Kindle版もあります。
世界最大級のコレクション数をほこる民族学と文化人類学の聖地は、大阪吹田市の万博記念公園にある。黒川紀章による初期の代表建築。特撮ものの悪の秘密組織としてロケ地に使いたいというオファーもあったとか。
民博には、自分の目で確かめないと実感できないカオスが広がっている。
おびただしい数の仮面、民族衣装、儀礼のための怪しげな道具、世界のパンから、墓標まで……「なぜこれを持ってきた?」と言いたくなる不思議な資料の数々を、剥き出しで展示している。
民博は世界を見つめる異世界だ。
にもかかわらず、民博には学芸員がいない。なぜ?
展示の背景には人がいる。
世界中から膨大な資料を集めてきたのは
いったい何者なのか?民博は普通の博物館ではない。博物館という名の研究所で大学院機能も併せ持つ。だから勤務するのは学芸員ではなく研究者ということになる。
物ではなく、人。
民博の人たちにフォーカスする。国立民族学博物館教授で広報誌『月刊みんぱく』の編集長を務める樫永真佐夫教授をガイド役に、民博の舞台裏に迫る。ありそうでなかったノンフィクション。
国立民族学博物館、僕も行ったことがあるのです。
大阪へ旅行に出かけた際に、あの『太陽の塔』を一度くらいは観ておきたいな、と思って万博記念公園へ。
「ついでにちょっと覗いてみるか」と『民博』に入ってみたのですが、そこにあったのは、これまでの僕の美術館・博物館の常識を覆す光景でした。
中がとにかく広くて、展示物はガラスケースに入っているわけではなく、雑然とたくさんのものが並んでいる。
怪しげなお面や船、海外の日常生活用品などが、ただただ大量に、解説もあまりなく雑然と陳列されていて、なんかすごいような気がするけど、どんなふうに観ていいのか、よくわからない。
そのときは入場者も少なかったし、なんだか館内にいると怖くなってきたのです。
それと同時に、身のまわりの好きなものを集めていた子どもの頃のおもちゃ箱の巨大版のようで、けっこうワクワクしてもいました。
そんなに時間もなかったので、駆け足で館内をひととおり観て(というか回って)、今度はもっとちゃんと時間を作って来よう、と思った記憶があります。
それからはや、30年くらい経つのだよなあ……
あれだけの施設で、コアなファンも多い「民博」なのですが、その内側を取材した本は、これまで「ありそうでなかった」のです。
この本を読むと、あまりにもいろんな研究者がいて、さまざまな展示がありすぎて、「まとめる」のが難しかったからなのかな、とも思います。
正直、この本も、たくさんの研究者たちの名前が出てきて、けっこうゴチャゴチャしている印象はありました。
そういう「カオス」が民博の魅力なんでしょうけど。
国立民族学博物館、通称、民博(みんぱく)。文化人類学と民族学をテーマにした世界最大級の博物館だ。研究者たちが世界中から集めてきた、生活や儀式で使う用具、民具、民族衣装を34万7000点!(※2025年3月31日現在)も所蔵し、うち1万2000点を本館展示(いわゆる常設展示)している。
と、言ってもいまいちピンと来ないかもしれない。が、たとえば、東京上野にある東京国立博物館の平常展(東博コレクション展)の展示数が3000点以上(所蔵や寄託の点数は12万点以上)と言えば、そのスケールをおわかりいただけるだろうか。
展示方式がどんどん「お洒落」になってきている昨今の博物館のなかで、「民博」の「見せたいものはたくさんあるんだけど、スペース的におさまらないので、詰め込めるだけ詰め込んでみた!」という潔さには、なんだか自分の散らかった部屋をみるような感情もわいてくるのです。
紹介されている研究者たちのエピソードを読んでいると、「学者」というイメージとは違う、元テレビ制作会社勤務やアーティスト、元ボクサー、目が見えない人など、「偏差値が高い大学を出て、大学院から研究者へ」という一般的なルートから外れ、自分がやりたいこと、できることをやっていたら、いつのまにか「民博」にたどり着いていた、という人が大勢いるのです。
民博の本館展示場の出入り口付近、「探求ひろば」という一画に、かなり地味だが、好きなコーナーがある。「研究の現場から」と題された展示だ。
壁に大きな世界地図、その上にたくさんの写真付き展示パネルが配置されている。この世界地図は、民博の研究者と、研究地域、そしてその研究内容を端的に示すものである。
たとえば、・風と共に生きる人々の過去・現在・未来/鈴木英明/インド洋
・本当の強さとは?/相鳥葉月/中東・アラブ世界(主にエジプト)
・「世界の屋根」で言語を渉猟する/吉岡乾/パキスタン北部
・古代壁画を解き、まもり、継いでいく/末森薫/中国(甘粛省・遼寧省)、エジプト、バーレーンなど
・アンデスの宗教文化の現在/八木百合子/ペルー南部クスコ県およびアプリマック県といった具合。
なぜこの展示が好きかって? 民博の後ろにいる人たちの顔が薄っすら見えてくるような気がするからである。
民博の本館展示の特徴は、その異常なブツ量と、展示資料をガラスケースに入れない剥き出しの展示(露出展示)だ。にもかかわらず、展示場には驚くほど職員がいない。警備員の数も少なければ、他の美術館や博物館で見かけるスーツ姿の案内員もいない。
樫永先生いわく「それ、お金ないだけちゃうか……」ということだったが、印象的なのは人の少なさだけではない。展示されている物を紹介する展示パネルの文章量もやたら少ないのだ。すると何が起きるか? 展示パネルの前で立ち止まって、必死で文字だけを目で追い、肝心の展示をまともに見ないということが起きにくくなる。
