琥珀色の戯言

3000冊以上の【書評】と500作以上の【映画感想】を、ちゃんと読んで、観て書いてきたブログです。話題になったあの本や映画の感想が、たぶんあります。新書、ノンフィクション、インターネット関連本が多め。

【読書感想】ゴーストライター論 ☆☆☆☆

新書772ゴーストライター論 (平凡社新書)

新書772ゴーストライター論 (平凡社新書)

内容(「BOOK」データベースより)
出版界において、その存在なしには本づくりが成立しないともいわれる「ゴーストライター」。その実態はいかなるものなのか。佐村河内事件をスクープする一方で、多くの「ゴーストライティング」を手掛けてきた大宅賞作家が知られざる職人技の世界を描く。


「ゴーストライティング」は、悪なのか?
僕のような、本ばかり読んでいる人間は、「この(ゴースト)ライターさん、たいしたものだなあ」なんて、「ゴーストライターありき」で有名人本を読んでしまいがちなんですよね。
野球選手や芸能人や企業経営者のすべてが、読みやすい、わかりやすい文章を書いたり、ドラマチックな構成と練り上げる力を持っているわけじゃない。
というか、そういう人たちに、そこまでの文才があったら、それはそれで世の中理不尽だとさえ思います。
でも、世の中には、少なからず、「実際にはゴーストライターが大きな働きをして、文章を書いている本」を「あの人が書いた本」だと見なしている人がいるのではなかろうか。
そういう幻想に対して、「いや、あれは本人に何時間かインタビューしただけで、ライターが書いたものです」とか、「社長本人じゃなくて、広報部長の話だけ聞いて書いたものです」とか、事実を伝えるのが正しいことなのか?
そもそも、そんな本、誰が読むのだろうか?


著者は、2014年を「ゴーストライター元年」と位置づけています。
その最も大きな理由は、あの「佐村河内守事件」で、「ゴーストライティング(代作)」が、ゴーストライター新垣隆さんの存在も含め、世間の話題になったことです。
著者は、新垣さんに直に取材をし、「ゴーストライターの心境」についても、深く斬り込んでいます。
「金のため」「自分の作品を世に広めるため」そういう要素はもちろんあるのだろうけれど、「誰かの代わりに、その人の立場になって書く」という行為には、「自分で自分の作品をつくるのとは、やや異質な快感」もあるのだな、と。

 (2014年)3月7日午後2時には、漫画家の佐藤秀峰氏が、「出版におけるゴーストライター問題が気になる」と自身のブログに書き込み、自分がカバーイラストを描いた堀江貴文氏の小説『拝金』と『成金』には、ゴーストライターがいることを明らかにした。


(中略)


 佐藤氏は、堀江氏が執筆していないことを知りながらカバーのイラストを描いたと告白し、「絶対に描くべきではなかった。読者に不誠実だった」と謝罪の文章を描き込んだ。
 翌2015年1月からは、フジテレビ系列で『ゴーストライター』というドラマも放送された。


 ネットではかなり話題になった、この佐藤秀峰氏の「告白」なのですが、堀江さんのこれまでの著書でも「編集協力者」というか、ゴーストライターがいることは、「公然の秘密」ではあったのです。
 考えてみれば、あんなに忙しそうな人が、短期間にあれだけの著書を「自分だけで書いて」出せるほうが不思議ですよね。
 池上彰さんとか佐藤優さんとかは、実際のところ、どうやっているのだろう?
(彼らは、堀江さんとは違って、それが「本業」なのですけど)

 そしてもう一つ、ゴーストライティングの世界にも「絶対に規律」があることも付け加えておく。
 それは「作家」を名乗る人の後ろに幽霊がいてはならないということ。例に出して恐縮だが(わかりやすいので)、村上春樹氏の後ろで神山が書いていたということになれば、世界を震撼させる事件となる(んなわきゃねーが)。


 作家・堀江貴文が書いた「フィクション」「創作」として出版されたからこそ、『拝金』『成金』はNGだ、と佐藤秀峰さんは判断した、ということなのです。
 逆にいえば、「有名人本」とか「ビジネス書」なんていうのは、本人が直接文章を書いていないのが当たり前なのだ、とも言えそうです(この新書のなかには、そういう本の9割は「ゴーストライターによって書かれたもの」だと主張している人も出てきます)。

「ぼくがなぜゴーストライターをやろうと思ったかというと、スペシャルな人間に憑依できる喜びを感じているからです」
 堀江貴文氏のエッセイの「構成」を二冊手がけた浅野智哉氏が語る。


 僕もこの人が「構成」したという、サンドウィッチマン著『敗者復活』を「これは面白い!」と読んでいました。


 語りたい人、みんながその人の言葉を聞いてみたい人がいる。
 でも、その人は、自分の気持ちを言葉に、文章にするのが、あまり得意ではない。
 ゴーストライティングというのは、その溝を埋める行為でもあるのです。
 どんなに文章がうまくても、ボクシングの世界チャンピオンになったり、大企業の経営者になったりすることができるわけではない。
 もちろん、対象者のことを「ノンフィクション」として書くことは可能なのかもしれないけれど、ノンフィクションでは、登場人物の「内心」を描くことは難しい(というか、そんなふうに憑依してしまうべきではない、ともされている)。


