴史・時代小説があまりないのである。通俗歴史小説としては、オルツィ男爵夫人の『紅はこべ』などがある。そしてこの歴史小説や大河ドラマのおかげで、おそらく日本人は世界的に見ても、歴史に詳しい国民だと思う。
「実在の人物を描いた歴史小説」や「時代小説」の多さは、日本の小説の特徴のようです。
イギリス・フランスあたりはともかく、アメリカでは「歴史」そのものがそんなに長くない、という事情もあるのかもしれません。
『AERA』1996年1月1・8日号に「芥川賞がつまらない」という特集記事が載っており、これは速水由紀子が書いていて、中に「欧米の文学賞「純」と「大衆」区別しない」というすごい一ページ記事がある。「英国では純文学、通俗小説の境界は消えつつある」という地の文のあと、都立大教授の加藤光也の台詞らしい「ハーレクインロマンスとミステリー以外は、カテゴリーの区別はほとんどないと言っていい」とか言っている。ハーレクインロマンスと「ミステリー」以外は、って、それ立派なカテゴリーでは。
というツッコミには笑ってしまいました。
こういうのが「ジャンル分けしたがる人たち」のひとつの典型ではないか、というのも含めて。
「純文学じゃない」「ミステリじゃない」って言いたがる人のなかには、「自分は文学をわかっている」という「権威派」や「嫌いな作品を貶めるための手段」としてジャンルを利用している「排除派」が少なくないのです。
しかしながら、こういう「ジャンル分け論」みたいなのが、小説好きにとっては、けっこう楽しいのも確かなんですよね。
著者の博覧強記ぶりには、読んでいて圧倒されます。
読んでいると、並んでいる小説のタイトルの多さと数々の蘊蓄に頭がこんがらがってくるくらいです。
それなりに小説を読んできた人じゃなないと、内容を咀嚼するのは難しいのではなかろうか(僕も3割くらいしかわかりませんでした)。
そういうさまざまなサブカルチャーから生まれたのがライトノベル(ラノベ)で、私は『涼宮ハルヒの憂鬱』(谷川流、2003)、『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』(伏見つかさ、2008~13)、『ビブリア古書堂の事件手帖』(三上延、2011~17)、『阪急電車』(有川浩、2008)などを読んだが、なんでラノベ作家は一文字名が多いのだろう。いずれも評判作だけあって面白かった。ただし一般文藝では、評判作であっても面白いとは限らないので、ラノベはまだ差別されていて、つまらないものでも評判にしてしまうシステムがないということだ。
これはこれで、「『阪急電車』はライトノベルなのか?」とか考え込んでしまうわけで、ジャンル分けというのは難しいものですね。有川浩さんなら『図書館戦争』にしておけば、僕は困惑しなかったのに。
「純文学とは何か」というタイトルからは飛び出してしまっているところが多いのですが、その「脱線している話」が面白い、そんな新書だと思います。

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