情報が最小限しか与えられないことによって、来館者はおのずと、ひたすら「ブツ」と向き合う時間を過ごすことになる。その時間には「ブツ」をここに運んできた研究者の存在さえ介在させますまい──民博の展示はわざとそのように仕掛けている印象さえある。
自分が持ってきた展示資料について研究者は言いたいことが山ほどあるはずだ。それでもうるさく口を挟んでこない。最小限だけ説明して、あとは微笑ましそうに頷いている。そんな印象。
いきなり、「本当の強さとは?」なんて問われたら、ちょっと困惑しますよね。
研究の成果を来館者に押し付けるのではなく、「これがどう見えるか?」「あなたはどう見るのか?」を問いかける、民博にはそんな雰囲気があるのです。
まあ、それは好意的にみれば、という話で、「なんかわけがわからないものが、ほとんど説明もなくやたらとたくさん展示されている」というのは、美術館・博物館慣れしていると、なんだか不安にもなってくるのです。
自分は、この展示をちゃんと見ることができているのだろうか、と。
「ちゃんとなんて、見る必要ないですよ。その人が感じたことを大事にしてください」というスタンスなんでしょうし、押し付けないスタイルがハマる人にはとことんハマる博物館、ではあります。
「文化人類学」という学問、その研究のアプローチが、僕が民博を訪れた30年前とは、だいぶ変わってきてもいるのです。
国立民族学博物館教授で(民博は研究機関で、学芸員ではなくて、「教授」がいるのです)、文化人類学者として東南アジアの民族学を専門にされている樫永真佐夫先生は、こんなふうに仰っています。
「いまは、現地に行って、そこの暮らしにどっぷり浸かって、一緒にいすぎてしんどいな、とか思いながらやる、そういう学問じゃなくなってきているんですよね」
また、いろんなビジネスの世界で語られるタイパやコスパの概念が文化人類学の研究分野にも浸透してきている。
「いまの研究環境では、まず目的を明確にし、かなり限られた時間内で、その目的を果たすことが求められます。電話したり、ZOOMを開いたりなどで効率化を図ることができる反面、目的以外のアソビの部分で発生する何かにいちいちかかずらってはいられないかも。フィールドワークにしても、今は現地の人に電話やメールで確認することだって可能になっています。昔の経験を話せば、とにかく現地の人にコバンザメのようにくっ付いて、ちょっかい出さない程度に(?)話しかけてみたり、真似してみたり、じっくりゴソゴソやっていたのでした。ところで、なんでそんなにフィールドワークにはそんなに時間がかかるのか。もちろん言葉の習得の問題もありますが、調査とか以前に、人との信頼関係を築き、ある社会のなかで一定のところにおさまるのって時間かかるんです」
フィールドワークの目的は単に情報やデータを集めることではない。現地の人たちと関係を築きながら彼らの文化や暮らしを深く理解する。この「深く理解する」の部分は、たしかに効率化とは相性が悪い。
文化人類学・民族学の変化は、その研究成果を展示している民博の存在価値も変えてしまうのではないかと樫永先生は考えている。
「民博も、いまは、ヨーロッパとか東南アジアとか地域ごとに分けて、こんな文化がありますって展示しています。でも、20年もしたら、『へえ、20世紀の人らの地域イメージって、こんなんやったんか』ということになるかもしれないですよね」
「なるほど。言われてみると、日本の民俗学がそんなイメージですよね。一般の人間にとっては、いまのことを知る学問というよりも、かつて日本のいろんな土地にあった風習を知る歴史の一部のようなイメージがあります。そうすると民博もやがて、『世界の現在』ではなく『世界の過去』を展示する歴史博物館みたいになっていくんですかね……」
インターネットが普及し、アフリカの発展途上国でもスマートフォンが急速に普及してきている時代です。
世界はグローバル化が進み、どんどん「フラット」になってきている。
それは、個々の人間の生活水準の上昇、という点では好ましいことではあるのかもしれませんが、独自の文化の維持というのは、難しくなっているのです。
僕が民博を訪れてからの30年間で、「文化人類学」は、大きな転機を迎え、民博も、「以前は、こんな生活をしていた人たちがいたんだねえ」というタイムカプセルのような役割が大きくなってきているのかもしれません。
その流れは、これから加速することがあっても、逆行することはないでしょう。
鈴木英明先生のこんな言葉が、僕はすごく印象に残りました。
「歴史では、普通に生きている人のことっていちばんわかりづらいんですよ」
僕もふと考えることがあるんです。
子どもの頃、ふだんの夕食では、どんなものを食べていたかなあ、って。
誕生日のごちそうや家族での外食、母親の得意料理とかは思いだせるんですが、「日常生活」は、記憶から抜け落ちてしまう。
1年が365日なら、350日くらいは「ふつうの日」のはずなのに。
「国立民族博物館」は、好きな人はとことんハマる博物館だと思います。
合わない人はまったく合わないだろうけど。
もしこれを読んで興味を持たれた方がいれば、ぜひ、一度訪れてみてください。
とりあえず、一見の価値はある、その素っ気なさも含めて、話のタネにはなると思うので。