 いまの出版界では、ひとりの著者だけの力ではなく、編集者やライターも含めた『チーム』で書かれた本が多くなってきており、そういう作品を「ゴーストライティング」というネガティブなイメージではなく、「チームライティング」という概念で考えたらどうか、と著者は述べています。


 その「チームライティング」のひとつの頂点として、あの矢沢永吉さんの伝説の著書『成りあがり』ができるまでの経緯が採り上げられているのです。
 インタビューとライティングを担当した糸井重里さんをはじめとするスタッフに、矢沢永吉が「憑依」していった経緯には、読んでいて引き込まれてしまいました。
 『成りあがり』は、まぎれもない「矢沢永吉の著書」ではあるけれど、矢沢さん自身に文章を書いてもらおうとしたならば、おそらく全く違ったものになったはずです。
 ただ、読み手としては、「文章のプロの手が入ったもののほうが、読みやすく、面白くなる」のは理解できるのだけれど、「それは、どこまで『著者』の真意が反映されているものなのだろうか?」と感じるのも事実です。
 自分で自分のことを書くにしても、文章にすると、実際の「意思」とは、違っているものだから、考えても仕方が無いのかもしれないけれど。


 出版界の「新書ブーム」について、こんな話も出てきます。

 新書は、本の成立要件をギリギリ切り詰めて成立している。判型が定型であるばかりでなく、表紙や内容のデザインもほぼ均一で、単行本にくらべるとコストも手間もあまりかからない。原稿用紙250枚から300枚程度の原稿があれば、次々と入稿することができる。
 テーマが雑誌のように「何でもあり」の状況になっているのも、出版社側にも事情がある。ここ数年雑誌の休刊が相次いで、編集者が余ってしまった。雑誌の編集経験者を新書の編集部に移籍させることが多く、本来なら雑誌で扱うようなテーマも、内容的にもうひと掘りふた掘りして新書で出そうということになる。その結果、フィクション以外ならなんでもありの状況になったのだ。
 そうなると、著者として立つのはその世界の専門家ということになる。ビジネスコンサルタント、評論家、大学の先生、スポーツ選手、タレント、医師、税務関係者といった人たち。いずれもプロとしての書き手ではないことは明らかだ。もちろんジャーナリストが税務の世界を調べ尽くしてその内実を書いてもいいわけだが、「まえがき」にも書いたよに、読者もまた「その世界の当事者の言葉で読みたい」というニーズが高まっている。
 その結果、新書の世界ではプロの書き手ではない著者をライターが支える比率が高いと言われている。
 もちろんそれは一般のビジネス書でも同じだが、新書戦争が続く限り、出版界ではゴーストライターのニーズは高まるばかりと言えるだろう。


 僕も新書をよく読むのですが、やはり「著者の名前」って大きいんですよね。
 その人自身が文章まで書いているのではないのだろうな、と思いつつも。
 これは、新書のレーベルによってもけっこう大きな差があって、岩波新書中公新書は、「ずっとその分野を研究してきた人が、『一生もの』として自分の研究成果を書いている」ものが多くて、どことは言いませんが幻冬舎新書(言ってしまったじゃないか……)などは、「とりあえず有名人を連れてきて、雑談させてハイ一冊!」みたいなつくりの本が目立つように感じます。
 ただし、読む側としては、岩波や中公は「重い」というか「読むのが大変」で、「有名人雑談新書」のほうが、読みやすくて重宝することもあるんですよね。
 岩波や中公の著者には学者が多く、自分で論文を書くことに慣れているので、著者自身が文章まで書いていることが多いのでしょう。
 それは、真摯な姿勢ではあるのだけれど、「論文調で読みにくい」と感じてしまうこともあるのです。
 逆に「有名人の雑談」では、編集者の手が入りまくっていますから、「読みやすくされている」。

 何冊ものベストセラーを持っている著名な大学教授が、ある雑誌の対談のオフレコで、友人のやはり高名な大学教授に対していみじくもこう言ったという。
「君の本が売れないのは自分で書いているからだよ。本は他人に書いてもらったほうがいいんだ」


 僕自身は、「有名人本」とかを読むのが好きですし、「チームライティング」の意識の高まりからか、昔よりも「有名人本」は面白くなってきたのではないか、と感じています(もちろん、「良いものを選べば」ですけど)。
 本人にちゃんと取材をすることと、クレジットで「構成協力者」や「ライター」を明示することが守られていれば、「ゴースト」は悪ではない、と思うのです。
 「実際に書いていない人の名前が、『著者』としていちばん大きく表記されている」のは、やっぱり何か違う気もするんですけどね。


創作系ゴーストライターのつくりかた: 付録・フリーゴーストの仕事術

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